13 雛の湯たんぽ大作戦
ユウくんが熱を出して寝込んでいる。
それを聞いて駆けつけてきたあたしを、ユウくんも鬼兄も、揃って仲良く追い返そうとする。あたしはユウくんの彼女なのに……こんな時こそ、一番に彼の側にいてあげたいのに。
お兄ちゃんがあたしに冷たいのは、分かるんだ。
意地悪な兄は、あたしの事をとことん信用していない。どうせあたしのこと、役立たずで、邪魔で、うるさい妹くらいに思っているんでしょ。
でも、そんなことはどうでもいいの。鬼兄になんて思われていようが、どうだっていい。腹は立つけれど、ベーっと舌を出すだけだ。
……でも、ユウくんまであたしを追い返そうとするなんて……
そっちの方が100倍ショックだ。お兄ちゃんには泊りがけで看病してもらうつもりのくせに、あたしのことはダメだなんて……
「さ、帰るぞ、雛」
有無を言わせない声色が、背後から聞こえてきた。両肩に乗せられた兄の手にぐっと力がこめられて、あたしの肩がびくりと反応して揺れる。
やだ。このままだと、力づくで外に追い出されちゃう……!
「って……いきなり何やってんだ雛っ!」
悲しくって、腹が立って、プチっと切れたあたしは、スカートを勢いよく脱ぎ捨ててやった。幸い、ウエストがゴムのタイプだったので、手間取らずにするりとスカートは脱げていった。
ふん。いくら鬼のような兄でも、この格好の妹を、無理矢理外には出せないだろう。ふふふん。
こうなったら、なにがなんでもこの場に居座ってやる……!
「ひっ、雛ちゃ……」
ユウくんの顔が、みるまに真っ赤になっていく。兄があたしの肩から手を離して、ふらついたユウくんの身体を支えにいった。
その隙に、ボストンバッグを奪い取り、あたしは急いで浴室まで駆け込んだ。背後から兄の舌打ちが聞こえてくる。
「おいっ、さっさとこれ履けよっ!」
あたしのスカート片手に、恐ろしい形相の鬼が扉をガラリと開けた。
冗談じゃない。履いたら最後、力づくでこの家から引きずり出されるだけじゃない!
「やだっ! むしろもっと脱いでやるっ!」
「って、この、この馬鹿雛っ……!」
ニットも脱ぎ捨てると、さすがの鬼も怯んだようだ。忌々しげにスカートを投げ込まれ、扉がぴしゃりと閉められた。兄の追撃が止まり、ホッと息を吐く。
やった、鬼を撒けた!
「こんの露出狂め、馬鹿なことやってないでさっさと服を着ろっ!」
「馬鹿じゃないもん、これからお風呂に入るんだもーん」
「って、ちょっ……侑、しっかりしろっ!」
あたしは、鬼に勝ったんだわ!
「ひ、ひな、ひなちゃ……」
扉の向こうで、ユウくんが、うわ言のようにあたしの名前を呟いている。
嬉しい。さっきまでお兄ちゃんの名前ばっかり呼んでいたのに、それがあたしの名前に変わってる……。
待っててね。
物理的に帰れなくなる時間まで、お風呂に入ってくるからねー!
大丈夫。あと30分もすれば、最寄り駅着の終電に間に合わなくなるはずだから。
◆ ◇
シャワーを浴びている内に、少しづつ気持ちが落ち着いてきた。
それと同時に、じわじわと羞恥心が込み上げてきた。なんか、勢いに任せて、とんでもないことをしたかもしれない……。
ユウくん、呆れちゃったかな。
でも、他に方法なんて思いつかなかったんだもん。どうやっても、鬼兄には力で勝てないし……もちろん口でも勝てないし。おまけにユウくんまで、あたしじゃなくてお兄ちゃんの味方だし。
ああ、でも……
さっきの自分の、あられもない姿を思い出して、今更ながら後悔する。
頭を両手で抱えて、首をぶんぶんと振りたくった。
…ああ。ああっ!
どうせならもっと……可愛いパンツ履いてくれば良かった……!
あんな着古したクタクタの下着姿を見られてしまうなんて、ショックだよ。こんなことなら、タンスの奥底に大事にしまっている、一番のお気に入りのヤツ着てくればよかった……!
はぁ、やなもの見られちゃったな。ユウくん、さっさと忘れてくれないかな。そういえばふらついてたし、熱で朦朧としてあんまり覚えていないといいなぁ……。
しょんぼりしてうつむいた。濡れた前髪からポタポタと雫が床に落ちていく。
――――そういえば。
ユウくんの額、汗ばんでいたな。
おでこにキスをした時に、じっとりとした感触と汗の匂いがした。
そのままだと気持ち悪いよね。お風呂から上がったら、蒸しタオルで身体を拭いてあげないと。
それに……ユウくんの顔、真っ赤だったな。
ふらつくぐらいだもん、熱、高いんだろな。氷枕を作って、頭を冷やしてあげなくちゃ。
あ、でも。頭寒足熱っていうし、頭は冷やしても身体の方は温めた方がいいよね。
ユウくんを温める……
それって……ユウくんの隣で、あたしがピトッとくっついて……一緒に寝るのが、きっと、一番いいよね……。
人肌が一番、あったまるって言うもんね。えへへ……。
ようし。俄然、やる気と元気、出てきた!
あたし、今夜はユウくんの、ほかほか湯たんぽになっちゃうよー!
