呪われたスパルタ人 24
それから、オリュンピア競技祭の最終日である五日目になるまで、ホメロスは、アレウスとアルケシラオス殿の前にはほとんど姿をあらわさなかった。
二人がさまざまな競技の観戦や、その合間をぬってひとこと祝意を伝えようと続々訪れる客人たちの相手に忙しくしているあいだ、ホメロスはひとりオリュンピアじゅうを歩き回り、多くの者と語らっては、さまざまなうわさ話をきき集めているようだった。
そして五日目、勝者を讃える式典の場で、聖なるオリーブの樹からとられた若枝の冠をかぶったアレウスとアルケシラオス殿の前に、ホメロスはふたたび姿をあらわした。
「アレウス君、栄冠がじつに様になっているじゃないか。アルケシラオス殿も、たいへんよくお似合いです」
「行ってしまうのか」
続々とつめかけては祝賀の辞を述べる人々をひととき遠ざけて、アルケシラオス殿は言った。
彼らの前に立ったホメロスが、すっかり旅装をととのえていたからだ。
「ええ。あらためてお祝いと、そしてお別れを申し上げるために参りました」
「ホメロスよ。そなたさえよければ、スパルタまでの勝利の行列に同行し、わしの屋敷の客となってはくれぬか」
アルケシラオス殿は、スパルタ人が心を許した相手にのみ見せる真心のこもった態度で、ホメロスの手を握った。
「存分なもてなしを約束しよう。わしは、そなたがしてくれたことに対して報いたいのだ」
「たいへんありがたいお言葉ですが、僕には、急ぎの用がありまして」
ホメロスは微笑みながらも、強い決意をにじませた調子で言った。
「人を探さなくてはならないのです。ずっとたずね求めてきた相手への手掛かりの糸が、思いがけず、このオリュンピアで見つかりました」
「では、戦車競技のときから今まで、ほとんどおまえの姿を見なかったのは、その糸をたどっていたからなのか?」
アレウスの言葉に、ホメロスがうなずくと、
「どんな相手だ?」
とアレウスはたずねた。
「おまえの助けには、いくら感謝しても足りることがない。せめて、少しでも手助けをさせてくれ。もしもその人物を見かけたら、おまえが探していたことを伝えよう」
「いえ、それには及びません」
ホメロスははっきりと苦笑して答えた。
「僕と関わりがあるなどと知れたら、あなたがたによけいな面倒がふりかかるかもしれませんから。その相手というのは、まあ、長年の商売敵のようなものでして。万が一、彼に出会うことがあっても、僕のことは知らぬふりをしておくのが賢明というものですよ。……念のため、ご紹介申し上げましょう」
ホームズは手のひらほどの鉛の板に尖筆でかきつけた、簡素ながらも特徴をとらえた似顔絵をとりだした。
「僕が探している相手というのは、この紳士です」
それをのぞきこんだとたんに、アルケシラオス殿の顔色がかわった。
「この男は……」
「ご存じなのですか?」
さすがに驚いてホメロスが言うと、アルケシラオス殿は声を低くして、
「この男は、話すときに、むやみに体を揺するくせがないかな?」
「まさにそのとおりです。いつ、どこでお会いになりましたか?」
「あれは、たしか、ねずみが死んだ一件の、すこし前のことだった。
この男が、わしをたずねて、屋敷にやってきたのだ。みずぼらしい旅人のなりをして、はじめは一夜の宿を乞うてきたのだが、じきに、競技祭の話をしはじめた。アレウスを御者として出場させるのをやめれば、黄金を支払う、などと言い出してな」
「なんと」
驚きの視線を向けたアレウスに、
「おまえは、今はじめて聞いた話であろう」
アルケシラオス殿は重々しく言った。
「競技祭の前にくだらぬことを耳に入れて、おまえの心を乱してはならぬと思い、黙っておったのだ。今となっては何の不都合もないゆえ明かすが、妙な話を持ち込んできたのは、その男ばかりではなかったのだぞ。大きな競技祭ともなれば、欲に目のくらんだ愚か者どもが、なにかと画策したがるものよ。
とにかく、その男はしつこく話を持ちかけてきたが、わしはやつの言葉をさえぎり、今すぐにわしの屋敷から出ていけ、さもなくばラコニア産の猟犬どもをけしかけるぞと、きっぱり言ってやった。……なんだ、ホメロスよ、何を笑う?」
「すばらしく賢明なご判断でした」
ホメロスは小さく拍手さえしながらうなずいた。
モリアーティは、プサウミスの勝利を確実にするため、念をいれてみずから工作に赴いたに違いなかった。
プサウミスが首尾よくオリュンピアで勝利をおさめ、彼の信頼を得たあかつきには、その財力と権力とを利用して、この地における自身の勢力を強固にするつもりだったのに違いない。
「いやはや、この世に、僕のほかにも彼を自分の家から追い出した人物があったとは、痛快至極!
