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幸福の在り処  作者:
本編
11/14

第五話 下


 謁見の間には、国王の他に王妃とラナリア、ハムニア公爵夫妻、イリスとレヴィルがいた。

 すでに場は整い、宰相も控えている。

 バルドは玉座の一段下に控え、カーライルはイリスとレヴィルに並び、クライブはここにいない。ただの従者に、ここにいる資格はなかった。


 跪こうとした面々は、国王によって制されて立礼を取る。


 何か悪い予感がしているのか、ジーンとジェノヴィア伯爵だけが顔色を悪くしている。伯爵夫人もセドリックも居心地悪そうにしている。

 ただ一人、アリスはキョトンとして国王を見ながら首をかしげている。

 礼をとることのなかったアリスにジーン達は、内心慌てるが国王の手前、不用意な言動はできない。


「…それがジェノヴィアの長女か」


 温度のない冷徹な声音が、アリスを見つめる深い海色の瞳が、鋭く射貫く。

 本能的な怯えか、アリスはジーンにすがり付くが、ジーンは間髪入れず払い除けた。それにショックを受けたように見てくるアリスに気づいていたが、ジーンがそちらを見ることはない。

 バルドの言葉に妙な焦燥を抱いていたジーンは、国王がこの場に居ることを楽観視できなかった。


「ジーン様…?」


 どうして、と言いたげに見つめてくるアリスに、ジーンは初めて苛立ちを感じた。

 国王を前にして何故変わらずに居られるのか、と。

 学院のように気安く、自由に接することは許されないのに、と。


「まるで幼子だな。イリスと同年とは露ほども思えん。これでよくぞ社交界に出したものだ」


 そうは思わんか、と国王が冷ややかに問いかけるのは、イリスよりも下座に控えていたハムニア公爵夫妻だ。

 両親の存在にその時になってようやく気付いたジーンは、我知らずすがるような視線を向けた。

 だが、二人はそれを無視した。


「全く持って、その通りですな。私共はイリスを見ているからか、どうしても令嬢達に厳しくなってしまいます」


「致し方ない。並々ならぬ努力と忍耐によってなされた結実は、誰にも真似できるものではない」


 褒められたイリスは、淑やかに一礼するだけ。笑みを浮かべもしないが、国王や王妃、バルドなど近しい者には照れているのが分かった。


「で、イリスの代わりとしてお前の息子が望んだのがそれか」


 見下しと侮蔑をふんだんに含んだ眼差しと言葉が、アリスに突き刺さる。

 イリスに向けられた柔らかな視線も温かな声も、全て噓だったのではないかと思えるほど冷ややかなそれに、アリスは小さな悲鳴を上げて後退った。

 威圧されるのは致し方ないが、その態度は不敬無礼に過ぎる。


「お恥ずかしながら…」


「正に恥さらしだな」


 痛烈で率直な批判にジーンは息をのみ父を見るが、視線は返らない。気づいていないのかもしれないし、気づいていて無視しているのかもしれない。


「まぁ良い。叔父上の愚かさが遺伝したのであろう」


 やや投げやりに話題を切った国王は、宰相に目配せをする。

 すっと僅かな衣擦れだけで前に出た宰相は、書状を広げる。


「ハムニア公爵家長子ジーンとジェノヴィア伯爵家第二子アリスの婚約、及び、ハムニア公爵家第二子フィオーラを公爵家継嗣と定め、ジェノヴィア伯爵家第四子レヴィルとの婚約を国王ライオネル=ラティルカの名の下に承認する。また、ジェノヴィア伯爵家第三子イリスをハムニア公爵家の養子とし、ラティルカ王家王太子バルド=ラティルカとの婚約を定める」


