ワンナイトフォーエバー
あれは、忘れられない夜になったよ。
月曜日。
朝から猫宮家に迎えに訪れた犬島に対し、猫宮は感慨深げにそう言った。
思いに沈んだように伏せられた瞼。吐息をこぼす唇。物憂い横顔には得も言われぬ色香が漂っていて、普段から見慣れている犬島もこのときばかりは息を止めて見入ってしまった。
前日、何かと理由をつけて犬島は猫宮家を訪れなかった。広い屋敷には、朝から晩まで龍子と猫宮の二人きり。
明けて月曜日、猫宮のこの態度とくれば、期待しない方が無理というもの。
朝食の準備のためにジャケットを脱ぎ、エプロンを身につけ、しゃもじを手にしていた犬島は、ごくりと唾を飲み込んで尋ねた。
「お赤飯が良かったですか……?」
迫真の問いかけ。
猫宮は顔を上げ、犬島を見つめて口を開いた。
「赤飯? 何か祝い事でも? ああ、そうだ、知ってるか柚希。北海道では赤飯を甘納豆で作るらしいぞ。どう思う、甘い赤飯」
「ははぁ、それは古河さんにご教授頂きましたね? お二人で将来の話でもなさったんですか。誠に素晴らしい。お互いの家庭環境や食習慣のすり合わせは大切ですからね」
「なんの話だ?」
きょとんとして、聞き返される。
この日の猫宮は、どうも話の通りが悪い。
犬島は首を傾げながら、確認の意味を込めて尋ねた。
「忘れられない夜になったんですよね?」
「コタツなぁ……。あれは本当にすごいなんてものじゃない。骨抜きにされた」
「コタツ」
「今までコタツを知らないで生きてきたのが信じられない。ビフォーコタツとアフターコタツで世界が違って見える。フォーエバーコタツ。一晩一緒に過ごしたらもう、離れられる気がしない」
しゃもじ(置くと立つタイプ)をそっとワゴンに置き、犬島は左手で眼鏡を軽く持ち上げ、右手で目元をぬぐった。
「颯司さんに期待した俺が馬鹿でした。コタツとタツコ、ほんの少しの違いなのにどうしてこうなった……」
どうした柚希、とのどかに尋ねてくる猫宮の声に、「おはようございまーす!」という龍子の声が重なる。
「今日も犬島さんのごはんが食べられるなんて、感激です! 昨日は一日家にこもって資料を読んでいたので、デリバリーピザざんまいでした。ピザはピザで美味しいんですけど、和食はまた格別ですよね~!」
明るく言いながら、テーブルを横切り犬島のそばまで歩いてくる。
黒髪はきちんとブラッシングされてさらっさら。化粧も工夫したらしく、数日前と打って変わってアイシャドウを使い、アイラインも入れているようだ。
もとからはっきりとした顔立ちだったが、垢抜けて綺麗な印象に様変わりしていた。努力家らしい。
「おはようございます、古河さん。今日は気合が入っているご様子で」
「はいっ。秘書課に異動したからには、秘書としてバリバリ働きます! 犬島さんのお手を煩わせてばかりいないよう、がんばりますね!」
コンプライアンス的に。
たとえ褒める意味合いであっても、容姿について触れるのはあまり良くないというのが現代の風潮。ゆえに、犬島も龍子の明確な変化については触れなかった。心の中では実際かなり感心していた。
これが猫宮との関わりの中で起きた変化なら、どれだけ良かっただろう、とも切実に思っていた。口にはしなかったが。
少しだけ未練がましく、一応の確認はした。
「社長がコタツがどうこう言ってるんですけど、何かありましたか?」
「ああ~……コタツ。土曜日の夜、猫チャン社長が部屋に来て。人間に戻ったは良いけど、床で寝たまま起きなくてですね~。仕方ないから、コタツにつっこんで寝て頂いたんです。コタツで寝るって体に悪いそうですけど、一日くらいなら良いかなって」
「なるほど。社長はコタツで一人寝」
「それで社長、コタツが気に入ってしまったみたいで。昨日の晩も部屋に来たんですよ。コタツでいいから寝させてくれって。あの、猫だったので、部屋に入れました。朝までコタツで寝てましたよ」
あはははは~、と笑いながら言う龍子。
その笑顔を、犬島はじっと見つめた。
(土曜日の夜に、社長が猫で部屋に来て、人間に戻ったけどその場で寝続けた……? どうやって人間に? それに、昨日の夜も猫化した状態で部屋を訪れ、コタツで寝たというけど……、いまは人間だな?)
