45 この好きは
背後から、ガチャリとドアの開く音がした。
「ユウにぃっ!?」
反射的に振り返った。
期待したのに、目的の扉は固く閉ざされている。代わりに開いたのは、右隣の家のドアだった。
なんだ、違う家かぁ……
悲しくなって、ユウにぃの家の扉を恨めし気に見つめてしまう。再びチャイムを押し、ドンドンと扉を叩いてみたものの、相変わらず何も反応がない。
『お兄さんとして好きなんだよね』
ユウにぃに会えて。やっと想いを告げることが出来たのに。
ユウにぃはあたしの好きを、恋愛の好きとは受け取ってくれなかった。
お兄ちゃんなんかじゃないのに……
分かってる。あたしが言いだしたことだもん。
ユウにぃの事は、お兄ちゃんとして好きなの……なんて。あたしが海で彼に言った言葉だ。
今更ってことくらい分かってる。
ユウにぃがあたしに、会いたくないのも分かってる。でも、これっきりなんて嫌なんだ。ユウにぃの隣を、諦めるなんて嫌なんだ。
お願い、出てきて!
あたしをこの中に入れて!
「ユウにぃ、開けて……!」
あたしの叫びが虚しく辺りにこだまする。扉は、静まり返ったまま動かない。
胸が苦しくなってくる。ユウにぃはあたしと決別するつもりでいる……
目の端に涙がにじんできた。このまま終わらせたくなくて。ほんの少しの可能性に賭けて、とことん頑張るつもりであたしはここまでやって来たけれど……
早くも、挫けてしまいそうだよ。
「お兄ちゃんと喧嘩しちゃったの?」
―――んっ!?
顔をあげると、あたしの隣に知らない男の人が立っていた。
スポーツでもやっているのか、背が高くてやたらと体格の良い人だ。ユウにぃより少し年上っぽいその人は、舐めるような目つきで、あたしをジロジロと眺めている。
……誰、この人。
ああ、さっき開いたドアから出てきた人か。
もしかしてあたしが煩いから、文句言いにきたの!?
「すみません、騒がしくって」
「さっきから必死にドア叩いてるよね。なに、締め出されちゃってんの?」
「ちょっと入れて貰えなくて……あはは……」
じり、と男の人があたしに近寄ってきた。
じり、とあたしは一歩後ずさった。
なにこの人。怒ってる様子はなさそうだけど……やけににやけた顔をして、それはそれで怖いんだけど!
「きみ高校生? カワイイね~。おうち入れなくて困ってんなら、俺の家きなよ」
「いいい、行きませんっ!」
「大丈夫大丈夫、なにもしないから……」
男の人の手が、ゆらりとあたしに伸びてきた。
やだ、もしかしてあたし、ピンチ!?
「助けて、ユウにぃっ!」
あたしの叫びと。
目の前の扉が勢いよく開くのが、ほぼ同時だった。
◆ ◇
ユウにぃが扉の外に出ると、男の人はあっさりとあたしから離れてくれた。
何か誤解をしてるっぽい。あたしとユウにぃを交互に見比べた後、似てねぇ兄妹!と忌々しげに呟いてから、舌打ちをして隣の家に戻っていった。
そりゃそうだよ。だってあたしとユウにぃは、兄妹なんかじゃないんだもん。
おかしくなって、ユウにぃをチラリと見上げた。お互い顔を見合わせて、一緒にくすりと笑いあうような展開を期待していたのに、彼はむっつりとしたまま隣の家を見ているだけで、あたしはまた、しょんぼりとしてうつむいた。
待望の扉は開いたけどさ。
やっぱり、あたしのお話聞く気、なさそう……
「雛ちゃん、中入って」
「え、いいの?」
「いいから早く」
予想に反して、ユウにぃは戸惑うあたしの腕を引いた。
「ここまま外にいたら、また、絡まれるかもしれないから。入って」
「う、うん……」
彼の息が耳に触れて、どきりとした。
ユウにぃは優しい。あんなにあたしを避けてたのに、扉を開けて助けてくれた。本当は、あたしを家に入れたくないはずなのに、こうして、あたしを心配してくれている。
ユウにぃは変わらないね。硬い表情の裏側は、今でも優しいままなんだ。
「お邪魔しまーす」
胸の奥がじわりと温かくなってくる。靴を脱いで、部屋の中に足を一歩踏み入れた。きちんと整理整頓された、小ざっぱりとした空間が広がっている。ベッドにテレビ、ローテーブルは実家から持ち出したのだろう。ワンルームのあちこちに、見慣れた家具が置かれていた。
「そうだ。これ、ユウにぃの忘れ物」
帰る間際に、兄に押し付けられたエコバッグを手にしていたのを思い出す。彼は決まりの悪そうな顔をして、あたしからそれを受け取った。
「お茶淹れるよ。適当に座ってて」
「うん。ありがとう」
そう言ってユウにぃが向かった先は、冷蔵庫ではなくキッチンの横の棚だった。すごい、ペットボトルじゃないんだ。ユウにぃは棚から急須や茶葉を取り出して、鍋にお湯を沸かしている。
ユウにぃが、あたしの為にお茶を淹れてくれている。一緒にいられないと言われていたのに。もう2度と、こんな風に過ごせないと思っていたのに。
あたしはこれから、彼とお茶が飲めるのだ。
