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1.夢をわすれた子どもたち



 準備は整った。


 男は仄暗い回廊に揺らめくともしびを見渡して、口角を上げた。


 さながら作品の出来ばえに満足した彫刻家のように。あるいは半音の狂いなく情熱を注いでピアノを弾ききった音楽家のように。


 滅多に笑わなくなって久しいが、表情を取り繕うのは得意だった。固まっていた表情筋はすぐに柔軟さを取り戻す。


 それもこれも、このような空間で長くひとりで過ごしてきたせいだ。顔の筋肉も固まるというものである。


 最後のひとつ。欠けたパズルのピースは、もうほんの少し手を伸ばせば掴める場所にあった。


 つい先ほどそれを手にできるはずだったのだが、遺憾なことに、手にする前にかすめ取られてしまったのは痛手だ。


 けれどそれも、なるべくしてなった運命だったのだろう。


 男は元来、運命というものを信じなかった。


 信じてしまえば、気の遠くなるほどやり過ごしてきた幾星霜(いくせいそう)の夜もまた、定められた苦難であったと呑み込まねばならないからだ。


 そんなことは、まっぴらごめんだった。


 しかし世界には、どう抗おうとも変えられない不変の道筋というものがあるらしい。


 人が生まれた以上死ぬことを義務付けられているように、避け得ない運命。それを宿命と呼ぶそうだ。


 今回ばかりは、その宿命とやらに助けられた。なんとも皮肉な話だ。


「さぁ、始めよう」


 男は自分以外に息づくものの居ない空間で静かに告げた。




 淡い橙色のともしびが反射して、男の瞳が黄金にきらめいた。




 * * *




「これも処分するの? エル」


 ささやかに非難じみた色のにじむ声に呼びかけられて、エステルは箱詰めしていた本から視線を上げた。


 頭上では、年季の入ったウォールナットのチェストに寄り掛かった妹が、不機嫌そうに家具の輪郭を撫でている。彼女の押し込められた苛立ちを示すかのような燃える赤毛が肩から滑り落ちて、チェストの天板を叩いた。


「言ったでしょう、大きいものは全部置いていくわ。要らないと言われたものは処分するって。わたしたちはこれから、叔母(おば)様の家にお世話になるんだから。荷物は最小限に抑えなくちゃ」


「でも、このチェストはママの唯一残った嫁入り道具だったのに」


「わがままを言ってる暇はないの。ほら、ぼやく時間があるなら手を動かして。大丈夫、形見になるものは他にもあるわ」


 ほんのわずかだけれど、と胸の内で付け加えると、妹はまるでエステルの心を読んだかのように唇を突き出して眉間のしわを深めた。以前は呑気に「子リスみたいで可愛らしい」と微笑ましく感じていた表情も、今この時ばかりは煩わしく感じて、エステルはすぐに手元へと視線を戻す。


 本と筆記具と、書斎に残っていた幾らかの手紙類。母の裁縫箱。ほとんど中身の入っていないジュエリーボックス。そんなものばかりが詰め込まれた木箱は、まるでガラクタの棺のようだった。


 数日後には、住み慣れたこの屋敷を出ていくことになる。小ぢんまりとした、田舎のマナーハウスと呼ぶにも小さな屋敷だが、それでも、生まれてからの十七年をここで過ごした。エステルですら実感が湧かないのだ。みっつも歳下の妹は余計にそうだろう。


 ――つい先日、少女たちは両親を失った。田舎地主の娘という立場を失い、住むところを失い、明日の食事も保証されない孤児になるなど、ほんの半月前には思ってもいなかったことだ。


 何不自由ないと言うにはもともと逼迫(ひっぱく)した家庭財政だったけれど、それでも、衣食住と両親の庇護という揺るがない保証はあった。今はそのどれひとつとして無い。


 当たり前にあると思っていたものが失われる瞬間は一瞬で、なんとも呆気ないものだ。


 ふて腐れた顔を隠しもせずに、妹は今や母の形見となったチェストに突っ伏した。


「クラリー。……クラリス」今度はエステルが非難めいた声で呼ぶ。


「わかってるわよ。片付ければいいんでしょ、片付ければ」


 わざとらしくため息をつきながら、クラリスは波打つ赤毛をリボンで縛った。自分の陰気な黒髪とは違う、朝焼けのように金を帯びた朱色。エステルは妹の髪を美しいと思うのだが、当の妹はすぐにくねって言うことを聞かない自分の赤毛を、あまり好きではないようだった。