 書状を読み上げ、宰相は重ねられていた数枚をそれぞれジェノヴィア伯爵とハムニア公爵へと渡す。

 国王の署名と印が押されたそれは、勅命書である。


 勅命として下されたそれに、異を唱えることは不可能。


 一ヶ月後に予定されている王家主催の夜会で、これらは正式に国王の口から伝えられ、周知の事実となる。


 そこまで思い至れたのかはわからないが、ジェノヴィア伯爵夫妻もセドリックも意味を理解しきれていないのか、呆然としている。

 ジーンだけが、事態の重さを理解して青ざめ、両親とイリスを見て唇を震わせている。


「…恐れながら、発言の許可をいただけますでしょうか」


 震えを隠しきれないジーンの声に、国王は無感情な視線を向けて許した。


「私が、知る事実とは全く違う事実が並んでいるように思われるのですが…」


「それがお前の望みであろう」


 遮るような形で国王が告げる。端的にバッサリと切り捨てる。

 内心、国王は落胆していた。

 優秀と思い、誠実と考え、一途と感じていた息子の側近候補のあまりにもな体たらくぶりに。そして、今の発言の実のなさに。


「イリスを疎んじ、遠ざけ、忌々しく思っていたのであろう。その小娘と共にあることが重要であるがゆえ、全ての責務を放り出したのであろう。それらの尻拭いをイリスやカーライル、同盟国の皇太子に押し付けたのも、お前が公爵家継嗣としての立場を疎んじていたからであろう。故に、望み通り、お前が疎んじたイリスを次期王妃に、お前が望んだ小娘をお前の妻に、公爵家継嗣としての立場と重責をお前の妹に、次期国王の側近にして同盟国との友好を保つ重要な立場をレヴィルに。お前が疎んじ放り投げ、捨て置いたそれらを背負うに足り成すに足りうる者達に委ねたに過ぎぬ。―――言い置くが、お前のためではない。国のためだ」


 国にお前は必要なく、替えはいくらでもあるのだ、と辛辣に言いきられ、ジーンは言葉を失った。


 ジーンとしては、反論したかったのかもしれない。

 そう思ってイリスは哀れんだような視線を向けたが、小さくため息をついて意識を切り替える。

 この後、何があるのかをイリスは予感している。レヴィルもカーライルもだろう。

 三人が腹にわずか力を込めたのは、諸々をこらえるためだ。


 結果として、その対処は正しかった。


「あの、つまり、ジーン様は公爵を継がなくても良くて、あたしはジーン様と結婚できて、イリスは王太子様が面倒見てくれるってことですか? 良かったね、ジーン様。継ぎたくないって、イリスなんかよりあたしと結婚したいって、でもイリスの行き先がなくなるのは可哀想だって言ってたもんね!」


