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「侍君、海は好きか」

「海は……好きです」

「それは良かった」

 片側の窓からはコンクリートで固められた山の斜面。片側からは海が見渡せる崖の上。そんな景色がしばらく続いた。

 車を運転するのは伊里塚と名乗った若い教師で、うねる髪を短い一本結びにまとめた、気怠げな雰囲気の男。

 後部座席の笠原とは、その会話をしただけで後は口を閉ざした。モーター音の響かない電気自動車の中は、籠った沈黙に満ちた。もっとも、笠原にはそれが有難かったが。

 やがて、車道の脇にぽつんと建った、古い木造の二階建ての家が車から見えた。

 何だあれは。

 率直な感想である。我が目を疑い、それを凝視する。まさか……あれじゃあるまいな、と笠原が思ったら、読まれたようなタイミングで伊里塚に「あの家だぞ」と言われた。

 ――戦慄の事態である。

 だってあれは……絶対おかしい。

 ところどころ茶色を残して真っ黒く変色した壁、寄棟型の屋根、五人くらいは住めそうな大きさ。だが、笠原の注目は建物の外観ではなく建っている場所に注がれていた。

 何ということだろう。この家は崖っぷちに建っていた。裏手に地面が無いのだ。激しく命の危険を感じた笠原は、そこしか見ることができなかった。

 冗談だろ……こんなの。下の地面が崩れたら一巻の終わりだ。

 まもなく到着して、最初に降りた伊里塚が段ボールを運びがてら、玄関の引き戸に手を掛けた。

「あれ……開かね」

 ぼそっと呟いて、すぐに引き戸から手を離した伊里塚。続いて降りた笠原はスマホの時計を見た。

 十六時十四分。着くのは十六時頃と伝えたらしいが、家の鍵を持つ生徒が帰ってなかった。まぁ、きっかり十六時に来たところでその生徒は馬鹿を見たことだろう。

 荷物は運び込めないから、全部玄関前に置いた。それから笠原は気になって仕方なかった崖の下を覗きに行った。もちろん、ここがどう崩落してどう壊れるかのシミュレーション及び心の準備のためである。伊里塚は後ろで鍵の持ち主に電話をかけていた。

 真下には砂浜があって、崖に沿って左右延々と続いている。すぐ向こうには海が広がっていた。せめて真下も海だったなら……と、落胆する笠原。砂浜からここまでの高さは十五メートルほどだろう。

 この家が砂浜へ真っ逆さまに叩きつけられたら……想像するだけで恐ろしい。改めて命の危険を確認するだけになった。

「電話出ねぇー……」

 怠そうに文句を零しながら、スマホをしまって伊里塚がこちらを向いた。

「何だ、高所恐怖症か?」

「これ……地面が崩れるんじゃあ、」

「強く造ってあるんだな、これが。沿岸は特にな。地震が起きても地割れ一つ起きねぇよ。人工島の恩恵ってやつだな」

 気安い物言いに胡乱な目を向けるが、彼は一緒になって下を覗き込んでいる。

「まぁいいや。とりあえず分からんことは明崎か須藤らへんに聞いといて。実際に住んでんのアイツらだし」

「はぁ……」

「じゃあ俺学校に戻るから、アイツらによろしく」

 説明は明崎・須藤某コンビに丸投げして、そのまま伊里塚は立ち去った。丸っぽい電気自動車が静かに去って行くのを見送って、笠原はふっと小さなため息を零す。

 張っていた気が緩んだ。けれど入れ替わるように襲ってきたのは足元から冷えていくような心許なさだった。

 先行きはいつでも暗い。油断していたら、すぐに足元を掬われてしまう。

 ……何も考えたくなかった。

 笠原は玄関に戻らず、その辺を軽く散策しようと崖沿いを歩いた。

 潮風がここまで吹き上げてくる。サァ……と遠くで打ち上げられる波の音と、アスファルトに擦れる足音と、自分の息遣いしか聞こえてこない。

 そのうち、下の砂浜へ降りられる階段を見つけた。崖を荒く削って、大きな段差で造られた人工のもの。

 荷物は玄関に置きっ放しだが、ここは人通りが少ないからそう盗られたりしないだろう。盗られて困るものもない。笠原は階段をゆっくり進み、砂浜に降り立った。

 泡立つ白波を見て思い出す。さっき備え付けの水道を見つけたのだ。何故思い出したのかといえば、海に入りたいと思ったからで。

 ……水道があるなら海に入れる。

 笠原は迷わずスニーカーと靴下を脱いで、ジーンズを捲った。素足で砂を踏むと、案外硬い感触だ。けれど砂が僅かに指の間に入り込む。それが何だか嬉しいし、砂の感触が気持ちいい。

 真っ直ぐに海を目指した。

 ここ何年か触れる機会が無かった。それ以前に海に近い環境で暮らしたことはなかったから、訪れたのも三回ぐらいしかない。笠原は、波の中に足を滑り込ませた。

 少し冷たかった。

 さらに歩みを進めて、ふくらはぎの半ばまで浸からせると、水が早速纏わりつく。不思議だ。水に浸かると生気を得たような感覚を覚える。

 ただ突っ立っていてもいいが、このまま砂浜沿いに歩いてみようか。家から離れる方向に足を向けて、進もうとする。と。

「転校せーーい! 帰って来ーーいっ!」

 誰かの大声が聞こえた。振り返って崖の上を見上げると、高校の制服を着た男子が階段からこちらを見ていた。


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