第45話 人生の公案
第07節 少女はまだ、笑えない〔6/6〕
◇◆◇ 翔 ◆◇◆
「なんだって?」
それは、高橋早苗ちゃんがこの町を離れて、それほどの日数を経ていない、ある日。
俺のスマホに、母さんから電話があった。
小学校で、エリスが隣のクラスの男子に暴力を振るった、のだそうだ。
学校側、エリスに殴られた男子児童の担任教師から、エリスの保護者が呼び出されており、けれど母さんは手が離せないので俺に代わりに小学校まで行ってほしいのだという。
……母さん。言い訳になってないから。
エリスは、邪神だ。気に喰わない相手の、その存在を痕跡ごと抹消する。そんなことは、造作もない。
にもかかわらず、「小学生女児」として、男子児童と殴り合いの喧嘩をする。その時点で、その「喧嘩」の内容(というか、そのレベル)が大体わかるというものだ。
お互いの存在を懸けての死闘、という訳ではない。純粋に、小学生同士の些細な諍いに伴う喧嘩だ、という事だ。だから、単に。
普通の子供の、父兄として学校に行き、相手の担任に頭を下げる。それが、求められているという事だ。
もっとも。エリスは、ショゴスとしての力を使えば。その喧嘩の「原因」そのものを消去することも出来る。それを使わず、普通の小学生女児として喧嘩した。それは、俺の立場からすれば、全力で頭を撫でて、エリスを愛でてあげたい状況に過ぎない。
◇◆◇ ◆◇◆
「こんにちは。水無月えりすの保護者です。こちらだと伺ったのですが」
小学校の、児童相談室。そこには、新たに赴任したエリスのクラスの担任と、同じく新たに赴任した隣のクラスの担任、そして加害児童であるエリスの三人が、そこにいた。被害児童である男子は、既に保護者に連れられて帰宅しているのだという。
「キミは?」
「はい、水無月えりすの、母方の従兄に当たります、飯塚翔と申します。
エリスの保護者である、旧姓水無月琴絵、現姓飯塚琴絵が今ちょっと動けないということで、飯塚琴絵の息子である私がこちらに参りました。
……エリスが男子児童に、暴力を振るったとか?」
「そうだ。けれど、その理由さえ告げようとしない」
理由を告げない、か。
「エリス。それは本当のことか?」
「うん。」
「何故、殴った?」
「……今、この場では、言えない。」
「そう、か」
多分、今俺が考えている通りのことだろう。
「『言えない』、じゃないだろう。じゃあ何か? お前は、大した理由もなくうちの二宮を殴ったというのか?」
二宮、というのは、多分エリスに殴られた男子児童の名前。
「言えない。先生たちには」
エリスは、頑なだった。そして、ここまで来ると、俺にはその構図が見えてくる。
「先生方。お願いがあります。まず、お二方は席を外してください。そして、養護教諭の柿崎先生を呼んで来てください。
お二方がこの場に同席したいのであれば、校長先生の許可を取って来てください」
「……何を言い出すんだ? それは一体、どういう意味だ?」
「どういう意味も何も、この件に関し、お二方はエリスの話を聞く権利がないんです」
「権利がないとはどういうことだ! うちのクラスの児童に暴力を振るわれたんだぞ? 当然事情を知る権利がある!」
「だから、無いんです。というか、あるかないか。それを、校長先生に確認してきてください。少なくともお二人の前では、エリスは決して口を開かないでしょう」
ここまでの短い会話で、大体の事情がわかった。そしてエリスは、第三者の前では、決してその事情を口にしない。
教師たちは、納得のいかない様子ながら席を外し、そして柿崎先生(今回の一件でお世話になりっぱなしだった養護教諭)をまず呼んで来てくれた。
「あら、飯塚くん」
「こんにちは。毎度毎度ご迷惑をおかけしています」
「それは、教師の職務だから構わないけど。けど、一体どういうことなの?」
「それを、エリスに今から聞くところです。エリス。柿崎先生の前でなら、言えるよな?」
俺はエリスと二人っきりになっても、その事情を問い質さなかった。柿崎先生の到着を、待ったんだ。
「あの男子。こーちゃんのことを、『誰にでも股を開く売女』って言った。だから、ついかっとなってやった。一応、今は反省してる」
……エリス。
こずえちゃんに絶交されたのに、エリスは変わらず、こーちゃんのことが大好きなんだな。しかも、その事でこーちゃんに迷惑が掛からないように、「理由もなく衝動的に暴力を振るった」という体裁を整えて。
俺は、柿崎先生と顔を見合わせて、苦笑した。この子はどこまでいい子なんだろう。
俺と、柿崎先生にとっては。エリスを責める理由はない。けど。