『無理かどうかは分からないよ。少なくとも諦めてたら、かき氷もクレープも食べに行けなかったしね。頑張る価値はあると俺は思うな!』
先輩の言う通りだ。頑張る価値はきっとある。
タイマーが鳴り、ユウにぃが湯飲みにお茶を注いだ。急須の先から白い筋が、ゆらゆらと天に向かって伸びていく。もうすぐ、もうすぐだ。
ユウにぃがあたしの前に、湯気の立つお茶を置いた。
「熱いから気を付けてね」
「うん!」
相変わらずむすっとしたままだけど、あたしをちゃんと気遣ってくれている。
嬉しくなって笑みが零れた。単純だなぁ、と自分で自分が可笑しくなってくる。こんなちっぽけな事で、あたしは笑っていられるのだ。
湯飲みからはみずみずしい新緑の香りが漂ってきた。
「あのね、あたし、ユウにぃが好きなの」
湯飲みにそっと口を添え、ゆっくりとお茶をすすりあげた。
熱いものが喉を通り、体中にじわじわとぬくもりが広がっていく。ユウにぃの与えてくれた温かさに励まされて、あたしは言葉を続けた。
「最初はね、お兄ちゃんとして好きだったの。でも今は違うよ。ユウにぃのこと、ちゃんと男の人として好きなの」
ユウにぃの目をじっと見つめた。
眉をぎゅっと寄せて、彼はあたしから目を逸らした。
「……違わないよ。雛ちゃんは僕の事をお兄さんとしか思ってない」
「お兄さんだなんて思ってないよ! ユウにぃさえ良ければ、あたしを彼女にして欲しいと思ってるよ」
「彼女って……分かってるの? 昔みたいな関係に戻るわけじゃない。雛ちゃんが望むようなものじゃないんだ。もう僕は、優しいお兄さんには戻れないんだよ」
「戻らなくていいよ……」
あたしだって、妹に戻りたいわけじゃない。一緒に居て欲しいけど、それだけじゃなくて。たぶん、もっと、その先にあるものを求めてる……
「また、雛ちゃんを泣かせるだけだよ」
ユウにぃが、今度は顔ごとあたしから逸らした。
かたくなな姿勢を彼は崩さない。どこまでも、あたしの好きを違うように捉えてる。
あたしが泣いちゃったから?
「ユウにぃはあたしが嫌なの? あんまり泣くから、あたしのこと嫌になっちゃった?」
「……嫌がるのは雛ちゃんの方だよ」
「嫌がらないよ!」
ユウにぃが嫌だからじゃないのに。
海であたしが泣いたのは……その逆だったからで……
無言のままユウにぃが立ち上がった。
あたしに背を向け、彼らしくない、くぐもった低い声を出した。
「話も聞いた事だし、飲み終わったなら帰ろうか。駅まで送るよ」
どうしよう。
あたしの想い、ちっとも通じてない………。
このままあたしは追い出されるの?
ユウにぃとは、これっきりになっちゃうの?
あたしの好きはそんなにも……恋愛の好きに見えないの……?
―――最初はたしかに、そうだった。
あたしにとってユウにぃは、『兄』だった。
幼いあたしには、3つも年上のユウにぃが、自分よりはるか年上のお兄さんのように見えていた。兄と同じ年だと聞いて、ますます、もう一人兄が増えたような気分になっていた。
『お兄ちゃんと一緒だ! じゃあ、ユウくんじゃなくて、ユウにぃだね!』
でも、今は違う―――
「ユウくん!」
心臓がどくりどくりと鳴っている。
彼はあたしに背を向けたまま、ピクリとわずかに反応した。
「ユウくん、待って!」
幼いあたしがキョトンとしてる。
大きなあたしはにっこり笑って立ち上がり、愛しい彼の側に行く。
『お兄ちゃんとは違うの。だから、ユウにぃじゃなくて、ユウくんなのよ!』
そう。目の前にいる人は、あたしの兄なんかじゃない。
あたしの大好きな人だ―――――!
「―――――え?」
あたしの呼びかけにびっくりしたのか、ぽかんとした顔をして、彼がこちらに振り向いた。
―――やっと、こっち向いてくれたね。
とん、と、軽やかに跳ねるように、あたしは彼の正面へと躍り出た。背伸びをして腕を伸ばし、間の抜けた顔をして突っ立っている彼の耳の下に、そっと両手を差し込んだ。
さっきまでの険しさがすっかり取れた彼の顔は、優しげで、温かみがあって、懐かしくてどうしても触れたくなって、あたしはにこりと微笑んだ後、自分の顔を彼に寄せた。
「――――っ!」
分かってくれるといいな、あたしの想い。
あたしの身体から鳴り響くドキドキが彼に伝わればいいのに。昔とは確実に違う感情に動かされて、あたしは彼の身体を抱きしめた。ぐりぐりと、頬の熱を彼の身体に押し付ける。
全部、全部。鼓動からも、頬からも、唇からも。もちろん、言葉でも。あたしの全てから想いが伝わるように、しっかりと彼に刻み込んでやる。
可能性を、ゼロのままにしたくない。だってあたしは後悔するんだもん。このまま諦めて家に帰ったら、あたしは絶対に、この日の自分が嫌になる――――
「ねぇ、大好きだよ?」
真っ赤なまま固まっている分からず屋の彼に、きちんと理解して貰わねば。そう言い訳をして、あたしは、再び彼の唇を奪いにいった。






