呪われたスパルタ人 23
怒涛のような拍手喝采のなか、プサウミスは微笑をたたえ、ゆったりとした衣を揺らしながら、アルケシラオス殿に歩み寄った。
「おめでとうを言わせてもらいますよ。実に不本意ながらね」
「勝者! アルケシラオス殿!」
触れ役が叫び、ラッパが高らかに吹き鳴らされる。
激しい競り合いは最後の一周までもつれこみ、二台の戦車を一枚のカーペットでおおってしまえそうな大熱戦の末、最後の最後に驚異の加速を見せたアレウスの馬たちが、からくも半馬身の差で先に決勝地点に駆け込んだのだ。
アルケシラオス殿は、石のようにじっと立ったまま、黙って相手を見返した。
スパルタ人らしく重々しい態度を保ってはいるが、両の目は輝き、頬は紅潮し、こうして口をひき結んでおかなかったら、浮かれた若者のように歌いながら踊り出してしまったに違いない。
「それにしても、奇妙な出来事でしたね」
プサウミスは続けた。
「この目で見るまでは信じられなかったが、あれこそが、噂にきく円形祭壇の祟りというものなのかもしれない」
「いいえ。そうではないと、この僕がはっきり申しあげましょう」
急に聴こえたその声に、プサウミスは飛びあがって振りむいた。
顔にはりつけていた優雅な笑みに亀裂が入り、獣が牙を剥くような表情があらわになった。
「呪術師! 何の用だ?」
「おお、ホメロスか!」
プサウミスとアルケシラオス殿が同時に叫んだところへ、紫の衣の審判団がにこやかに近づいてきて、アルケシラオス殿を競馬場の中央へとうながした。
馬場へと出ていき、満場の人々から祝福されながら勝者の証を授かるアルケシラオス殿を、プサウミスは射殺しそうな目つきでにらみつけていたが、
「で、何の用だ」
やがて、愛想のいいときとは別人のような声で、ホメロスに食ってかかった。
「さては、さっきの混乱は、貴様のしわざだったのか?」
「いいえ、プサウミス殿、あなたがいちばんよくお分かりのはずだ。先ほどの混乱は、これのしわざですよ」
ホメロスがさっと掲げたものを見て、プサウミスの表情は奇妙に歪んだ。
それは手のひらの中にすっぽりとおさまるほどの、金属でできた細い筒のようなもので、上下に穴が開き、一部に切れ込みが入っていた。
「何だ、それは……」
「見ての通り、笛ですとも」
「笛だと? それが? そんなもの、音が鳴らんだろう」
「よくご存じで」
ホメロスはにやりとして、手にしたものを口にくわえるふりをした。
「確かに、こいつをどんなに強く吹いても、音は鳴りません。人間の耳に聴こえる音はね」
「何?」
「寝そべった犬が、主人がまだ遥か遠くにいるうちから、その足音を聴きつけて飛び起きるのを見たことがありませんか? ある種の獣たちは、人間の耳には聴きとれぬ種類の音を聴きとることができるのです。
この笛は、人間の耳にはほとんど音としては感じられないが、馬たちにははっきりと聴こえるような、きわめて高い音を発するものです。実験をしてみれば、僕の言葉は容易に証明されるでしょう」
「それが本当だとしたら、その笛は、貴様の持ち物だろう! 優勝を得るために、いかさまをしかけたのだな!」
「おやおや、そんな大きな声で、根も葉もないことを言ってもらっては困りますな」
ホメロスはプサウミスに近づき、ほとんど耳元でささやくようにして言った。
「そちらがそう出るなら、こちらとしても、出るところに出なくてはならなくなりますよ。何しろ、こちらは証拠をおさえておりますから。あなたが支払う罰金で、オリュンピアには、さだめし立派なゼウス像が建つことでしょうな」
「証拠だと?」
ホメロスは微笑み、もう一方の手も開いてみせた。
そこに乗っていた銀貨を見て、プサウミスの表情は硬直した。
「ほら、ここに、はっきりと刻印が見えます。カマリナで発行された硬貨だ。もちろん、これを持っていた男たちの身柄も、僕がおさえてある。あなたも紳士ならば、これ以上、むだなあがきはしないことです」
プサウミスはいまいましげに唸ったが、やがて一転して、おもねるような笑みを浮かべてみせた。
「いや、まったく見事だ。こちらの負けだ。何が望みだ? 金か、土地か?」
「僕の望みは、真実だけだ。あなたには、今回の件の黒幕について話していただきたい。つまり、あなたに、これを売った人物のことを。
品物そのものか、あるいは製造方法か……いや、品物そのものに違いない。製造方法をむやみに明かしては商売にならない。この時代にそんなものはないはずなのだから。
今回の計画をあなたに持ちかけ、この笛を売った人物は?」
そうささやくうちに、ホメロスの目には、プサウミスでさえ気圧されるほどの、熱情にも似た炎が燃え上がった。
「言いたまえ! その人物の名は?」
「名は、名乗らなかった」
ホメロスの気迫に圧されるようにして、プサウミスは答えた。
「あの男は、ある日、私を訪ねてきて、鳴らない笛を吹いてみせ、馬たちを驚かした。自分は同じものをたくさん持っている、人を大勢雇って、吹き鳴らさせればよいと……子飼いの馬たちは、あらかじめ慣らしておけばよい。人間には決して聴こえない笛だから、大勢があつまる競馬場で吹き鳴らしても、気づかれる心配はないと……」
「あなたほどの世故にたけた方が、まんまと言いくるめられましたな」
ホメロスはとがめるように人さし指を振った。
「確かに、ほとんどの人間には聴き取れない音だが、聴覚が鋭敏な者にはわずかに感知されることもある。特に少年や若者は、きいんという不快な耳鳴りとして感じやすいのです。
ある若者が、両耳をふさぐ動作をしているのを見て、僕は真相を悟ったのですよ」
「うむ、あのじじいめ、だましたな!」
「その人物は、年配の男性だったのですね」
ホメロスは我が意を得たりとばかりに微笑んだ。
「言いにくいようでしたら、僕のほうから申しましょう。こうではありませんか?