 場違いに明るい声に、その内容に、崩れかけたのは誰か。

 正確なところはわからないが、はっきり言えるのは、王妃が噴き出した、ということである。


「先にも思ったが、何とも愉快かつ非常識な思考回路の小娘だ」


 収まりきらない笑いを含めた言葉は、アリスを揶揄するもの。当人がそうと気づかないだろうが。


「小娘」


「…あたし、アリスっていう名前があります。人の名前をちゃんと呼ばないのは失礼ですよ」


 嗜めるようにいうアリスだが、現状、問題はそこではない。そもそも、失礼以上の問題を起こしているのはアリスなので、どの口がいう、という状況である。


「自国の国王と王妃と王太后と王太子を知らない成人済みの貴族令嬢失格者に言われてもな」


 肩をすくめての言い分に、バルドもイリスもカーライルもレヴィルも思わず深く頷いた。

 王妃の方に分がありすぎる問答である。


「まぁ良い、ではご期待に応えて呼ばせていただこう。ジェノヴィア伯爵家第二子アリス・ジェノヴィア。問うが、お前は公爵夫人というものを理解しているのか?」


「公爵の奥さんです!」


 はいと挙手しそうな勢いで朗らかに言い切ったアリスに、今度はカーライルが噴き出した。


 抑えきれない、というか抑える気があったのかどうか不思議なほどの爆笑である。

 普段の穏やかな好青年を知っているジーンは、馬鹿にしているかのような笑いにぽかんとしている。


 王の御前での爆笑は前代未聞であるが、誰も咎めない。

 王は呆れを通り越して脱力し、バルドは表情を変えていないが握りしめた掌に指を食い込ませ、レヴィルは笑っていないが崩れ落ちた。

 イリスは、瞳を細めてアリスを見つめた。


「他には?」


 王妃の重ねた問いかけに、アリスは意味が分からないと言いたげに首を傾げる。


「何かあるんですか?」


「…なるほど」


 王妃は笑いの名残を捨て去って、真顔で頷いた。

 妖艶な美貌で真顔になられると凄みが増して恐ろしいくらいなのだが、アリスは何も感じていないらしく首を傾げ続けていた。その鈍感さがうらやましい、と思った者がいたが、一瞬後には黒歴史認定して記憶の底に封じ込めた。


「イリス、言いたいことがあれば言うといい」


「特には」


「本当に?」


「はい。この子には、何を言っても意味はありませんから。伯爵家の方々にも、私の言葉が意味を成しことはありません」


「そうか」


「はい」


「イリス、どうして…」


 そんな酷いことを言うの、と続けたかったのだろうが、先にイリスが口を開いた。

 何も言う気はなかったし、言いたくなかったのに、王妃がキレたらことだとイリスは対応することに決めた。


「公爵夫人は、王妃殿下に次ぐ女性の地位として社交界及び外交に携わり、国を代表する貴族として振る舞う。その為、諸外国の言葉はもちろん、友好関係に敵対関係、当代有力者達の顔と名前が一致していなくてはならない。アリス、貴方、このうちのどれか一つでもできるの?」


 出来ないでしょう、と言外に告げずに問えば、セドリックがギッと睨んで罵倒しようと口を開くが、イリスに扇を突き付けられて反射的に黙る。

 明らかな威圧に、格の違いが明確となっているのだが、ジーンも伯爵夫妻も気づいていない。


「お兄様、貴方は仰いました。王妃殿下が、ハムニア公爵夫人に遠慮して私を気遣っておられる、と。西方二大国であるラムダ王国王太后殿下の姪御であり、同じくアレイム王国先王陛下の姪御であり、海洋の覇者たるネリス王国の第一王女殿下であった王妃殿下が、王家と縁戚ではない侯爵家出身であるハムニア公爵夫人に、遠慮している、と」


 丁寧に説明して見せた理由が分からないでいるらしいセドリックに、これでは出世できまい、とイリスは内心呆れた。

 反応を示したのは、王妃ではなく王だった。


「国際問題だな」


 はっきりとした言葉に、ぎょっと目をむいたジェノヴィア伯爵に、王は深々とため息を吐いた。


「我が国は大国にあらず。その公爵家に、海の支配者と西方の強者が劣る、と諸侯たる伯爵家継嗣が発言するとは…。我が国の見解がそうである、と取られてもおかしくない。普通に、国際問題で、戦争勃発だろう。そこまでではなかったとしても、西方諸国からは睨まれるだろうな。そうなれば、経済及び流通は悪化、西方諸国だけでなく各国が我が国との関わりを断つだろう。友好国であるクルミストもラムニアも背を向けるであろうな」


 自分の発言がどこにどう繋がるのか、どれだけ浅慮で無理解であったかをなんとなく理解し、重大さをわずかに察して、セドリックの血の気が引く。

 卒倒してもおかしくない事態であるのに、それだけであるのに誰もが最早無視した。

 イリスの言う通り、言っても意味がないのだ。この一家には。


 わたわたと言い訳しようと挙動不審になっているセドリックを無視して、王は王妃を見る。


「いかがする?」


「従兄弟殿達に言うは易いが、早耳の弟からは『子供の妄言に付き合うほど暇じゃないから放置で』と先んじて手紙が来ている」


「ならいいか」


「ああ」


 国王夫妻のあっさりし過ぎた会話に、バルドは白けた眼差しを向ける。

 すでに決定済みのそれを、わざと口にしているだけに過ぎない。


 内陸国であるラティルカの貴族は、島国を海賊の末であったり逃亡者が祖であったりする経歴が多いことを理由に軽んじている。その為、海洋国であるネリス王国出身の王妃を侮る貴族は多い。

