一旦、王子さまは去っていく
「うう。せっかくのレオン様のエキスがこもった永久保存の逸品が……。そうだ! 洗った後の水を瓶詰で保管すれば、いつでもレオン様のレアスチルを思い出せるじゃん! 私ってば天才じゃ!?」
レオンハルトだけでなく、周りの者からも寄ってたかって強制的に手を洗わせられた希は、涙を流さんばかりに悲嘆に暮れていた。しかし用意された桶の中の水をジッと見ながら、名案を閃いたとばかりに目を輝かせて手を叩く。
そんなテンションのユーファネートを見ていたレオンハルトは、なにやら妖しげな空気に気付いたのか、ユーファネートの手を優しく握ると、その小さな耳元で口を近付けて囁いた。
「なにを言っているのか分からないけど。いいかいユーファ、絶対にその水は保管しちゃだめだよ。そんな事をしなくても、いつでも僕が――」
「ちぇすとー。はーいストップ! いいですか殿下! 『いつでも』なんて存在しませんぞ! 駄目ですぞ! 先ほどもお話しした通り、学院を卒業するまではユーファネートの半径50メートル以内には近付かず、ましてやお触りも禁止ですぞ! いいかギュンター。お前も学院に行ったら、しっかりと殿下を監視――見張ってくれ」
アルベリヒが猛烈な勢いで二人の間に入り、距離を取らせると一気呵成にまくしたてた。そしてギュンターに血走った目を向けて命令する。
「この世界でもメートルなのね……じゃない! お父様! レオン様との距離が50メートルなんて聞いていませんわ! そのような事を言うお父様なんて大嫌いです!」
「う、嘘だよね? お父様を『ちょっぴり嫌い』だなんて嘘だよね? え? なんでそんな顔を……駄目だ。もう駄目だ侯爵家はこれで終わりだ……ふはははは」
希の言葉にアルベリヒは打ちひしがれ跪くと、涙を流しながら呆然とした表情を浮かべ笑い始めた。突然始まったコントのような出来事にギュンターは付いていけず、マルグレートも呆れた表情を浮かべていた。
「あなた? 今までユーファネートにそこまで執着していなかったでしょう? 急にどうしたのです?」
「わがままが酷くなって心配だった娘が、見違えるように自分磨きを始め、そして侯爵領の発展を考えてくれるようになったんだよ? それに『大好きなお父様。私は落花生を育てる土地が欲しいの。……え!? いいの!? 本当に? 土地をくれるなんてお父様大好き!』と言われて、さらに抱きつかれまでしたら溺愛するようになるよね? 本当は殿下とのお茶会も延期じゃなくて取りやめにしたかったんだ!」
「娘に土地をむしり取られてるじゃない。なにをしているのよあなたは……」
自分に縋り付くように愛娘の可愛さを力説している夫のアルベリヒに、マルグレートは呆れた表情のまま盛大なため息を漏らす。そんな夫婦で漫才をしている横で、ギュンターがユーファネートとレオンハルトに近付いていた。
「ちっ。仕方ないからレオンとユーファの橋渡しになってやるよ。だけど手紙のやりとりだけだからな!」
「ああ、それだけで十分だよ。まだね」
レオンハルトはギュンターの言葉に頷くと右手を差し出す。ギュンターは嫌そうに、レオンハルトは嬉しそうにお互いの手を握り返す。そしてレオンハルトは希に視線を向けると、目には優しさを浮かべて話し始める。
「ユーファ。僕の心を君に捧げる。どんな時であっても、例え君に苦難が訪れたとしても、いつも僕が側に居て支えてあげる。君はどうする? 心を受け取ってくれるかい?」
「君☆(きみほし)」シリーズ「君に心を届ける☆ 心を捧げるのは誰だ!?」の最高とされるシーンの1つである、レオンハルトが主人公に好意を伝えるシーンの台詞に気付いた希のテンションはマックスになる。そして顔を真っ赤にさせながら何度も頷いた。
「喜んで! 私の心もレオン様に捧げ――」
「だらっしゃぁぁぁ! させんぞ! そんな言葉は言わせんぞ。ユーファネートはパパが守ってみせる!」
先程までマルグレートに抱きついて慰められていたアルベリヒだったが、2人のやり取りを聞くと物凄い勢いで間に割って入る。そんな必死な父親の姿にギュンターは耳を塞ぎながら「あれは違う。あれは違う。俺の父上はあんなんじゃない」と、何度も呟いていた。
「アルベリヒはユーファネートを溺愛はしてましたよ。薔薇が好きだと聞いたら小麦から転作するくらいなのよ。忘れたわけじゃないでしょギュンター」
プルプルと首を振っているギュンターに、マルグレートが近付いてきた。2人の間に入ろうとして、娘から「お父様なんて大嫌い!」と再び言われ泣き崩れているアルベリヒを見る。
「……まあ、少し振り切れ過ぎている感じはするわね。貴方はお父様のようになっては駄目ですよ」
「なりませんよ!」
ギュンターは侯爵家当主であり、父親であるアルベリヒの醜態を見ながら、ああはなるまいと心に誓うのだった。
◇□◇□◇□
「ユーファ」
「レオン様」
完全に2人の世界に入り込んでいる希とレオンハルトを、マルグレートとギュンターに押さえつけられているアルベリヒがハンカチを噛みしめながら見つめていた。なにも語らず見つめ合っている2人だったが、御者が気まずそうに咳払いをする。そろそろ出発しないと次の宿泊地に間に合わない時間になっていた。
「……ん。分っているよ。ユーファそろそろ行くよ」
「お手紙待ってますね」
「ああ。毎日は無理だがマメに出すようにしよう」
レオンハルトの言葉に希は名残惜しそうに、その姿を目に焼き付けて心のフォルダに納めていく。信じる事が難しい、夢のような、奇跡のような、神の采配のような目の前にいるレオンハルトの姿が、これから居なくなると感じ希は寂しそうな顔になる。
「これでレオン様が去ったら夢から覚めないよね? これからもレオン様と呼べるよね?」
馬車に乗り込み窓から顔を覗かせているレオンハルトの憂いを帯びた顔も、目線が合って嬉しそうにする顔も、希にとってはかけがえのないものであった。そしてユックリと動き出す馬車。2人を徐々に引き離していく馬車を見えなくなるまで見送っていた希に、セバスチャンが遠慮がちに声を掛けた。
「ユーファネート様。そろそろお屋敷に入らないと。お身体が冷えてしまいます」
「……」
反応をしないユーファネートにセバスチャンは少し考えると、耳元で小さく呟いた。
「お風邪を召されると、殿下が哀しく思われますよ」
効果てきめんであった。物凄い勢いでセバスチャンの顔を見た希は、大きく頷くと令嬢にあるまじき速度で館に向かって全力で走っていった。




