11 幕間 side侑
―――最近、麟が変だ。
「どうしたの、麟?」
「――ん、いや、なんでもない」
上の空で、ぼんやりしていることが多い。かと思えば、どこか一点をじっと見つめていたりする。知り合いでもいるのかと視線の先を辿っても、大学の食堂だったり、正門前だったりと、人の多い場所ばかりで全然理由は分からない。
「え、お兄ちゃん? 相変わらず意地悪で鬼だけど?」
雛ちゃんに尋ねてみたけれど、普段通りのセリフしか返ってこなかった。
「うーん、疲れてるのかな……」
大学の近辺で一人暮らしをしている僕とは違い、麟は片道2時間近くもかけて自宅から通っている。往復すると約4時間。毎日それを繰り返すのは、結構な負担となっているのだろう。
それに麟はバイトもしている。それもかなりハードな内容だったはず。確か、工事現場だったっけ……。あの見た目に似合わない、肉体労働系のアルバイトだ。
麟は、ものすごく整った容姿をしてるから、その外見を活かせば、もっと楽で割のいい仕事が幾らでもあるはずなんだけど……本人がそれを嫌がっているからなぁ……
バイトを始めた当初、女のいない環境は気楽でいいな、と麟が言っていたのを思い出す。
日雇い系の仕事がメインだから、体調に合わせて調整できるはずだけど……それでも、疲れがじわじわと溜まっているのかもしれない。
「ユウくんは優しいね。お兄ちゃんの心配をするなんて」
「雛ちゃんは相変わらず麟に辛辣だね」
「だって、日頃の行いが鬼そのものなんだもん」
麟は、鬼どころかとても優しい兄だと思うけど……
態度と目つきと言い方は、確かにどうかと思うけど。
「おい、落としたぞ」
学食でランチを食べた後、食後のコーヒーでも飲もうと、麟とロビーに設置してある自販機に向かうと、目の前で大量のジュースを抱えている女の子がいた。
恐らく、友達の分もまとめて購入しているのだろう。抱えきれていなくて、腕の隙間から一本、零れ落ちたジュースの缶を、麟が拾い上げた。
「ありがと」
振り返った女の子が、麟からジュースを受け取ろうと片手を伸ばす。すると、更にぽろぽろとジュースが地面に落ちてしまった。
焦った女の子が、落としたジュースを拾おうとする。それを、麟がぴしゃりと制止した。
「馬鹿っ、拾ってやるからじっとしてろ」
麟に肩を押さえられ、女の子が顔を真っ赤にして固まってしまう。その隙に、僕と麟で落ちたジュースを全て拾い上げた。
「おい、運んでやるから案内しろよ」
「いっ、いいよいいよ。ここに乗せてくれたら、あとは私一人で運べるから……」
そう言って、女の子はジュースを抱えた腕を突き出してきた。麟が冷ややかな視線を彼女に向けながら、腕の中のジュースを数本、奪い取る。
「どう見てもキャパオーバーの癖に、なに遠慮してんだよ。ったく、これ何人分だ……身の程知らずになんでもかんでも請け負ってんじゃねーよ」
「な……っ!」
「あのなぁ。俺だって暇じゃねーんだ、いいからさっさと先導しろ」
――――ほら、麟はやっぱり優しい。
女の子が苦手なはずなのに、こうして困っている子がいれば助けようとする。まあ、言い方とか表情とかはアレだし、そのせいでこの子を怒らせちゃったけど……
僕は慌てて、2人の間に割り込んだ。
出来るだけ優しい笑顔を向けながら、柔らかく言葉をかけてみる。
