第五話 中
王妃が伝達したのか、あられもない格好で走るアリスを見て見ぬ振りする女官達は、さりげなく行き先を誘導する。
辿り着くのは、王太子が開いた茶席だ。
イリス達が戻ってくるまでの間、暇潰しに、とバルドはカーライルとレヴィルを通して招いたクライブと共にジーン達を迎えた。
王太子と既知になる絶好の機会として、ジェノヴィア伯爵夫妻と嫡男は必死である。
穏やかに微笑んだままのバルドと無表情なカーライル、二人の背後でひっそりと立っているクライブ。
三人の姿に、ジーンだけが違和感を覚えていたが、それを指摘することはできなかった。バルドの、今まで向けられていた柔らかな眼差しが、冷徹なものとなっているから。
半数にとっては殺伐と、半数にとっては有意義に過ごしていた時間に、アリスが泣きながら乱入し、最も近いところに行った兄ではなく、やや遠い所にいたジーンに縋り付く。
その姿は、仲睦まじい恋人同士にしか見えないのだが、真実を思えば良識ある者は渋い顔になるだろう。
9割9分、嘘と妄想に彩られたアリスの泣き言が終わるのを待って、バルドはゆっくりと首を傾けた。
「終わったかな? ジーン、その見苦しいお姿のお嬢さんをご両親の元にお返ししなくてはならないから、離れてくれるかな?」
ゆったりとした柔らかなバルドの声に、ジーン達はポカンとした表情をする。
アリスの両親ならばここにいるというのに何を言っているんだ、と言わんばかりだ。
「王宮内を駆け回り、目上の者に挨拶もなく場に乱入し、名乗りもせず、よりにもよってイリスに罪を擦り付けて、罰するように君をそそのかす始末。高位貴族のご令嬢とはとても思えないし、デビュタントしている淑女だなんて他の淑女に対して無礼すぎて言えるわけもない。なら、背ばかり伸びた常識しらずのお嬢さんだと思うのが普通だろう? ジェノヴィア伯爵家にはそんな年頃の不出来な令嬢がいるなんて聞いたことが無いから、別に登城した貴族のお嬢さんだと思ったんだけど?」
相変わらずのゆったりとした声音で紡がれる言葉は、中々に辛辣だ。
伯爵令嬢として点をつける以前の問題、高位下位関係なく貴族として落第、ときっぱり言い切られているのだが、アリスは理解できていないらしく大きな瞳を丸くしてバルドを不思議そうに見ている。
ちなみに、お嬢さん、という呼び方は、デビュタントしていない小娘、という意味合いが含まれている。
「殿下、そのように厳しくおっしゃらないでくださいまし。この子も妹につらく当たられて悲しく、このような無体を働かれて気が動転したのですわ」
「そうです。我が娘ながら、何と悪辣な手段に出るのか…。愛らしい淑女であるアリスに嫉妬して、ドレスを引き裂くなど」
ドレスを破いたのは王妃で、イリスは一言も口を開いていない。
イリスがした、と言ったのはアリスで、証拠はどこにもないのだが伯爵夫妻は信じ切っている。
アリスが駈け込んで来た裏で、そっと入り込んできた従僕がバルドに耳打ちをして簡潔に事の次第を伝える。
だと思った、と口の中で呟いたバルドの心境を察した者はカーライルくらいだろう。
「ジーン、私には彼らの言葉がいささか理解しづらい。君にはわかるかな?」
「…イリスがアリスのドレスを破いた、ということでしょう」
何を言っているんだ、と言いたげな表情に、バルドはジーンに失望を深める。
「なるほど。席に座ったまま、背を向けたまま、騎士に留められて声がようやく届く距離にいたこのお嬢さんの、ドレスを破いた、と。神業だね」
うんうん、と頷くバルドに、カーライルは顔を背けるが肩が震えている。クライブは腰裏で組んだ手に爪を立てることで何とかこらえる。何をかは言わずもがな。
「殿下、イリスは常日頃からアリスを妬み、貶めようとしているのです。僭越ながら、普段のイリスをご存じで無い王太后殿下も王妃殿下も、その外面に騙されておいでなのです」
「それを見抜けもしない程度の観察眼しかない、とそう言いたいわけだね。ありがとう、セドリック殿。君のお祖母様と母上への見識が良く分かったよ」
まだ言葉をつづけたそうだったイリス達の兄であり次期伯爵であるセドリックの言葉を早口で遮り、優しげな笑みを浮かべたバルドはおもむろに席を立つ。
「ジーン、いや、ハムニア公爵公子。君の目が節穴であるとよくわかったよ。しばらく、頭を冷やした方が良い。卒業後の職位は凍結しておくから、しばらく公爵領でゆっくりすると良い。婚約者であるアリス嬢と一緒に」
「…えっ」
「今までは体の弱いアリス嬢を慮り、婚約者代行としてイリスが表に出ていたけれど、広い王宮内を走り回れる程度には健康であるようだし、イリスが負担を負う必要はないだろう。これでようやく、私も婚約者と並べると言う物だ」