じつに幸運でした。あなたが彼の甘言にのらず、彼を屋敷から叩き出していなかったら、このオリュンピアで、僕とあなたとは、敵同士として出会うところだったのです」
「おう」
そうなっていた場合の顛末を思い浮かべたらしく、アルケシラオス殿は真顔になって、
「まったくだ。実に、幸運だった」
と何度もうなずいた。
そこへ、
「母上!」
とアレウスが声をあげた。
全員が見やった先に、侍女に体を支えられ、顔をしかめながらも自分の足で歩いてくる夫人の姿があった。
夫人は、アレウスのそばにホメロスの姿があるのをみて目を見開き、険しかった表情をますます険しくしたが、彼女がなにか言うよりもはやく、アレウスがそばに駆け寄り、その手を取った。
「母上、そのようなお体で歩いたりなさらずとも、奴隷たちに身を運ばせればよろしかったのに」
「死んだ者でもあるまいし、スパルタの女が、板かなにかに乗せられて、人に運ばれてたまるものか。スパルタ人は、どんなになっても、自分の足で歩くのだ」
「いえ、無理にこちらまでおいでいただかなくとも、すぐにこの栄冠をお見せしに戻りましたのに」
「アレウス様。奥方様は、あなた様と旦那様が栄冠を受けるようすを一目、自分の目で見たいと、こちらまで出ていらっしゃったのですよ」
夫人の体を支えていた侍女が言った。
「栄冠の授与に、間に合うつもりだったが、遅れた」
悔しげに唸った夫人に、
「いいえ、遅れてはおりません」
アレウスはいたわりと情愛のこもった声で言った。
「俺にスパルタ人の誇りを教えてくださったのは、父上と母上です。その誇りが、困難に立ち向かう勇気を与えてくれるのです。ですから、俺の勝利は父上と母上のおかげと申せましょう。父上は、すでにご自身の栄冠をお持ちゆえ、俺は、この栄冠を母上に捧げます」
そして彼は自分の頭からオリーブの冠をとり、それを母親の頭にかぶせた。
夫人は一瞬、とても複雑な顔をした。
その目はアレウスを見つめ、アルケシラオス殿に向かい、ホメロスをちらりと見て、最後に、またアレウスの上に戻った。
そのときの夫人の顔には、まるで何かを吹っ切ったような、これまでに見せたことのない穏やかな表情があった。
「おまえは、わたしの、自慢の子だ」
彼女は呟くように言い、息子の両肩に手を置いた。
「よくやった」
アレウスは輝くように微笑んだ。
大きくうなずきながら、こっそりと目尻の涙をぬぐったアルケシラオス殿が、
「おや?」
ふと気づいてあたりを見回したときには、すこし前まで確かにそこにいたはずのホメロスの姿は、すでになかった。
* * *
陽炎のゆらぐ、ほこりっぽい土の道を、杖を手にしたひとりの旅人が歩いてゆく。
「ホメロス様!」
遠く背後から呼ぶ声が聞こえて、彼は立ち止まってふりむき、麦わらを編んでこしらえた帽子をちょっとあげた。
「やあ、リカス君じゃないか」
夏の陽射しの下、目路のかぎりを全力で駆けてきた若者は、両ひざに手をおいて激しくあえぎ、しばらくは口もきけないようすだったが、やがて呼吸をととのえて体を起こすと、ホメロスの前に革の袋をさしだした。
「旦那様からです。これを、お受け取りください」
一見して硬貨が詰まっていると知れる袋を、ホメロスは手を振って固辞したが、
「いいえ、取っていただかないことには、私が戻れません。何もおっしゃらずに、どうか、これを取ってください」
とリカスは言って、なかば強引にホメロスの手におしつけた。
「わかった、わかった、こうなったらありがたく受け取らせてもらうよ。君をわざわざこんなところまで走らせてしまって、すまなかったね」
「いえ、旦那様には、せひ私を行かせてくださるようにと、自分で申し出たのです。一言、お詫びを申し上げたくて」