 それを、当のネリス王国国王が知らないわけがない。王妃の存在を抜きにしても、彼の王は早耳の情報通として有名で、彼の前では秘密も秘密足りえないと囁かれるほどだ。

 王族でなくとも、それなりに高位の貴族ならば、誰でも知っている話だ。


「寛大な御心を持っておられる彼の王達に深く感謝せよ」


 ほっと息を吐いて安堵しているジェノヴィア伯爵夫妻とセドリックに、イリスはそっと息を吐く。

 許されたのではなく、生かさず殺さず、文字通り放置する、というある意味残酷な対処がなされるのだ、と気付いているからこそ、イリスは呆れるしかない。


 最早、取り返しがつかないのだ、ということを理解していないのだ。


 ぐるり、と王は一同を見渡して、どうでもよさそうに投げやりな口調で締めくくった。


「こちらの用は済んだ。退室を許可する。速やかに王宮より去れ」


 あまりにも雑な終わり方だが、彼らの相手をするのが疲れるのは皆同じだったので、誰も何も言わない。

 だが、彼らの方は違う。正確には、ジーンは違う。


「待ってください! こんな、こんな一方的なのはあんまりです。何より、臣の婚約者を略奪するなどあってはならないことだと思わないのですか?!」


 必死、と如実にわかる叫びだが、王も王妃もバルドもカーライルもレヴィルもあきれた眼差しを向けるだけ。

 その様子に焦れたジーンは、イリスに視線を向ける。


「イリス、君は…」


「幼い頃、わたくしは貴方に花をもらいました。一輪の小さな菫です。わたくしはそれである、と貴方は仰いました。自己主張は控えめでも、凛と咲く気高い花である、と。わたくしはそれが嬉しかった。貴方を支える妻となり、貴方の誇りとなろうと努力しました。―――ですが、貴方が欲しかったのは共に立つ華ではなく、愛でる為の花だったのですね」


 ジーンの言葉を遮って、淡々と告げる声音には何の感情もこもっていない。

 どうでもいいものに対して、事実だけを告げる声だった。


「とても残念です。ですが、感謝もしているのです。貴方のおかげで、わたくしはわたくしをわたくしとして愛してくださる方のお役に立てるだけの力を身に付けられたのですから。―――ごきげんよう、ハムニア公爵公子様。もう顔を合わせることもないでしょうが、どうかご健勝であられませ」


 違う、と小さく震える声はイリスにも届いていたが、それを聞こえなかったふりをした。

 今更、もう遅い。

 気付いても、理解しても、抗っても、足掻いても、最早未来は覆らない。


 その未来を望み、手にしたのはジーン自身だ。


 動こうとしないジーンをハムニア公爵夫妻が半ば引きずるようにして動かし、その様子に戸惑っていたジェノヴィア伯爵家一同も追随するようにようやく動く。


 全員が扉をくぐり、最後にハムニア公爵夫妻が深々と頭を下げた姿を最後に、扉は閉ざされた。


「イリス」


「はい」


「そなたはそなたらしく、励め。期待している」


「必ずや、ご期待に応えて見せますわ、陛下」


 柔らかな笑みを浮かべ、首を垂れてはっきりと応えるイリスは、さっきまでの冷厳な印象とはまるで違う。

 微笑ましいと言わんばかりの笑みを浮かべてラナリアが何度も頷いている。

 レヴィルもほっとしたように息を吐き、カーライルは清々しいと言わんばかりだ。

 王妃も楽しくてしょうがないという笑みを浮かべている。


 バルドはイリスに寄り添い、手を取って微笑みかける。


 温かな、優しい空間がそこにあった。







 扉一枚隔てた向こうへと押しやられた、愚者を置き去りに。








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