バルドの言葉を、ジーンは理解できなかった。
どこか、心の奥底で言いしれない焦燥感が湧き上がってくるが、それが何なのか理解する前にバルドは続ける。
「表向きは公爵家長子の君の婚約者として、実際は私の婚約者として将来の国母という重責を担う為の勉強を積んで来たイリスには、頭が下がる。彼女ほど才に溢れ、情に篤く、家族思いな女性はいない。厳しくも穏やかな家庭を築けるだろう」
この場で、バルドの言葉を理解できた者はいなかった。いや、正確には、すぐに、理解できた者はいなかった。
数呼吸の間を置いて、ジーンが気付いた。
喉を引き攣らせ、声にならない声を出したように表情を歪ませたが、それに気付かなかったようにバルドは穏やかにジェノヴィア伯爵一家に告げる。
「社交界ではイリスがアリス嬢の代役ではなく本当の君の婚約者だと思われている様だから、早く訂正しなくてはならないね。イリスが卒業したら発表のつもりだったし、少し早くても問題ないだろう。知っていた者もいるからね」
視線を受けて、カーライルは今日初めて笑みを浮かべ、クライブは深々と頭を下げた。
「…えっと、つまり、イリスはジーン様の婚約者だって嘘を言って、あたしをのけ者にしてたってこと? で、あたしがジーン様の本当の婚約者ってこと?」
わずかな戸惑いを含ませながらも喜色いっぱいの笑顔で、両親や兄を見上げるアリスは、笑顔の肯定が返ってくると思っていたのだろう。
ジェノヴィア伯爵夫妻もセドリックも、呆然と固まったまま。我に返ったのは、セドリックが一番早かった。若さゆえか。
「で、殿下…。それは、どういったことにございましょう。確かに、ハムニア公爵家からは『ジェノヴィア伯爵家第三子イリス嬢を、次期公爵夫人に求む』と申し出が…」
ハムニア公爵家が婚約を申し込んだ手紙は、しっかりと金庫に保管されている。理不尽な婚約破棄や不履行、不義があった場合に備えて、どの家でもそうしている。口約束からの発展でも、正式に婚約を結ぶ年頃になれば、互いに書面を交わして契約書として保管するのが常識だ。
ジェノヴィア伯爵家がいかに愚者の集まりであっても、そういったことはちゃんとしている。
セドリックの言葉に、バルドはゆったりと首を傾げる。
「それはおかしい。領地に戻って、しっかり確認した方が良い。ハムニア公爵夫妻にも確認したが、『ジェノヴィア伯爵令嬢を、ハムニア公爵家長子の妻に求む』と記した、と聞いたが?」
確認する頃には、バルドが言ったような内容にすり替えられている。
実際には、セドリックの言ったことが正しい。だが、それでは不都合が生じるから、影働きの者が伯爵家に忍び込んですり替えを行いに行っている。発ったのは5日前なので、今日中に戻ってくるだろうが。
とはいえ、すり替え自体は影働きを派遣せずともあっさり済んだだろう。イリスを可愛がっていた先代から仕える老齢の使用人達に子細を話して命じれば、粛々とやり遂げてくれたに違いない。
公爵夫妻のみならず、王太子の言葉を否定しようにもできず、もごもごとセドリックが言葉に迷っているうちに、ジェノヴィア伯爵夫妻が復活した。
「殿下は、つまり、その、イリスを気に入ってアリスと差し替えた、ということでよろしゅうございましょうか…?」
恐る恐るとした伯爵の問いかけに、カーライルが鼻で笑ったが動揺が過ぎているのか気付いていない。クライブは呆れを隠そうともしない。
まるで、アリスがバルドの婚約者であったかのようにも取れる言い様だ。不敬罪も良い所である。
「差し替え、とはどういうことだろうね。私は、婚約者を持ってもいいだろう、という年になった頃にハムニア公爵夫人よりイリスを紹介され、互いに好意を抱いたということだよ。伯爵令嬢が王妃に、というのは今までにない事だから、迂遠ではあるけれどハムニア公爵夫人に教育を頼みつつ、公爵家に養子に行く準備を進めていたんだ。どこにも、アリス嬢が入り込む余地はないし、イリスが公爵公子と婚約していた事実はないよ」
はっきりとした言葉に、ジーンは愕然とした。
王族の言葉は重い。それをバルドが分かっていないわけがない。
おっとりと温厚で自己主張が強くないバルドだが、その能力は非常に高い。賢明と名高い現王が、自身よりも資質は高い、と珍しくも苦笑を零して褒め称えた。他者を褒めることが滅多にない王の言葉に、それを聞いた臣下はどよめき、王宮中に広がって終いには王妃が爆笑して事が収まった。紛う事なき珍事である。
そんな過去の面白おかしい一幕はともかくとして、ここにジェノヴィア伯爵令嬢達の嫁ぎ先は確定した。
