第32話 軍議
フォルラント西部辺境を領土とするヴァンデル伯は、一ヶ月前には思っても見なかった窮地に追いやられていた。
ヴァンデル家の現当主ジャルドは、執務室の椅子に座っていることもできず、苛立たしげに机に拳を落とした。その怒りは側近の男にも向けられる。
「ゼフェンめ……くそっ! あの王女はどこに行った……あんな子供が、いくらも逃げられるわけはない……!」
「閣下、王女はおそらく命を落としているでしょう。暗部が遣わされていたというのが事実なら、逃れようがありません」
「ならば、暗部が王女の亡骸を持ち去ったというのか? それでは神器を手に入れられんではないか、愚か者がッ!」
「申し訳ありません。しかし王族の方々にとっても、天召石は大きな価値を持っている。対外的に王女の存在を抹消するとしても、その事実に変わりは……」
全てを言い終える前に、ジャルドは側近の頬を打った。額には青筋が浮かび、その顔色は赤黒く変わっている。
「今さら分かりきったことを教えるほどに、私を見くびっているのか? 千載一遇の好機を前にして、私に何もせず指を咥えていれば良かったとそう言うのか」
ジャルドは側近の胸ぐらを掴み上げて締め上げる――自らも兵を率いる将であるジャルドの腕力は、長く前線に出ていない今でも衰えてはいなかった。
「そのような、ことは、決して……」
「お前を母親と共に拾ってやったのは誰だ。放っておけばどこぞで死んでいただろうお前が、いっぱしの軍人として生きていられるのは誰のおかげだ」
「……分かっています。自分は……閣下の御心によって、生きて……」
「――ジャルド閣下、伝令です! お目通りをお願いいたします!」
「ようやく来たか……入室を許す!」
ジャルドが側近の男を放すと、扉を開けて一人の兵が入ってくる――だが。
その顔はまるで悪魔でも見たかのように、恐怖だけを貼り付けている。伝令の到着に喜びかけたジャルドは、引き攣りながら問いかけた。
「なんだ、その有り様は……一体何があった? グラスベルでの工作は順調に進んで……」
「……全滅……我が部隊は……」
兵は顎を震わせ、声は途切れ途切れにしか発せられない。ジャルドは耳に入った言葉の意味を、そのまま受け入れることをしなかった。
「何を……グラスベルの村落をいくつか全滅させたというなら、何も……問題は……」
ジャルドの言葉に、急に兵士が首を振る――そして、弾かれたように話し始める。
「分散していた騎兵連隊はすべて音信途絶。工作は失敗です……私が所属していた部隊は全滅し、一部は捕虜に……」
「――がぁぁぁぁぁぁっ!!」
獣のような声を上げて、ジャルドは立てかけられていた斧槍を手に取り、辺りのものを叩き壊す――伝令の兵はその場にうずくまり、側近は冷めた目で惨状を見つめる。
「全滅だと……平和惚けしたグラスベルの連中に、私の軍が負けたというのか! そんなことがあるわけがない、お前が言っていることは全て間違っている!」
「……ギュエスたちが戻るのを待ちますか? 自分は、伝令が嘘をついているとは思いません」
ジャルドが再び側近に向き直る――しかしその瞳に気圧され、振り上げかけた斧槍は力なく降ろされる。
ヴァンデル伯の策略が露見すれば領地は召し上げられ、王族が選定した他の貴族が統治を引き継ぐことになる。ジャルドの行く先は牢獄でこそないが、華やかな権勢を誇ることは二度とかなわなくなる。
「……全ては上手くいっている」
それが破滅に向かうとしても、この場に誰も止められる者はいなかった。
「グラスベルさえ我がものにできれば、全ての不都合は消えるのだから」
◆◇◆
ヴァンデル伯ジャルドは、グラスベルが協定を破ったという名目で挙兵し、国境付近に兵を集め始めた。
