5 子供なあたしと大人な彼
「え、うそ、無くなってる……!」
頬を掠める空気に、すっきりとした冷たさを感じるようになった、11月の午後のこと。雑貨屋のアクセサリーコーナーの一角で、あたしは呆然と売り場の棚を見つめていた。
拳がふるふると震える。涙が出そうになるのをこらえて、あたしは店から飛び出していた。
今日は水曜日。といっても祝日なので高校はお休みだ。もちろん、ユウくんの通う大学だってお休みだ。やったあ!今週は週末以外にも彼に会えちゃうよ!なんて、あたしはすっかり浮かれていた、のに。
『明日? いや、週末までずっとこっちにいるつもり。色々やることもあるしね』
事もなげにユウくんは言ってのけ、あたしの期待は脆くも崩れ去る。
彼に会うつもりでいたから、予定だって空けていたのに。すっかりやる事を無くした今日、暇に空かせてブラブラと街に出て、以前デートで寄った雑貨屋さんに行ってみた。
デートの時に見かけて、それ以降ずっと気になっているネックレスを、買っちゃおうと思って。
なのに。なのになのに。端から端まで舐めるように何度も棚を見回したのに、どこにもそれが置いてない。
玄関のドアを勢いよく開け、一目散に階段を駆け上がる。途中で出くわした兄を掻き分けるように払いのけ、自分の部屋に飛び込んだ。
ベッドの上にダイブして、きつく枕を抱きしめる。
「ああっ、あたしのバカ……」
苺のモチーフが付いた、シルバーのネックレス。
手に取って、首元にあてて鏡を覗いていたら、ユウくんが『プレゼントするよ』って言ってくれたのに。なんだか悪い気がして、あたしは首を横に振ったのだ。
だってあの日。ユウくんたら、ランチもカフェも奢ろうとするんだもん。
ううん、それだけじゃない。電車代もあたし払ってない。切符を渡されて、財布を取り出したらいいからって笑顔で止められた。
更には、ランチの後に散歩がてら行った植物園の入場料も、払ってもらってる。
一体なにが、どうなってるの。
あたしだってバイトしてるんだから、心配しなくてもちゃんとお金はあるんだよ?
寝坊のお詫びなら、ランチでチャラだと思うんだけど!
首を傾げながらそう伝えてみるも、ユウくんはにこにこと笑うばかりだった。
それはもう、普段の10割増しの幸せそうな笑顔をした彼に、あたしはそれ以上何も言えなかった。
だから、ネックレスは気になったけれど、そこまで払わせるのも悪いと思って、『ううん、いらない』って言って断ったんだよね。
でもやっぱり欲しくなってきて、お店に行ったのに。もう既に売り切れていたなんて……。
あぁ、可愛いかったなぁ、あのネックレス。
ため息が漏れる。
こんな事なら素直に買って貰えば良かった……。
『どうしたの、元気が無いね。なにかあったの?』
『うん。ううん。なんにもないよ』
夜になるとユウくんから電話がかかってきた。夕飯もお風呂も済ませた頃、見計らったようなタイミングでベルが鳴る。携帯に映る彼の名前を見た瞬間、沈んだ心がパッと華やいだ。
だけどやっぱり、いつもと違っていたみたい。
くすぶる感情に気付かれていたようで、ユウくんがあたしを気遣ってきた。
でもね。これはちょっと言えないなぁ……
『ユウくんに会いたかったなぁ、と思って』
元気の出ないもう一つの理由を口にしてみる。
そう。ネックレスが売り切れていたのも悲しい出来事だったけど、ユウくんに会えなかったというのも元気がない理由の一つなんだから。
平日は最初から無理だと分かっているから、会えなくてもわりあい平気なんだけど……今日は期待していた分、会えない寂しさが普段以上に募ってしまっている……。
ため息混じりにそう言うと、電話の向こうの声がひときわ優しくなった。
『僕もだよ』
「ほんとかなぁ」
『ほんとだよ』
それが本当だったとしても。
ユウくんとあたしでは、「会いたい」に差がある。絶対ある。
だって、昨日の電話も、会えなくて全然残念そうじゃなかったし。やる事があるって言ってたから、忙しいんだろうけど……
あたしはちょっとでも一緒に居たいのに、ユウくんはきっとそこまで思ってない。
『土曜には会えるよね?』
『金曜の夜にはいつも通り帰って来るよ。土曜は、デートしよ?』
後半の彼の声が、いつもよりも少し低くて、甘さを帯びていて。耳元に直接響くそれにドクンと心臓が跳ねる。
あたしは動揺を誤魔化すように、拗ねてみせた。
「そう言ってまた寝坊するんでしょ?」
『うっ、気を付けます……』
それでも優しい彼は怒らない。前科持ちとはいえ、こんな言い方されて気分が良いわけないのに、つくづく彼はあたしに甘いのだ。
それはすなわち―――あたしが子供で、彼が大人だってこと。
デートでやたら奢ろうとするのも、子供扱いされてるのかも……
明日は学校なのに。彼は忙しいのに。全部分かっているのに、名残惜しくていつまでも声を聴いていたくって。
そうして、結局1時間以上も彼を拘束したあたしは、つくづくお子様なのだと自分でも思わずにはいられなかった。
◆ ◇
「起きて! おーきーてー!」
あたしとのデートの日に限って寝坊をする彼は、今日もやっぱり、スヤスヤと気持ちよさそうに寝息を立てていた。
土曜の朝、午前9時30分。
祝日に焦らされたせいか、今朝はいつもより早く隣の家にお邪魔した。とはいっても約束の時間は10時なので、今の時点で布団の中にいるのはNGだと思う。
肩を揺らすと、低い唸り声をあげながらユウくんが寝返りをうち、こげ茶の髪がさらりと流れて彼の目元に被さった。柔らかそうな前髪を掻き上げて、露わになった彼の素顔をあたしはまじまじと見つめてみる。
……可愛いなぁ。
あたしより3つも年上なのに、あどけない寝顔はまるで同い年のように見えた。眼鏡がないせいか、寝ている時のユウくんはいつもと違って幼く見えて、可愛く感じてしまうのだ。
不思議。同い年でも、お兄ちゃんの寝顔は全然可愛くないのにね。
好きだから、可愛く見えちゃうのかな……
両手を伸ばして、大好きな人の頬をふわりと挟み込む。触れた手のひらがあったかい。両手から伝わる熱がじわじわと胸に広がって、あたしの心が満たされていく。この温もりが愛おしい。
愛しの眠り姫に、そっと顔を近づけた。
ちゅ、と軽いキスをする。
今日はデートの日だ。夕方になると、家に送り返されて、さよならの日だ。
ユウくんと付き合いだして約ひと月、あたしはきちんと学習した。触れ合いたければ今のうち。いちゃいちゃタイムは一日の終わりじゃなくて、最初なの。
ちゅ、ちゅ、とあたしは眠れる彼に口づける。6日ぶりに触れる唇はひどく温かい。枕相手に妄想するのとはやっぱり訳が違うなぁ―――なんてくだらない事を考えながら、あたしはたっぷりと彼に触れていた。
「むぐっ!」
あ、起きてきた!