賢明なバルドが、王の許可も主要な貴族の容認も得ていないわけがない。根回しは十分に行われているだろう。
公式だろうが、非公式だろうが、王族の言葉はそのまま未来の確定事項となる。
真相も事実も関係ない。
バルドの言葉こそが、唯一無二の事実であり真実だ。
「ジーン」
穏やかな呼びかけに、知らず俯いていた頭を上げてバルドを見たジーンは、絶望を知る。
「最愛の婚約者殿と、お幸せに」
「はいっ。どこのどなたか知りませんけど、ありがとうございます!」
にっこりと、清々しさすら感じさせる晴れやかな笑顔で向けられた寿ぎに喜んだアリスだが、直後、バルドの後ろからぐふっという妙な音が発生した。誰かが噴出しかけてこらえようとして、失敗したらしい。誰とは言及しない。
王妃同様、バルドの事を一目見て誰であるかわからない者はまずいない。
この国にはない金色の瞳を持っているのは、王妃と王太子であるバルドだけなのだから。
アリスの発言に、さすがにジーンも慌てた。
衝撃的な情報が怒涛のように迫ってきて真っ青になっていたが、今度は慌てる余りに血色がよくなっている。
伯爵夫妻もセドリックも慌てているが、言葉を発する前にカーライルが口を開いた。
「いやはや、愉快ですね。まさか、自国の王太子の顔を知らない貴族令嬢がいらっしゃるとは…。感謝の礼にしても幼児の様ですね。イリス嬢とは大違いだ」
くつくつと抑えた笑いを零しながら、鋭い視線でアリスの全身を見やったカーライルは、クライブに視線を向ける。
「あれで教育は完了しているのかい?」
「完了以前にしてませんよ。イリス様が受けた教育を平均と考えるなら、アリス様が受けた教育はマイナスです」
「それはそれは。そんな礼儀知らずをよくぞ社交界に出し、王妃殿下と面通しを願ったものだね。ねぇ、バルド様」
「そうだな。これは数人の茶会でよかったとみるべきだろう。下手に夜会などで謁見していては、その場で盛大にこき下ろしかねなかった」
「それはそれで見ものですね」
ジーン達をあっさり無視して会話を始めてしまうバルド達三人に、ついていけないのかさっきまで慌てていたのに今はポカンとしている。
問いに素直に答えるクライブは話を振られない限りは気配を薄くして控えているだけで、基本的にはバルドとカーライルが話している。
内容は非常に辛辣なのだが、言われている当の本人達が気付いていないのだからどうでも良い。
「まぁ、ぼくとしては嬉しい限りですね。王妃殿下並びに王太子殿下に非礼無礼の数々を行い、醜態をさらしたとあってはジェノヴィア伯爵家の没落も秒読み。上の席が一つ空きますね」
はっきりと悪意を隠しもせずに言い切ったカーライルに、さすがにジェノヴィア伯爵も顔を真っ赤にして怒りをあらわにした。
「そんなことを気にしなくとも、君なら上れるだろう。各部署ではすでに君の争奪戦が始まっているよ。卒業するのが楽しみだ、と。五年前の伯爵公子とは比べ物にならない、と」
バルドがちらりと視線を向けた先はセドリックだ。
5年前、学院を卒業したセドリックは官僚として就職する予定だったが、最終学年で行われる研修においてどの部署からも適性なしと判断され、声掛けは一切なかった。学院卒業者は本人の希望で就職することはできるので適当な部署に配属はされたが、平民出身の同級生が瞬く間に台頭して出世するのに対し、セドリックの地位は悪い意味で微動だにしなかった。プライドの高いセドリックがそれに耐えられるわけもなく、3年前に伯爵領を継ぐ為と言い訳をして退職している。
優秀と有能はイコールではない、を体現した実例としてひっそりと語り継がれていることを、セドリックは知らない。知らないのだが、向けられた視線が好ましくない物であることは理解したのか、眉間にしわを刻んで苦々しそうにしている。相手が相手だけに、何も言えないらしい。
「比べられるのは好ましくないですね。あんな凡愚と」
「貴様っ! 淫蕩放埓なシェルク伯爵の息子如きが、私を侮辱するかっ!?」
「誰も、ジェノヴィア伯爵継嗣、などといってませんけど?」
しっかりセドリックを見ていたくせに、やれやれと言いたげに肩をすくめたカーライルはしれっと反論する。
自分が凡愚だ、と言っているようなものである事には気付いたのか、セドリックの顔色が悪くなる。
「カーライル、からかうのはその辺にしておこう。ジーン、ジェノヴィア伯爵」
「は、はいっ」
「…はっ」
わずかな間の後に、双方から返事が来て緩く笑みを浮かべたバルドは、優しげな声音で告げる。
「父上が会いたいそうだ。共に、謁見の間に行こうか」
優し気な声が、言葉が、断頭台へ向かわせることを意味していると気づいた者はいなかった。