その宣戦布告をグラスベル公に伝えたのは、彼の妻で、グラスベル市の外交を担うファルゼナ様だった。
「ヴァンデル伯の主張について、都市同盟側は裏付けが取れていない……けれど国境を侵そうとするならば、緊急事態として各都市に援軍を要請できます」
グラスベル公の一家はフォートリーンの公邸に移り、ヴァンデル伯軍に対する対応を模索していた――私ももちろん同行していて、会議にも参加させてもらっている。
「あちらの主張は事実無根だが、グラスベルに攻め入ってしまえばこっちのものだと思っているのだろう。それほどに冷静さを欠いて、よく今まで動かずにいたものだ」
「ヴァンデル伯はミュルツァー様の病のことを知っていて、侵攻の口実を作りたかったのでしょう」
ファルゼナ様は夫であるミュルツァー様に対して、公人としての扱いを徹底している。フィリス様のお母様だというのがひと目で分かるくらい似ている――エリック様はどちらかというとミュルツァー様似だ。
「なんということだ……表面上は友好を装い、そんなことを企てていたとは」
「グラスベルを手に入れれば、さらに版図を広げる足がかりにもなる……ヴァンデル伯の独断でないなら、フォルラントは侵略国家となろうとしている」
グラスベル軍の指揮官たちが口々にヴァンデル伯、そしてフォルラントを非難する。
(ヴァンデル伯の動向が、王宮に把握されているとしたら……勝手に動いているヴァンデル伯を処罰するのか、それとも便乗するのか。どちらとも言い切れない)
「フォルラント王は今回の件には関与していない……というのが、同盟としての見解です」
「辺境伯の暴走であるということなら、フォルラントとの全面戦争は避けられるか……しかし、ヴァンデル伯の軍勢のみでも、戦いになれば被害は大きい」
フィリス様とエリック様も同席しているけど、双方ともに表情は険しかった。いわれのない汚名を着せ、あまつさえグラスベル市民の命を奪おうというヴァンデル伯に対して、怒るのは当然だ。
「いずれ敵軍は国境を越えようとするだろう。我々は国境付近の砦に兵を集め、各都市からの援軍を待つ……こちらから打って出るよりは、相手に攻めさせて疲弊させるべきだろう」
「……あの、発言してもいいでしょうか?」
「む……ミュルツァー様、先程から気になっておりましたが、そちらの少女は一体……」
「年齢や容姿で判断してはいけない。彼女はこの場にいる誰よりも優れた剣士だ」
部屋の中がざわつく――無理もないが、そんなに注目しないでほしい。
「グラスベル領内に最近出ていた賊は、ヴァンデル伯が送り込んだ者たちでした。父が療養していた屋敷にも襲撃があり、賊を撃退するために活躍したのが彼女です」
「な、なんと……私の孫のような歳の少女が、それほどに強いとは……」
「フィリス様がそうおっしゃるのであれば、疑う余地はありますまいが……ぬう……」
強面の軍人たちが眉をひそめる顔はとても迫力があるけど、怖気づいてはいられない。
「ヴァンデル伯の軍が何かの理由で侵攻を遅らせているなら、こちらから攻めて出鼻を挫く……というのはどうでしょうか?」
『……!!?』
私の提案に、誰もが目を丸くする――この話にはもちろん続きがある。
「私たちには、もう一人力になってくれそうな方がいます。その人にお願いすれば、兵士の皆さんがぶつかる形にならずに済むかもしれません」
「……『黒髪の魔導師』が力を貸してくれるということか?」
今の私は、二つの神器を持っている。
――なんだこれは……こんなものが神器だと!? 到底認められぬ!
ヴァンデル伯はそう言って、私が召喚した木刀を無価値なものと見なした。
その当人に、本当に無価値だったのかを教えてあげなくてはいけない。その方法はひとつ――私がジャルドの目の前に現れて、直に披露してみせることだ。




