第32話 和解
第06節 泣いている少女〔1/8〕
◇◆◇ 翔 ◆◇◆
平成30年9月29日土曜日。
俺と美奈は、市内の某料亭にいた。ここは、山中に広大な面積を占有した料亭であり、客室が孤立した合掌造りの離れのようになっている。飛騨高山の合掌造りが文化遺産に指定される前に、ここに移築したのだそうだ。そしてそういった店のコンセプトの為、かなりの声量で喋っても、他の客の耳に届かないようになっている。しかも、天気は雨。だからこそ、聞こえるのは雨音くらい。
この料亭のグループには、実はもう少し格の高いところもある。けど、料理の格より贅沢な空間の方が嗜好に合い、父さんは商談などで良くこちらを利用している。だから、美奈が『みなミナ工房』の仕事で料亭を使うことを希望した際、俺は迷うことなくこちらを推薦した。
ここで向き合うのは、京都呉服商組合の組合長・沢渡氏。祖父の会社・水無月呉服店の最後の社長で、その財産の多くを着服して京都呉服商組合の組合長に就任し、今でも美奈に対して引き抜きを掛けたり工房の取引先に圧力を掛けたりしている。
「ご無沙汰しております。修学旅行中は連絡の仲介をしてくださり、ありがとうございました」
美奈が、沢渡組合長に頭を下げる。個人的な感情は措いておいて、手数をおかけした以上礼を言うのは当然だから。
「頭を上げなさい。礼を言われることではない。むしろ本来、こちらこそ頭を下げなければならない立場のはずなのだからね」
ちなみにこの料亭。そこに炭火の囲炉裏が置かれ、自分たちで食材を好みの焼き加減に焼くという方法が採られている。勿論、〆の麦とろご飯とお味噌汁、そして甘味はまた別だけど。だから食事が終わるまで、呼ばない限り配膳担当さえこの離れには近付かない。だからこそ、遠慮のない話が出来る。
「前提の話として。水無月は、沢渡〝専務〟に対し、何ら苦情や不満、要求をするつもりはありません。水無月琴絵も、水無月麻美も、会社の経営とは疎遠でしたから。ですので、水無月呉服店の資産を沢渡専務が継承することに異議を申し立てる立場にはありません。
その一方で、水無月の技術は。わたくし、〝水無月〟美奈が継承しました。これは、沢渡専務が継承した財産に含まれないものです。これに関し、沢渡専務の意向を酌むつもりはありません。
そして、『みなミナ工房』は。わたくし水無月美奈の個人事業です。今後法人化するかどうかは未定ですし、法人化させないのであれば、彼、飯塚翔の妻として家庭に入ると同時に規模を縮小し、所謂ハンクラの規模で細々と続けることになるでしょう。
ですので、組合に加入する意味はなく、その必要も感じません。けれども、無意味な対立、敵対構造を維持する理由もないと思います」
それが、今回の会食の目的。沢渡組合長の隷下として膝を折るつもりはないけれど、無駄に対立する必要もないから。組合長が、取引先に圧力を掛けたりすることが無ければ、こちらとしても敵対する理由もないし。
そして、美奈が開発した新染料(のレシピ)の供給問題や、それこそマスコミに露出することが増えた『みなミナ工房』が組合長との関係を問われた場合の対応などから、早期の関係修復が求められた、という訳だ。
それを求められたのは沢渡組合長だけど、そのタイミングで美奈の方から和解を申し出ることに、外交的な意味が生まれる。つまり、貸しを作れる訳だ。逆に、組合長がそれを言い出したら、無条件降伏になってしまう。非営利団体とはいえ、一組織の長として、それは出来ない。
沢渡〝専務〟が水無月呉服店の資産を継承する際に使った手法は、非合法であり脱税とされる内容も少なくない。その件に関して当局が指摘するのであれば、水無月は沢渡専務を庇う理由はない。けれど、敢えて指摘するつもりもない。それを、この場で表明した訳だ。
それは当然口約束に過ぎず、何ら拘束力も持たない言葉ではあるが、それを口にするという意味は大きい。
「……水無月の強みは、ただ純粋にその品質にあり、その品質に対して適正な対価を付していた。水無月社長は、常にそれを語っていた。だから、利益を求めて粗悪品に手を出すなど論外だし、高品質の商品を求める顧客は、市況に囚われずに常にそこにいる。だから、卸し手であり売り手である我々は、ただ誠実な商売を心掛ければいい。その、社長の意思を、私は理解していなかった。