「この量を君一人で抱えるのは、ちょっと無茶じゃないかな。階段で落としたりしたら危ないし、僕達も運ぶの手伝うよ」
「でも―――」
「気にしないで。ちょうど、暇してたとこだから」
「……ありがとう」
良かった、女の子が笑ってくれた。
麟が忌々しそうな顔をしている。その割に、一番たくさんジュースを腕に抱えている。ほんと、分かりにくいやつだ。
雛ちゃんにも全く伝わってないもんなぁ……
僕はくすりと笑みながら、遠い教室までジュースのお供をさせて頂いた。
◆ ◇
次の日。
2限の講義が終わり、隣を向くと、麟が机の上で頭を伏せていた。
「どうしたの、麟。お昼食べに行こうよ」
「……んー、もう昼か」
気だるそうに前髪を掻き上げながら、麟がゆっくりと顔をあげた。ここ最近の比ではないくらい、ぼんやりとした表情をしている。雪のように白い頬が、やけに赤らんでいた。
どう見ても、様子が変だ。
「…………麟、大丈夫?」
「大丈夫。ちょっと体が熱くて、頭が痛くて、だるくて寒気がするだけだ」
「それ、全然大丈夫って言わないと思うよ?」
おでこに触れてみたら、とんでもなく熱かった。
「今日はもう帰りなよ。僕も家までついてくよ」
「いい。3限受けてから1人で帰る」
「無理しちゃダメだよ……」
「それより昼飯いこうぜ」
麟は面倒見がいい癖に、あまり僕に頼ろうとしない。というか、はっきりいって甘えるのが下手くそだ。こういうとこ雛ちゃんと全然違うよなぁ。
麟が席からゆらりと立ち上がる。鈍い動作に、重い足取り。どこからどう見ても、無理をしているとしか思えない。
心配になって、麟の様子をチラチラ横目で見るものの、その度に「見んなよ」とすごまれて、慌てて視線を引っ込める。
昼食べに行くのはいいけどさ……食欲あるのかなぁ。
「僕んちくる? お粥でも作ろうか?」
「いいって言ってんだろ」
「でも……」
口では強気なものの、僕の予想通り、麟は食欲がわかないようだ。リンゴジュースだけを購入して、それをちまちまと喉に流し込んでいる。
「今日の麟様、いつにも増して色気が凄くない?」
「火照った頬に潤んだ瞳……たまんないわね……」
「普段のクールな表情もいいけれど、今日のような憂いを帯びたお顔も素敵よね」
周囲からは、無責任な感想がぼそぼそと語られている。
僕ははっと嘆息した。ほんと、麟がウンザリするのも納得だ。彼女たちは、別に麟が好きな訳じゃない。麟の見た目だけが好きで、騒いでいるだけなのだ。
あからさまに体調の悪そうな麟を見て、はしゃいでいるなんて……。麟が本当に好きなら、こんな発言、間違っても出来ないと思う。
しかし……。ここんとこ変だ変だと思っていたけれど。
やっぱり、体調が悪かったのか……。
熱、朝からあったんだろなぁ。
もっと早く気付いてやれば良かった。
「麟っ!」
昼食を終え、僕の忠告も聞かず、麟は3限の教室まで向かおうとした。ふらつく足元で階段を登ろうとする。不安を感じていると、突然、麟の身体が斜めに揺れた。とっさに支えようと腕を伸ばしたものの、全然間に合わない……!
「きゃああぁぁぁぁっ……!!」
180センチ超の黒い影が、力なく宙を舞う。僕の叫びに、折り重なるように、甲高い悲鳴が聞こえてきた。
……ん? 悲鳴?
