エピローグとプロローグⅡ
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幼い頃の自分が生まれ故郷である里を必死に走る姿を見るなんて日が訪れるとは夢にも思わなかった。
自身の分身「ドッペル」と呼ばれている過去の自分は、なんてひたむきでまっすぐなことか。今彼は、その腕に抱えた小さな温かい生き物のためにだけ走っていた。
すべてのきっかけがあの相原の地だったなんて、なんて皮肉なことだろう。誰も止めることができない速さで世界が崩壊した今、誰もが愛するものを失いつくしたような今、神と呼ばれる存在がいるのであればこの位の人間の無謀を許してくれるだろうか。
長官が亡くなったビル倒壊のきっかけがタンポポの綿毛であるとアトモスが計算結果を示した時、俺は何度もそれを計算し直した。けど、結果が変わることはなかった。飛散した綿毛が入り込んだアスファルト。萌え出でる芽が張る根は徐々に地盤へと広がっていき、数年前の大地震の余震によって偶然できていた亀裂に到達する。あとは、想像の通りだ。そして、それによって発生した事故によって訪日中の米国通商長官が死亡し、激化した貿易摩擦に伴う世界経済混乱に乗じるかのように発生した第6次中東戦争を発端に東西の対立は激化し、ついに第3次世界大戦が発生した。かねてから核保有国とされていた国々は牽制を続けていたものの、ついにしびれを切らせたアジアの小国がそのボタンを押したのだった。そこから地球環境の激変、人口の激減、文化の衰退まで一瞬だったように思える。
アトモスが修正すべき「最初のドミノ」に選んだのはタンポポの綿毛だった。
ただし、誰にでも簡単に想像がつくように「過去への介入は最小限になされるべき」という考えは通念事項として我々の定石となっている。また、可能な限り過去を変えるのは当時の人間の手によってというのも、大事な要素だった。何度もコンピューター上で修正のシミュレーションを行っても、「飛んだ」我々が手を下すよりも当時の人の手によって行われた改編の方が「介入影響係数」が低いことが分かった。
だからこそ、我々が行うのは直接修正ではなく間接修正なのだ。そのために今回のアトモス計画では「HNZ(ハリネズミの意)-003」をドッペルのもとに送り込み、ウイングが監視及び報告役として残ることになったのだ。
半年前のあの日、土砂降りの川沿いの遊歩道で幼い自分に託したハリネズミ。当時部の自分がハリネズミを飼いたかったことを思い出したことがきっかけだった。高度に品種改良され、警察犬以上に忠実に任務の遂行ができる個体へと昇華したハリネズミこそ「HNZ-003」だ。そして、ドッペルとして選んだのが自分というのは最大のリスクヘッジでもあったが今ではそれが最善であったと言える。とはいえ、我ながら里志少年はよく頑張ってくれた。マグの様子をつぶさに観察し、原因と動向を調査し続けた。結果、あの夜にたどり着けそうなのだ。
全てが元戻った後で自分をうんと褒めてやらないといけない。そして、何よりこの時代でも、過去でも一番近くで支えてくれたウイング、いや翔子を生涯をかけて愛したいと切に願っている。その名前からウイング「羽」を言う名を冠した彼女は文字通り未来への羽なんだ。
白衣にあしらわれたハリネズミのモチーフから成る我々の組織のマークを強く握る。里志少年の歩く未来で翔子と出会えることは俺はどこかで確信している。
子供たちが歩くべきは平和な未来でなくてはいけない。
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「ここビーハイブはこのシェルターの最も象徴的な場所であり耐熱性と通気性を併せ持ち――――」
白い口ひげを生やした白衣姿の壮年の男性が、彼ら東都理科大学物理学部の学生たちにその蜂の巣を模した八角形構造を細かく解説をしていく。学生たちはその一言一句を聞き逃さまいと手元のタブレットもマイク部分を男性の方へと傾け自動音声文字起こし機能で記録を取っている。
ここ蜂の巣シェルターは世界に先駆けて日本の開発チームが完成させた核シェルターである。東京都の地下深く地下鉄を避けるようにち密に設計されたこの巨大シェルターは都民のおおよそ三割である200万人を収容することが可能なとてつもない規模で設計された。その一部にはもともと都民向けの地下備蓄倉庫なども含まれている。そのため、面積だけで言っても世界一であることは間違いない。しかし、世界一なのは面積だけにとどまらず使用されている技術の数々も日本が世界で初めて実現をしたようなものが数多く使用されている。
例えば、今まさに解説役の男性が指し示した今はただ真っ白なだけの天井。無機質な天井にも見えるそれには、精巧なプロジェクターによる空の映像を映し出すためのスクリーンである。突如として美しい青空が映し出され学生たちから歓喜の声が上がる。しかもそれは創作物ではなく世界中に置かれた観測カメラをもとに映し出されるライブ映像だ。ただし、それだけであれば何も物珍しい技術ではない。問題はそれを管理するAI、つまり人工知能の方である。彼または彼女が映し出す空の映像はその空間にいる人間たちの状態をスキャンしたうえで、今最も求められている天候を映し出すようにされている。掻い摘んで説明すれば、人工知能が人間の心理状態を判断して最適な環境づくりをするということである。しかも、自発的に。開発者はかの人工知能に「アトモス(空気)」と名を与えた。アトモスは疑似的な天候管理の他、空調管理、室内栽培植物の管理、備蓄の在庫管理などこのシェルターを維持するための一切を取り仕切っている。つまり、人がいなくてもアトモスはシェルターを己の力のみで維持することが可能となった。
世界一平和と言われる国が作り上げた世界一平和で高性能なシェルターだ。アトモスこそ、あの大戦からと止まることなく日本が進み続けた集大成ともいえる存在である。新年度を迎える来月4月の初日に完成を迎えるわけだが、そこに先駆けてこの一大プロジェクトに関わっている教授を有する大学の学生を招いて先行公開をしているわけだ。
「あの……ハリネズミ好きなんですか?」
俺に声をかけてきたのはショートカットの似合う女性だった。同じ科に在籍しているとはいえ名前も知らない。
「え」
「急にごめんなさい。そのワッペン、可愛いなと思って」
そう言って女性は俺のペンケースに張り付けられた古ぼけたワッペンを指さす。
別段何かが書かれているわけでもないし、どうしてこれを持っているか分からないまま、大切な物のような気がして小学校のころから捨てられずに肌身離さず持っていた。
俺は正直に「これ、なんだか捨てられなくて」と笑う。
「そういうのありますよね。あっ、わたし、翔子です。鑑翔子。同じ科ですよね。よろしく」差し出された握手に答えながら、俺も自己紹介をする。
「どうも、緑川里志です」
「私、里志君のこと知ってるんです」
「えっ」
俺はあっけにとられる。なにせ、俺自身は申し訳ないくらいそれはそれは真っ白に何も知らない。むしろ、ちょっと怖い。
「驚かせてごめんなさい、私、小学生の頃、『あいはら科学教室』に通っていたんです。おばあちゃんちが相原にあって、夏休みとかの時期だけなんですけど。里志君、あそこにいましたよね」
記憶の奥底に沈んでいたショートカットの、無口な、でも俺をチラチラ見ていたあの少女の顔がぼんやと浮かんできて目の前の女性と重なった。
「あっ」
「よかった、思い出してもらえましたね」
その瞬間、なんだか不思議とこの人と一生いるんだろうなって気がした。
人生で二度目だった。これを幻想的っていうんだと確信した。
未来は先が見えないぐらい眩しいくらいが丁度良い。