その人物は、長身でやせ型、額が広く知的な顔つきで、目は落ちくぼんでいる。姿勢はすこし前かがみで、話しながら体を左右に揺り動かす癖がある。いかがです?」
ホメロスがひとつひとつの特徴を挙げていくうちに、プサウミスの目はだんだん見開かれていった。
「おまえは、あの男を知っているのか?」
「ええ。互いに、知りすぎるほどにね」
「ならば今度会ったら伝えておけ」
プサウミスの顔に、一度は覆い隠された、残忍な獣めいた表情がのぞいた。
「カマリナのプサウミスをだまして、ただですむとは思うなと。今度見かけたら、かならず後悔させてやる。生きたまま木に吊るして、皮を剝いでやる!」
「あなたが彼の顔を見ることは、もはや二度とないでしょうな」
ホメロスは静かに言った。
「そして、あなたはそれを幸運に思うべきだ。今度、彼と顔をあわせることがあったとしたら、生皮を剥がれるのはあなたのほうになるかもしれない。しかも、その出来事と彼とのあいだに関わりがあるなどとは、誰も夢にも思わないような方法でね」
ホメロスの淡々とした言葉をきくうちに、プサウミスの目にはわずかな不安の色が浮かんできた。
「いったい、何者なのだ、あいつは?」
「悪の天才、犯罪界の帝王です。今は零落し、流浪の身ではありますが、放っておけば数年のうちには再び大きな網をはりめぐらし、その中心にいすわって手足のように配下を動かしながら、あらゆる悪事の采配をふるうようになると僕は確信するものです」
「名は?」
「ジェイムズ・モリアーティ」
ホメロスがそう言ったとたん、ひときわ大きな歓声があがった。
アレウスが、アルケシラオス殿をかたわらに乗せ、優勝した戦車で競馬場をゆっくりとまわりはじめたのだ。
アレウスは大きく手をふって観客たちからの喝采にこたえていたが、そうしながらも、観客席にくまなく目を走らせていた。
その目が、ぴたりとこちらをとらえたとたんに、
「ホメロス!」
アレウスはそう叫んで戦車をとめ、父親に手綱を任せて地面にとびおり、駆けよってきた。
人々はどよめき、いっせいに伸び上がって、勇士が向かった先を見ようとした。
「ホメロス」
名探偵の両肩にしっかりと手をおいたスパルタの若者の額には、勝者の証である赤い鉢巻がしっかりと巻かれている。
「約束のとおりに、俺の戦いを見守ってくれたのだな。俺には、そのことがちゃんと分かっていた。この勝利は、おまえのおかげだ。円形祭壇の前で奇妙なことが起きたのを、おまえが鎮めてくれたのだろう?」
「いや、この勝利は、きみ自身の手でつかみ取ったものだよ。何が起きようと馬たちに戦意を失わせず、彼らを鼓舞して最高の力を発揮させたのは、他の誰でもない、きみなのだからね」
ホメロスの賞賛を受けて、アレウスは、スパルタの男子がふだん決して人に見せることのない、輝くような満面の笑みを浮かべた。
「ありがとう。……ありがとう、友よ」
アレウスはふたたび戦車に飛び乗り、父とともに栄光の行進を進めていった。
観客たちが、アルケシラオスと、アレウスの名を何度も呼んで讃える声が、競馬場にこだまする。