よく見ると、麟の真後ろに女の子が立っている。
こういう時、物語のヒーローならば、カッコよく僕は2人を助けてあげられるのだろう。
だがしかし、そのまま奇跡が都合よく起きることもなく。
哀れな女子生徒を巻き添えにして――――青ざめる僕の目の前で、麟が階段から転げ落ちていった。
◆ ◇
「んんっ……」
ベッドで眠る麟から、かすかな声が聞こえてきた。目を遣ると、たっぷりの睫毛を細かく震わせた後、麟のまぶたがゆっくりと持ち上がっていく。
「あ、麟。起きたんだ」
しばらくぼんやりと僕を見つめて、それから一気に頭が覚醒したのか、麟がパッと目を見開いて上半身を起こす。部屋の中をぐるりと見回して、また僕に向き直った。
「……あぁ、侑か」
「突然倒れるからびっくりしたよ。やけに身体が熱いから、測ってみたら39度超えてるしさ……。今日はもう無理して帰るのはやめて、うちでゆっくりしていきなよ。おばさんにも、ちゃんと連絡しておいたからさ」
無言のまま麟が顔を伏せた。自分の手のひらを、なぜかじっと見つめている。
「痛む?」
階段から落ちた時に、怪我でもしたのだろうか。
柔らかいものの上に落ちたから、平気だと思っていたけど……甘かったかな。とりあえず、頭は打ってないはずだけど……
ちなみに、麟の下敷きになった子は無事だった。よかった……。
痛そうにはしていたものの、腕や足をくじいた様子もなく、麟をどけたらすぐに起き上がってきた。麟の方こそ目を覚まさず、困り果てていたら、ここまで運ぶのを手伝ってくれた。
「いや、平気」
「そう? ならいいけど……痛むなら我慢しちゃだめだよ? なんでもそうだけどさ、キツいなら遠慮せずに僕を頼りなよ」
「……ん」
手のひらをキュッと握り締めて、麟が目を細めた。
今日みたいな展開は心臓に悪いから、ほんと勘弁して欲しい。
「お腹すいたでしょ。お粥作っておいたから食べなよ」
「わりー……」
気だるげに呟きながら、麟が再びボスンと背中からベッドに倒れこむ。
「……なんだこのファンシーな土鍋は……」
テーブルの上にお粥入りの土鍋を置くと、ベッドの上から麟が眉を寄せてそれを凝視した。一人用サイズのこの土鍋は、僕の土鍋に対する認識を覆すような可愛い色とデザインのものだ。
桜のような薄いピンク色に、苺の浮かし模様が入っている。
「雛ちゃんに貰ったんだよ」
「侑が使うには可愛すぎるだろ、ソレ。あいつ……男になんつーもん贈るんだ」
「まあ確かにこの土鍋、可愛すぎるんだけどさ。でも、これはこれで気に入ってるんだよね」
苺を連想させる愛らしいデザインが、とても雛ちゃんらしくって。
この可愛い土鍋を目にするたびに、あの子を重ねてにやけてしまう。彼女はここにいないのに、まるでこの部屋で笑っているようで……。
雛ちゃんだ。この土鍋はもう、僕の中では雛ちゃんなのだ。
「それも雛が置いてったのか?」
テーブルの上には、土鍋の他に水の入ったグラスが1つと、体温計が1本。それとは別に、いちごオレのペットボトルが2本、置いてあった。
「ああ、これはさっきの子に貰ったんだよ。昨日のお礼だってさ」
「ふーん……」
「そうだ、今度会ったら謝りなよ。ものすごく迷惑かけちゃったんだから――」
興味無さげに呟いて、麟がベッドからテーブルの側にのそのそと降りてきた。どうやら、お粥を食べてくれる気があるようだ。土鍋の蓋を取り、レンゲを手に取った。
お粥から湯気がひとすじ立ちあがる。
「熱いから気を付けなよ」
これが雛ちゃんなら、フーフーしてお口に入れてあげるんだけど……
さすがに、麟にはしたくない。
「雛じゃあるまいし、火傷なんてしねーから」
まあ、麟も全力で嫌がると思うけど。
たっぷりと眠ったせいか、少しは具合がマシになったようだ。ぶつぶつと悪態をつきつつも、麟がもごもごとお粥を口に運んでいく。
明日には、熱が下がってくれるといいな。
ここんとこ、麟の様子がおかしかったけど。
ちゃんと養生していれば、また元の麟に戻ってくれるだろ――――
僕の期待は、しかし外れてしまう。
翌日には熱が冷め、すっかり体調は元に戻ったはずなのに。
麟の様子は――不思議な事に、それでもやっぱりおかしいままだった。