「お詫びだって?」
「はい。私はまったくの一人合点で、旦那様を疑うようなことを申し上げたりして、かえってあなたの仕事のさまたげになってしまったのではないかと……勝者を称える式典で、旦那様が訪ねてきた男の話をなさったときには、肝が冷えました。私は、すっかり誤解をしていたのです」
「いや、君の話があったからこそ、僕は多角的な視点から事態を検討することができたのだよ。さまたげなどとはとんでもない、かえって感謝しているくらいだ」
「そうおっしゃっていただけると、私としても救われます。そして、私からも、どうしてもお礼を申し上げたくて。アレウス様を守ってくださって、ありがとうございました」
「無事に事件がかたづいて、こちらも嬉しいよ。君はこれからも気を抜くことなく、アレウス君の警護につとめてくれたまえ」
「ええ。もちろん、そのつもりですとも」
そのときのリカスの返答には、ホメロスがすこし不自然さを感じるほどの力強さがあった。
リカスのほうも、それを承知の上でのことだったらしく、物言いたげに自分を見つめるホメロスの目をじっと見返していたが、やがて、
「弟ですから」
と、静かな調子で言った。
「知っていたのだね」
「はい。人生で初めて、このことを口に出しました。なんだか、胸がすうっとしたようです」
「いつごろから、気づいていたのかね?」
「ずっと前から……幼いころからです。
私は、羊飼いの家で育ちましたが、ひとりの若い戦士が、何度となく私の育ての親をたずねてきました。その戦士は、私を見つけると、いつもじっと私のことを見つめていました。一度は、直接話したこともありました。
子供というのは敏感なものです。その人と自分とのあいだには、なにか深いかかわりがあるのだと、私ははっきりと感じました。
もっと成長してから屋敷に引き取られたとき、旦那様はそしらぬふりをしておられましたが、私は、一目で気づきました。まさにあのときたずねてきていた戦士こそ、旦那様だったのです。
旦那様は、私にとてもよくしてくださいました。それは、きまって、奥方様には決して見つからぬようなときでした。それで私は、幼いころからうすうすは感づいていたことを、確信するようになったのです」
「君が、アルケシラオス殿の実の息子であり、アレウス君の腹違いの兄だという事実をね」
「はい」
「それなのに、きみはよくも――いや、誤解しないでほしいのだが、僕はけっして非難するつもりで言うのではないんだ。きみは、彼が自分の父親であると気づいていたのに、よくもまあ、アルケシラオス殿への疑いを僕に告げることができたものだね?」
「私は、あなたの力が恐ろしかったのです」
リカスは言った。
「あなたには、他の人間にはない力がある。このままでは、旦那様があなたの術のために命を落とすことになるのではないかと恐れたのです。
もちろん、迷いはありました。しかし、旦那様がもしも道を誤っておられるのだとしたら、何とかして正道に立ち返っていただきたかったのです。そして、そのためには、あなたに真相を突き止めていただき、旦那様を止めていただくよりほかにはないと考えたのです」
「そういうことだったのか」
ホメロスはうなずいた。
「きみは、アレウス君を守ろうとしながら、同時に、アルケシラオス殿をも守ろうとしていたのだね。内心は、ずいぶんと苦しかったことだろう」
「ええ、それはもう」
リカスは、スパルタの奴隷がスパルタ人の前では決して見せることのない饒舌さを見せていた。
これから遠い地へと立ち去る旅人の前だからこそ、口にできることがあるのだ。