“わかってるわよ”――妹の口にしたぼやきを、エステルも胸の内で重ねて繰り返す。わかってる。クラリスも、そしてエステルもわかっているのだ。


 こうでもして理不尽に対する不満を吐き出さなければ、たちまち気持ちが挫けて、何もできなくなってしまうだろうことを。


 今はただ、余計なことを考えなくて済むようにひたすら手を動かすか、あるいは世に数多ある不平不満に悪態をつき続けるしかなかった。


 葬儀が終わってのこの五日ほどは、様々な手続きをこなしながら、屋敷の家財や遺品整理に奔走していた。それも、あと一日か二日後には片が付く。


 テーブルやベッドの大きな家具には保護のための白布が掛けられ、本棚も机の中身もクローゼットも、片っ端からすっからかんに片付けた。あとは母の使っていたこの部屋だけだ。


「いっそ魔法でも使えれば、こんな片付けすぐに終わるのに」


 クラリスがチェストの引き出しをひとつひとつ(あらた)めながら呟いた。綺麗な刺繍の入ったハンカチは荷物の箱の中に、レターセットは思いきって処分品の箱に放り込む。どうせこれから、手紙を書くようなこともほとんどないだろう。


「魔法なんて、小さな子どもみたいなことを言うのね。リトル・リー?」


「もう、子ども扱いしないでよ! お姉ちゃんだってまだ未成年のくせに」


「あら、少なくとも三年分はあなたより大人よ」


「あたしもあと三年早く生まれればよかった!」


「だったらわたしたち、双子だったわね。それでもきっとわたしが姉だったでしょうけど」


 しばらくぶりに交わした気楽なやり取りに、ふふ、とたまらず笑いが漏れる。妹がもっと小さな頃は、ふたりして屋敷の裏手に広がる森で、あらゆる空想遊びに興じたものだった。


 魔物を討つ旅に出る騎士と、騎士に助けられる囚われのお姫様。世界を救うために塔から降りてきた、引きこもりの魔法使いとその従者。悪の大公に反旗を翻す、森の名もなき狩人。


 好きな時に、好きなものへ。何にだってなれた幼さと未熟ゆえの純粋さは、大抵の人がそうであるように成長するにつれ失われて、ちかごろ多感な妹は姉へ食って掛かることも少なくない。


 エステルだってそうだ。けっきょく社交界には出られなかったが、そろそろ結婚適齢期である。いつまでも娯楽小説のような運命の出会いを夢見てはいられないし、白馬の王子様が迎えに来てくれるなんて幻想は、十歳の頃には書き損じた手習い紙と一緒に丸めてゴミ箱へ捨ててしまった。


 そうやって一歩一歩、幻想を捨てながら望まざる大人への門をくぐっていくのだ。


 魔法などというものを夢見ていたのも遥か昔。今や妖精は空想上の生き物で、魔法は伝説とお伽噺の中にしか存在しないと誰もが思っている時代だ。


 遠い昔には、世界には魔法が溢れていて、この国も偉大な大魔法使いに守られていたと言うけれど、それが史実の出来事だと信じている人間はほとんど居ない。


 クラリスだって、それをわかった上でこのように冗談めかしてみせたのだろう。そうでもなければ、彼女が口にしたのは『魔法でも使えれば、こんな片付けすぐに終わるのに』ではなく、『魔法が使えれば、パパとママを助けられたかもしれないのに』だったろうから。