「古河さん、ちょっといいですか」
「は、はいっ、なんでしょうっ!?」
引っかかったことがあったので、犬島は龍子に尋ねようとした。
質問を口にする前から、龍子の反応がおかしい。目が泳いでいる。明らかに何かを隠している態度。
ふふっ。
犬島は艶然と微笑んで、眼鏡をかけなおした。
「いえいえ。社長がタツコさんと過ごした夜を『忘れられない一夜になった』と言っていたものですから、どうだったのかなぁと」
ワゴンから煮物の皿を取り、テーブルに並べていた猫宮が、即座に反論。
「コタツだ! 俺はコタツと言ったぞ!」
「犬島さん、事実誤認です! コタツですよ、社長はコタツLOVEです! タツコではないです!」
龍子まで必死の形相で言い返してくるのを、小鳥のさえずりのように心地よく聞き流しながら、犬島はにこやかに言った。
「了解しました。それでは、本日の朝食をどうぞ」
* * *
(犬島さん、怖~い! 絶対やばい、何か勘づいてる~!)
からくも乗り切った朝食の後。
会社に向かう車中で、思い起こすだけでドキドキと動悸の乱れる心臓をスーツの上から手でおさえて、龍子は溜息をついた。
猫宮が、人間状態にもかかわらず、正体をなくしたまま龍子の上で寝てしまった土曜日の夜。
龍子はなんとかその下から這い出して猫宮を起こそうとしたものの、果たせず。ベッドに運ぶのも諦めてコタツをかぶせてその場で寝させたのだ。
翌朝、猫宮は「なんで人間に戻ってるんだ?」と不思議そうにしながらも、龍子の部屋で一晩過ごしたことを丁重に侘びて出て行った。
その後日中は二人で猫化に関する資料を調べて過ごし、夜。
食事を終えて解散し、部屋で寛いでいた龍子は、ベッドの下にまたたびが落ちているのを発見。部屋を抜け出して、もとあった部屋のサイドボードに戻して帰る途中の廊下で、猫になった猫宮に遭遇。
――俺のことは気にしないでくれ。そのうち人間に戻るだろう。
哀愁を漂わせた三毛猫に言われて、龍子は(あ~~、今朝戻っていたのはキスのせいかもしれないから、このままだと戻らない可能性も~)と悩んだ末に。
――猫のままだと何かと不便でしょうし、不用心ですから。コタツで寝るなら良いですよ、部屋に来ても。
(誘ってしまったんですね~~! 私から。だってあんなしょぼくれた猫、むざむざひとりにできないし……)
猫宮は「コタツ……!」と目を輝かせ、そそくさとついてきた。大体にして、猫のときの猫宮はかなり欲望に忠実なのだ。コタツの魅力に抗うなど、無理というもの。
こうして、猫宮はコタツに入り、丸くなって寝た。
龍子は、猫がよく寝たのを見計らってから近づき、そっとその鼻先に口づけをした。猫宮はその場で人間に戻ったが、よく寝たままだった。
そして迎えた今日の朝。
(さすがに社長も勘づいていたっぽいなぁ……)
コタツから起き上がった猫宮の朝イチの挨拶が「おはよう」ではなく「ありがとう」だったのだ。
――ええと、お部屋で過ごすのOKの件ですよね。いえいえ、礼を言われるようなことでは。ここはもともと猫宮社長のご自宅ですから!
早口でごまかした龍子は、もう猫宮の顔を直視することができなかった。
朝の光の中で見た笑顔の猫宮は、髪の寝癖まで絵になる完璧な美青年。ここにきてようやく、龍子は猫宮の美貌の威力に気付いてしまった。
以来、うまく目を見て話すことができない。
「そういえば、昨日の資料読みで何かわかったことありましたか」
意味もな龍子が窓の外を見ていたそのとき、犬島が運転席から猫宮に尋ねる声がした。
猫宮は「そうだなぁ」と考える様子で答えてから、何気なく続けた。
「日程の調整をしておいて欲しい。一度、古河さんのご先祖さんの線からも調べてみたい。近いうちに函館に行く」
そこまで言って、助手席から龍子を振り返る。
「もちろん古河さんも一緒に。泊りがけになるかもしれないから、準備よろしく」
(函館……!)
しばらく帰省をしていなかった龍子は、その単語に敏感に反応した。
前のめりになりながら、勢いよく返事をする。
「はい! 美味しいお店いっぱいありますんで、気合を入れてご案内しますね!」