「リカス君、きみにこんなことをきくのもどうかと思うが、ここならば他人にきかれる心配もないことだし、この際、腹をわって話しておこうじゃないか。
アルケシラオス殿を父だと知っていたのならば、正直に言って、アレウス君に対する複雑な思いも、すこしは心のなかにあっただろうね? じつを言えば、その点で、僕はきみを疑ったこともあったのだよ。つまり、おおやけにアルケシラオス殿の子として認められている彼への嫉妬の気持ちが、きみによからぬ心を起こさせたのではないか、とね」
「とんでもない」
リカスの返答には、迷いやためらいの片鱗さえもなかった。
「いや、そんなはずはない、と思われるかもしれませんが、本当です。お疑いならば、この心を読んでくださってもかまいません。
旦那様は、私にも親子の情をもって接してくださっています。互いの立場を守るために、おおっぴらにすることはなさいませんが、私はずっとそれを感じていました。それでじゅうぶんです。
それに、私はアレウス様を――私が彼をこんなふうに呼ぶのも、妙だと思われるかもしれませんが――尊敬しています。
七つの年から兵舎に入ったアレウス様が、どれほど過酷な訓練を乗り越えてきたか、私は見てきました。私にはとても耐えられないと思うようなことさえ、アレウス様は、泣き言ひとつ言わずに乗り越えてきたのです。スパルタの奴隷として生きるのは辛いことばかりと思われるかもしれませんが、スパルタの戦士として生きることも、また過酷なのです」
「その苦労を見てきたから、たとえ年少で、腹違いの弟であっても、アレウス君を尊敬しているというのかい?」
「はい。ですが、もっと決定的だったのは、戦場での出来事です。
前にも話しましたが、私は、アレウス様に命を救われたことがあるのです。敵の攻撃で傷を負い、倒れていた盾持ち従卒の私を、アレウス様が、部隊長の命令もないのに陣地から飛び出して、命がけで救い出してくださったのです。そのためにひどい鞭打ちの罰を受けることになっても、アレウス様は声ひとつ立てませんでした。私が謝罪すると『当然のことをしただけだ』とおっしゃいました。
彼は、私が腹違いの兄であることなど、まったく知らない。私は、ただの盾持ち従卒なのです。それなのに――」
リカスはそのときのことを思い出すように遠くへ目をやり、しばらく黙っていたが、やがてまっすぐにホメロスを見た。
「私は、彼の気高い心を敬愛しています。今度は、私が、彼を守っていかなくてはなりません」
「きみの話をきいて、僕はたいへん安心したよ」
ホメロスは微笑み、リカスの肩を叩いた。
「話してくれてありがとう。これで僕も、後顧の憂いなく旅立てるというものだ」
「我々は、あなたのことを決して忘れません」
リカスが言った。
「アレウス様も、とても残念がっておられましたよ。あなたに再びお目にかかれる日は来るのだろうか、と」
「さあどうだろうね」
ホメロスは微笑んだ。
「きみたちの言葉を借りるなら、それは運命の女神たちだけがご存じだ。
そうだな、もしかしたら、二千三百年後に――」
「えっ、何ですって?」
「それくらい経ったら、僕は、アレウス君の顔をふたたび見ることができるかもしれないよ。オリュンピアで、あるいは大英博物館で、彼の輝かしい勝利を記念する像を……もしかしたらね」
ふしぎそうな顔をしたまま、リカスは踵をかえし、ふたたび長い一本道を駆け去っていった。
家族のもとへと帰ってゆく若者の背中を、ホメロスは長いことまぶしそうに見送っていたが、やがて彼もまた踵をかえし、ほこりっぽい道を、たった一人で歩きはじめた。
その道が、いずれ懐かしい221Bの部屋へとたどりつくのかどうかは、今はまだ、運命の女神たちだけが知っているのだ。
【第一部 完】