「さ、机の中身はもう片付け終わったわよ。そっちのチェストはどう?」


 きれいに机まで拭き上げたエステルがたずねる。クラリスは最下段の引き出しを漁りながら声を上げた。


「もう、ちょっとー……ん? 待って」


「どうしたの?」


「引き出しの隅っこに何かある」


 両膝をついた妹が、引き出しの奥に腕を伸ばす。奥行きの広いチェストの半分は、視界の高さも相まって暗く、よく見えない。


 手応えがあったようにエステルをちらりと見上げたクラリスが、指先に触れたそれを慎重に引っ張り出した。


「これって……ネックレス?」


 彼女の手に握られていたのは、細く編まれた銀の鎖とそれに連なる、大ぶりな黒い宝石の首飾りだった。繊細な細工の銀の台座に嵌め込まれているのは、雫型に精緻なカットでバラの花を彫り込んだ漆黒の石だ。


 黒ダイヤかとも思ったが、とろりとした光沢の輝きと、削り出されたこまかな意匠が別のものであることを示した。


 モリオンか、黒曜石か、それともオニキスだろうか。いずれにしても、トップの宝石は手のひらほどもある。とても家計に余裕の無い田舎地主の奥方の持ち物とは思えないような、貴族の女主人が持つにふさわしいネックレスだ。


「びっくりしたぁ。まだこんな値打ち物っぽい遺品が残ってたのね。てっきり自称ご親族のオジサマとオバサマに、金目の物は手当たり次第もって行かれたものだと思ってたわ」


「クラリーったら、そんな言い方……」


 苦笑しながらも最後まで否定できなかったのは、エステルもこっそりと似たようなことを考えていたからだ。


 名前こそ確かに系譜に連なるものだったけれど、ほとんどが顔も知らないような親族ばかりだった。名前さえ騙れば、赤の他人がもぐりこんでいても気づかなかっただろう。


「何よ、本当のことじゃない。エルだって本当は頭にきてたんでしょう? うわべばっかり『お悔やみ申し上げます』なんて言って、葬儀が終わったら無遠慮に屋敷に上がり込んでさ。少しでも価値が高そうなものを、形見分けって称して家中ひっくり返すみたいに家捜しするんだもん」


「確かに『そんなこと思ってない』なんて言ったら嘘になるわね。……でも、こんなネックレスあったかしら? お母さんがつけてるところは見たことがないけど」


 首を傾げながら、クラリスの手からネックレスをつまみ上げた。ずっしりとした重みを予想していたが、手にしてみると見た目よりもずっと軽い。この分だと、この黒玉は鉱物ではなくジェットだろう。またの名をブラック・アンバー。太古の植物が流木となり、海の底で長い年月をかけて化石化した歴史の結晶だ。


 その不思議な輝きに見惚れていると、ほんの一瞬、チカリと闇の中で針の先ほどの光が輝いた気がした。


 たまらず、エステルは驚いて瞬きを繰り返す。もう一度ジェットを凝視したけれど、黒玉は見間違いだとでも言うように、変わらず窓から射す陽光の照り返しだけを着飾っていた。


「着けるような機会がなかっただけじゃないの? 舞踏会なんて滅多に行かなかったし、日常生活でつけるには、このサイズはちょっと邪魔かも。貸して」


「あ、ちょっと!」


 さして気にしたふうもなく、クラリスは再びエステルの手からネックレスを取り上げた。妹はそれを慣れた手つきで身につけ、鎖骨の上に収まったネックレスを見せつけるように胸を張る。


「どう? 似合う?」


「……小花プリント柄のドレスにはだいぶちぐはぐかも」


「ママのドレスにいい感じのものがなかったかしら。真紅のドレスとか。きっと黒が映えるわ」


「お母さんはそういうドレスを好むタイプじゃなかったでしょう。それに、まだ着られそうなドレスは“ご親戚のオバサマ”たちが根こそぎ持って行っちゃったわ」


 どちらかと言うと、ふたりの母親は深い緑や薄い水色のドレスを好むタイプだった。目立つよりも一歩引いて周りを見ているような、周囲の背景に溶け込もうとするタイプ。それでいて、些細なことにも目と気を配って、困っている人がいればさりげなく助けてくれるような人だった。


 母親のことを思い出しながらも、エステルは、クラリスがネックレスを身に着けた瞬間から覚え始めた、焦燥感に似た不快感をどうすべきかと考えていた。


 クラリスにネックレスを好き勝手されるのが嫌だとか、彼女に渡したくないといった妬みのような悪感情ではない。むしろ、ネックレスからクラリスを離して、彼女を守らねばというような、何か悪いことが起きるのではないかという恐れに近い感情だった。