エリスは、その〝理由〟を他言しない。なら今回の一件は、「エリスが〝理由なく〟男子児童に暴力を振るった」というだけのことになってしまうんだ。悪いのは、一方的に、エリス。その裁決を、エリス自身が望んでいる。
「校長先生、この小僧です。高校生の分際で、偉そうに!」
被害男児のクラス担任が、そう言いながら校長先生を連れてきた。
そして校長先生は、この場に柿崎先生がいることを確認した上で。
「この少年が、キミたちに、『話を聞く権利がない』、と言ったのかね?」
「そうなんです。いくらなんでも、生意気過ぎます」
「……だとするのなら、この件に、キミたちは、関わる権利は、ない。席を外しなさい」
「な! 校長、それは一体!」
「キミたちが、赴任する前に、この学校で、ある事件が、起こった。けど、キミたちは、その事件のことを、聞かされていない。その、立場に、ないからだ。つまり、そういう事だ。
だけど、そうすると。
水無月えりすくん。キミが、〝理由もなく〟男子児童に対し、理不尽な暴力を、振るった、という事実だけが、残る。〝理由がない〟以上、誰も、どんな大人も、キミのしたことを、庇えない。
だからキミには、罰を与える。
原稿用紙10枚程度の、作文を書いて提出しなさい。テーマは、『友情』、だ」
◆◇◆ ◇◆◇
飯塚翔に連れられて、水無月えりすが下校して。
相談室には、教師たちだけが残ることになった。
「なんなんですか、あの生意気な高校生は!」
エリスに殴られた男子の、担任教師は憤慨している。けれど。
「彼はね。水無月えりすくんと、他の〝ある児童〟に、ひとつの宿題を、課しているんです。それも、10年20年、それどころか、30年50年かからないと、解けないような、とても大きな、宿題です。
〝あの子〟たちが大人になって、結婚して、子供を産んで。
その生まれた子が小学生になって、中学生になって、高校生になって。
そのくらいの時間を掛けて、ようやく、答えを見出せる。そんな、難問です。
今回の一件は、その宿題の、一環に過ぎません。だから。
私たちは、水無月くんに対して、すべきこと、じゃなく、出来ることは、何もないんです」
「何を言っているんですか? 訳がわかりません。
わかるように、説明してください」
すると、柿崎教諭が。
「飯塚くんが、水無月さんに出した宿題は。マークシートを埋めて終わるような、簡単なものじゃないんです。それこそ、人生を懸けてその宿題と向き合う、そんな、問題なんです。
対して、先生方は。考えることもなく、一足飛びに答えを求めています。
……〝教育〟に対する視点のレベルが、まるで違っているんです」
「なんですか、それは。まるで禅問答じゃないですか!」
「そうですね。これは多分、禅の公案です。
彼は、あの子たちに、
人生を懸けて追う、〝公案〟を、与えたんです」
(2,991文字:第二章完:2019/11/17初稿 2020/08/31投稿予約 2020/11/01 03:00掲載予定)
・ この男子児童、二宮くん。多分、例の事件のことを知っていてそんな言葉を口にしたのではないでしょう。それ以前に、「股を開く」「売女」という言葉の意味を知りません。女性を貶める言葉、悪口だということくらいは理解しているでしょうけれど。きっとこーちゃんに告白して、フラれて、腹いせに悪口を言ったのでしょうね。
・ エリスの言う、「ついかっとなってやった。一応、今は反省してる」というのは当然、「(チッ、うっせーよ)反省してまーす」程度の反省(笑)。疑いようもなく、次同じ状況になったら、同じことをします。
・ 「公案」とは、禅宗に於いて御悟りを啓く為の足掛かりとする問題です。その問いには意味が無く、その答えにも意味は無く、けれどその問いに向かい合うことにこそ意味があるのだと言います。
例えば、「犬畜生に仏の心はあるか?」という公案。「有る」と答えたら「ならそれを見せてみろ」と言われ、「無い」と答えたら「無いという事を証明しろ」と言われます。この公案(「狗子仏性」:或いは、「趙州の無字」【無門関第一則】)は有名ですから、当然模範解答もあります。だからそれに従って「無!」と答えると、「ではその無を持ってこい」と言われるのです。
・ エリスに与えられた「公案」:「何で、こんな想いを抱えてまで、エリスはニンゲンのフリをしなきゃいけないの?」
・ エリスを含めた今回の事件に関わった子供たちに与えられた「公案」は、飯塚翔くんの両親が与えたようなものです。琴絵さんが翔くんに対し、「年下の女の子が助けを求めたのなら」と言い、飯塚父が「この国の司法に解決を委ねろ」と言い。全員が最善の行動をし、最良の結果を得られたはずなのに、関わった全員の表情から笑顔が消えた。その結末に、翔くんを含めた子供たちが、どう向き合うのか。それが、この「公案」なんです。