「えっ!」
浴室から張り切って出てきたあたしを待ち受けていたのは、ユウくんの癒される笑顔ではなく、容赦のない鬼の冷笑だった。
「だから、蒸しタオルなら俺が作って侑に渡しといたし。身体なんてもう拭き終わってるから、お前の持ってるソレ、いらねー」
「いいい、いつの間に……」
「そりゃあ、お前が、呑気に風呂入ってる間に決まってんだろ」
が――――ん。
雛ちゃん役に立つね計画が、早くも一つ潰えてしまった……。
ううん、まだまだこれからだよね。
パッと顔をあげる。どうやら鬼も、もうあたしを追い返す気はないようだ。時間なら十分に残されている。今日と明日たっぷりとユウくんのお世話をして、『雛ちゃんが来てくれて良かったよ』って、ユウくんに笑顔で言ってもらうんだ!
「じゃあ氷枕でも作ってくるっ!」
「ジェルシート貼ってあるから、んなもんいらん」
「え、え……」
よく見ると、ユウくんの額には青くてぷにぷにしたものが貼られている。2度も動きを封じられ、あたしはわなわなと拳を握りしめながら、ユウくんの額をじっと凝視した。
「ユウくん、大丈夫?」
よっぽど高熱なのか、彼の頬は真っ赤に染まっている。それでも冷たいジェルシートは気持ちがいいのか、ユウくんは天井を見上げながら幸せそうに頬を緩ませていた。
側に近寄り、ベッドに横たわる彼の顔を覗き込む。あたしに気付いたユウくんが、なぜかぎょっとしたような顔をして、それから気まずそうにパッと目を逸らされた。
―――え、なんで?
「う、うん、たぶん……」
歯切れの悪い返事をしながら、ユウくんはもぞもぞと身動きをして、姿勢を変えた。あたしに背を向ける形で、壁の方を見つめながら横向きで寝そべっている。
ユウくんの動きで、ベッドの手前半分の空間が、すっぽりと空いた。
えーっと。これって、ここにおいでってこと?
「じゃ、じゃあ……あたし、ユウくんの身体あっためてあげるね……」
ちょっぴりドキドキしながら、掛布団をまくり上げる。
ユウくんの匂いが、中からふわりと広がってきた。幸せいっぱいの気持ちで布団の中に潜り込み、彼の背中にピッタリと寄り添ってみる。
今のあたし、お風呂上がりでホクホクの身体をしてるから、こうしてるときっとユウくん、あったかいよね……
そのまま幸せに浸ること、3秒。
腕を乱暴に引っ張られ、あたしは、そっこーで幸せの中から引きずり降ろされた。
「ちょっとお兄ちゃん、邪魔しないでっ!」
「お前の寝床はそっちじゃない、こっちだ」
兄が顎で示した先には、客用らしい布団が一つだけ敷かれていた。あたしの首がこてりと傾く。
え? あたし今夜、ここで寝るの?
え―――!
ユウくんの身体をあっためるのですら、お兄ちゃんがやっちゃうの!?
「ありえない! どうしてあたしがこっちで、お兄ちゃんがユウくんの隣で寝るのっ!?」
「はあ? なんで俺が侑の隣で寝るんだよ。俺もこっちだ」
「ええっ!? やだっ、なんでお兄ちゃんの隣で寝なきゃいけないのっ!」
「客用の布団が一つしかないからな、諦めろ」
「でもでも、お兄ちゃんは病み上がりなんでしょ? 今夜は1人でゆっくり眠った方がいいんじゃない? 大丈夫、あたしはユウくんの隣で幸せに浸ってくるから……」
「ふん。病人こそ、1人でゆっくり寝かせてやらないといけないよな」
兄の両腕があたしの身体をしっかりとホールドしている。ジタバタともがいたけれど、ピクリとも離れないまま布団の中に連れられてしまった。
やだ、ユウくんの隣で湯たんぽ大計画が……あたしのドキドキワクワクお世話大作戦が、かき消えちゃうっ!
「お前が風呂入ってる間に、家に連絡しといたぞ」
暴れるあたしを抑え込みながら、兄が呆れた調子でささやいた。
「え……お母さん、なんて言ってた?」
「しょうがないから泊らせてもらえ、ただし侑の安眠の邪魔だけはするな、ってさ。俺も深く同意。だから今日は大人しくこっちで眠っとけ」
邪魔なんて、これっぽっちもするつもり、ないのに。
あたしはただ、湯たんぽになろうとしただけなのに……。
「静かにしてるから、お願いっ。ユウくんの隣で眠らせて?」
「駄目だ。侑がゆっくり眠れんだろが」
「えー、あたし別に寝相悪くないよ? 心配しなくても、明日の朝まで大人しくしていられるし」
ひえっ!
ムッとして振り返ると、凄みを利かせた兄と視線がぶつかった。
尋常じゃなく冷たいオーラに、お風呂上がりでホカホカだったはずの身体が、瞬時にぶるりと震えあがって冷えていく。
「いい加減静かにしろ、雛。侑が眠れないだろ?」
~~~~くうっ!!
助けを乞うように、ベッドの上に目をやると、ユウくんがあたし達に背を向けたまま、首を小刻みに縦に振っていた。
がっくりとうなだれる。大きくため息を吐いた。あたしの手足が、力なく布団の上に横たわる。
……ああ、勝ったと思ったのに。
やっぱりまだまだ、あたしじゃお兄ちゃんには勝てないの?
ううん。
そんなことない。これから、のはず……。
そう、明日こそは。
明日こそはたっぷりと、お世話をするんだから。
あたし負けない!
明日を楽しみにして待っててね、ユウくんっ!
ベッドの上の愛しい背中をじっと見つめながら、あたしは涙を呑んで、大人しく兄の隣で眠りに就くのだった。