あたしの身体に、突然2本の腕が絡みついてきた。さっきまでは触れる程度の可愛い口づけだったのに、彼の柔らかさを感じなくなるほど、唇を強く押し当てられてしまう。
怯えるように。どくん、と心臓が跳ねあがる。
ユウくんが寝ぼけている。
起きたての彼は、いつもと違って強引なのだ。寝起きは頭が働かないのか、昼間の柔らかい物腰が影をひそめてる。普段の彼からは想像できない力強さを体感し、あたしはドキドキしてしまう。
ぎゅうぎゅうに抱きしめられて、苦しくて少し身じろぎすれば、彼の唇がするりと離れていった。ホッとすると同時に寂しさが込み上げて彼を見つめれば、切なそうに眉を寄せた彼が再びあたしに近づいた。
ついばむようなキスが何度もあたしに降ってきて、その度に彼の呼吸が荒くなっていく。角度を変えたキスはどんどん深くなっていき、その度にあたしの意識が朧げなものになっていく。
いつまでそうしていただろう。お互い夢中になって求め合ったあと、ようやく覚醒したらしい。あたしと視線を交えて、彼が気まずそうに呟いた。
「……あ、おはよう。えっと、雛ちゃん……今、何時?」
「もう、10時、過ぎてるよ」
そう言って、あたしは彼からぷいと顔を背けた。
「あああごめん。ほんっと、ごめん……!」
「今日のお仕置きは、なににしようかなぁ……」
ユウくんは絵に描いたように狼狽えている。
あたしのせいだ。とっさに、お仕置きなんて単語が口から飛び出したけど……。
そうじゃなくて。そうじゃなくて……
目が泳いだ。自分でもはっきりと分かるほど、心臓がドクドクと荒い音を立てている。
ごめんね。腕組んでツーンとしているけれど、別に怒っていないんだ。さっきのキスがすごすぎて、照れくさくてまともに顔見れない。ただそれだけ。
「こっち向いてよ、雛ちゃん」
「知らないっ」
覗き込んできたユウくんの顔から逃げるように、今度は身体ごとくるりと背を向けた。
やだ、無理。
今、ぜったい、顔とか真っ赤だもん!
背中の向こうからため息が聞こえてきて、胸がちくりと痛んだ。彼が立ち上がり、あたしからすっと離れていく。
子どもっぽい態度を取るあたしに、いい加減呆れちゃったのかも――――
『愛想つかされちゃうわよ』
サエの言葉がふとよぎった。不安になって背中を丸めていると、しばらくして背後から熱がやって来た。
ふわりと優しく抱きしめられている。やっぱりユウくんは優しい……。包み込まれている感触に安堵して吐息が漏れた。
耳元で彼がささやく。
「いつも寝坊してごめんね。いつもいつもこうして迎えに来てくれて、ありがとう。今回はお仕置きじゃなくて、僕から雛ちゃんに、お詫びがしたいんだけど―――」
「…………」
「これ。受け取ってくれる……かな?」
自信なさげに告げながら、彼の拳がゆっくりと開いていった。それと同時にあたしの目もぱっちりと開いていく。
目の前に差し出された彼の手のひらの上には、見覚えのあるものが載せられていた。
あたしは開いた目をパチパチと瞬かせる。
……これ、苺のネックレスだ……
「…………」
「……あ、ごめん、これじゃお詫びにならないよね。あの時、雛ちゃんはいらないって言ってたんだし……」
無言のままのあたしに、またもや彼が狼狽える。
ううん、違うの。
胸がいっぱいで、言葉が出て来ないだけなの。
ユウくんにはお見通しだったんだ。あたしが、このネックレスを気に入っていたことを。
それなのに「いらない」と答えた理由も、そのまま放置すればあたしが後悔することも、全部全部、ユウくんにはお見通しだったんだ。
「それ、付けてくれたら、許してあげる……」
嬉しくって、拗ねた子供みたいな返事をあたしはしてしまう。それなのに「ありがとう」と彼はちいさく呟いた。
鎖骨の上で揺れる銀の苺を見下ろして、顔がにやけて止まらない。嬉しい、嬉しい。こんな素敵なプレゼントを貰ったのは、あたしの方なのに……
ちらりと後ろを向く。
あたしを見つめる彼は、満ち足りた笑顔を浮かべていた。