 先ほど自分でも見惚れていたくせにと言われれば返す言葉もないが、ときおり、エステルにはこういった“唐突に何かを悟る”瞬間があった。


 それまで楽しんでいた遊びが突然押し寄せた不安で手につかなくなったり、真っ直ぐ突っ切れば目的地までの近道になる道をどうしても通りたくなくて足踏みしたり。


 そういうときは大抵、そのまま意思に逆らった行動を続けていると悪いことが起こった。かくれんぼをしていた木陰の上からリンゴが落ちてきてたんこぶを作ったこともあるし、近道のつもりで突っ切った道で馬車に轢かれそうにもなった。


 エステルはこれを虫の知らせ(ガット・フィーリング)のようなものだと考えていた。


 それが今、まさにジェットのネックレスを身に着けたクラリスへ向けて警笛を鳴らしているのだ。


 まるで皮膚の下を虫が這っているように、ぞわぞわとした不快感とチクチクとした微かな痛みが手足を襲った。


(それに何か……何か、大事なことを忘れているような……)


 妹が引き出しからネックレスを引っ張り出した時。彼女が“自称ご親族のオジサマとオバサマ”と揶揄した時。そして、黒玉の誘うような光沢に目を奪われた時。


 いずれも頭の片隅でちらつくものがあった気がしたのに、妹とのお喋りに気を取られて掴みそこねてしまった。


「クラリー、もうそろそろ……」


 ネックレスを外して箱に詰めましょう、とエステルは物思いに告げようとした。けれど彼女の言葉を遮るように、クラリスは空っぽになったチェストから身を翻すと、一足飛びに部屋の戸口へ駆けていく。


「クラリー!?」


「掃除ももう終わりでしょ? せっかくだし、裏の森を少し散歩してくるわね」


「ちょっとクラリス! まだ荷物の詰め込みだって終わってないのに」


「今日くらい大目にみてよ! このお屋敷ともあと何日かでお別れなんだもん。見納めに散歩へ行くことさえわがままなんて言わないでよね!」


 他のことに気を散らしていたせいで、エステルは一拍、クラリスを追いかけるのが遅れてしまった。


 そのほんの短い間に、彼女は軽やかに部屋を出ていく。昔から、足の速さでは妹に勝てた試しがない。


 ひらりとクラリスの髪が靡いた瞬間、それまで掴みそこねていたことを思いだした。真っ先に引き取り手が付きそうなネックレスが、チェストの片隅に隠されるように放っておかれた理由だ。


『やだわ、これ、“呪われしジェットの黒バラ”じゃない』


 それは遺品整理の際に訪れた、親族の誰かが口にした言葉だった。


 その時は何について語られていたのかわからなかったし、そう告げたのが誰なのかも正確に覚えていないけれど――何せひとところに、顔もおぼろげな十何人もの親族が集まっていたので――、エステルは確かにそう耳にしたのだ。


 彼女はそれまで、我が家に“呪われしジェットの黒バラ”なるものが保管されているという話を聞いたことはなかったが、“呪い”というその不吉な単語と、“黒バラ”というミステリアスな響きが気になって、記憶の端のほうに引っかかっていたのだろう。


 だから、あのネックレスはチェストの隅に置き去りにされていたのか。一見して値打ち物のように見えるにもかかわらず。


 合点がいって、くらりとめまいが襲った。


 心臓がひときわ大きく飛び跳ねて、同じようにエステルの足も飛び上がるように走り出した。


初めましての方は初めまして。

どこかで見た名前だなという方はどうぞお久しぶりでございです。

近頃は英国時代物ばかり書いておりましたが、今回は新作単発物の恋愛ファンタジィ()を引っ提げて参りました。

合言葉は「めざせロマンタジー」。ファンタジーもラブも盛り盛りできたらいいなぁというていで書いてます。

実はまだあまり書き進んでいないので、無事完結させられるか……というところですが、最後までお付き合い頂けましたら幸いです。

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