メラリス侵攻
降伏勧告に向かったはずのエイダスが戻らないまま進軍開始時間が来た。
メラリスは静かにため息を吐く。何かあったのは確実だが、作戦担当ごとに分散配置された兵たちには各個行動開始が伝達されている。いまさら変更などできない。
そもそも進軍開始時間を、というかこの作戦そのものを立案したのは参謀のエイダスなのだ。
「何が参謀だ、誰よりも小狡く小賢しいというだけではないか。しかも肝心な場にはいない」
将軍・参謀などといったところで単なる便宜上の呼称、いわば人間どもの猿真似に過ぎない。魔族の常として個人主義、実力主義に凝り固まっており、上意下達が機能しないのだ。
自分が実際に闘って実力を認めた相手にしか従属しない、というのでは軍などとは呼べない。そのための方策、神輿の色を派手にして権威を理解させようとしたのだ。
先代魔王は理解を強制するのではなく個々の理解力を高める工夫、教育とやらを行い、意識構造改革に努めたが、志半ばで斃れた。
いや、違うな。倒したのだ。
既得権益に固執した頭の固い無知蒙昧の蛮族ども、その旗頭である、自分がだ。
結果として魔族は何も変わらず、我らはいまここにいる。軍の体裁を装っただけのならず者の寄せ集め。愚かな無数の頭を持った死にかけのキメラとして。
「城壁正門の赤牙大隊、先鋒二個中隊200が突入開始」
「城壁裏門の青爪大隊、先鋒三個中隊300が突入開始」
「上空偵察中の白翼大隊、突撃降下中隊100が上層尖塔に降下」
「黄風大隊、四個中隊を観測地点で待機中、支援攻撃準備良し」
上空偵察部隊から続々と報告が入ってくる。魔王城から盗んだ魔珠を使った短距離通信だが、ひと組しかない上に珠自体の質も悪いため最低限の報告しかできない。
何か起きそうな予感がしていた。脆弱な新兵だった頃のように、胸騒ぎがした。ひどく禍々しい何かが待っているような、闇のなかを断崖絶壁に向かって進んでいるような。
そんな筈はないのだと頭では知っている。新魔王軍などといったところで、新しい魔王に手持ちの兵はいない。魔王自身も戦闘能力を持たないと聞く。宰相派閥の占領地から解放され拾われた下級魔族の軽歩兵が数十名ほどいるだけだ。それに彼らは軍人兵士というよりも郷土防衛のために武装した地元有志で、打って出るような戦闘能力は低い。外征能力など全くない。魔王への忠誠心も希薄だ。
あとは、王の護衛を務める侍女と侍従。中級魔族で戦闘能力はそれなり。鍛錬もされていたはずが、たったふたりで大軍を相手に立ち回れるはずもない。上級魔族にして高位魔術の使い手でもあるエイダスの敵でもない。
では何故、エイダスは戻らなかったのか。なぜ二万もの帝国軍は壊滅したのか。
エイダスの推測では、玉座に掛けられた呪い“覿面の死”を使っての姑息な騙し討ちによるものだ。だが、それだけなのだろうか。まだ何か見落としている気がした。進む先のどこかに大きな陥穽があるような……
「……お待ちください、将軍! 正門で何か動きが!」
やはりだ。何かが起きた。
◇ ◇
城壁正門から城内に入った赤牙大隊の先鋒、中隊前衛を務める下級魔族兵はひと気のない前庭の中心にポツンと佇む人影を見つけた。
壊れて転がった玉座の残骸に腰かけ、天を仰いだまま身動きひとつしない。近付いて確認するまでもなく、その服装と面立ちには見覚えがあった。だが様子がおかしい。
「……エイダス参謀です」
「参謀だと? ご無事か!?」
「わかりません」
わからないとは何だ、といいつつ近寄った中級魔族兵はその言葉を理解する。
エイダスは恍惚とした笑みを浮かべたまま、涎を垂らしながら小さく何かを口ずさんでいるのだ。それが何の歌か気付いたとき、彼は何故か全身が総毛立つのを感じた。
それは、讃美歌だった。