利益を得られなければ、社員を支えられない。否、言葉を飾るのは止そう。自分が豊かでなければ、従業員たちの豊かな生活など考えることは出来ない。だからこそ、少しでも多くの利益を、と私は考えていた。
社長の意向の通りであれば、一部の富裕層だけがその恩恵に与れる、ということになるだろうからね」
「沢渡専務のそのお考えは、大局的には間違っていないと思います。けれど、ひとりの力、一社の力で、富裕層から貧困層まで、全てに喜びを与える。それは、さすがに不可能です。
『みなミナ工房』も、その立ち上げの際。はじめから、顧客として富裕層を設定し、一般層を無視することにしました。けど、それは別に『貧乏人は襤褸を着ろ』と謂う意味ではありません。単純に〝層〟の違いで、廉価でありながら良品を扱う衣料品店は、他にいくらでもあるだろう、という考えからでした。
『呉服商組合』という立場で考えたら、富裕層向けの商品と、一般層向けの商品を同時に検討するのは正しいと思います。また、現在斜陽となっている百貨店業界の立場では、富裕層向けの商品を維持したまま一般層向けの商品を検討するか、或いは需要が少ない富裕層向けの商品を完全にカットするか、と考えることも、間違いではないでしょう。
……単純に、立場の違いだと思います」
結局は、立場の違い。顧客優先を考えるか、社員優先を考えるか。富裕層向けに大きな商いを考えるか、一般層向けに薄利多売をするか。事業の方針としては、どちらも間違いとは言えないのだから。
けれど、それで振り回される人たちもいる。下請けとなる、中小零細企業だ。
今回は特に、『みなミナ工房』と取引をしていた染料や生地を供給していた事業者。
彼らにとって、『みなミナ工房』に附いて京都呉服商組合の系列の会社との取引が切られるか、組合に附いて『みなミナ工房』に染料や生地を卸せなくなるか。正直、どちらも困るというのが本音だろう。
「先日の、『みなミナ工房』との取引を維持したままで組合との取引でも良好な関係を、と望んだ、あの染料屋。あれは、駄目だ。
確かに、いい染料を作っている。あの〝色〟は、代替が利かないだろうし、あの値段で卸すのは他社では真似出来ないかもしれない。
だが色のパターンなど、いくらでも融通が利くし、新たに生み出せる。『みなミナ工房』で特許を取る〝色〟のように、だ。
それ以上に。商取引の信義則を考えると、あの社長との取引を継続するのは、リスクでしかない。
組合も、あそことの取引は切るように、傘下の企業に通達を出した。だからその件で、キミが気に病む必要はないだろう」
「有り難うございます。そのお礼、という訳ではありませんが、今後うちの製品の供給先として、組合傘下の企業とも、適正に取引をさせていただきたいと思います」
個人的に、相手を赦した訳じゃない。けど、それでも。一定の和解が出来る。それが健全な、大人の関係だという事だ。
(2,961文字:2019/11/10初稿 2020/08/31投稿予約 2020/10/06 03:00掲載予定)
・ 正直に言うと。水無月呉服店の資産を沢渡〝専務〟が継承することは、水無月家の望むものでもありました。けれど沢渡氏は他人ですから、通常の継承では相続税(贈与税)が発生してしまいます。違法手段で財産を私した件に関しては、むしろ「国に持っていかれるくらいなら、専務に持って行ってもらった方がいい」というのが本音だったり(実際その分、飯塚琴絵さんと水無月麻美さんが負担する相続税額はかなり圧縮されています)。だから、正面から話を持ってきてくれていれば、琴絵さんや麻美さんは、自分たちの両親を犯罪者(横領犯)にしてでもそれを後押し出来たんです。つまり専務は、欲の皮を突っ張らせた挙句、敵対する必要のない相手と敵対してしまった、と。ちなみに美奈さんと翔くんは、そんな配慮を沢渡氏に向ける立場じゃありません。
・ 今回の、会食の舞台となった料亭。ちょっと検索すれば、その名称は出てきます。が、それに触れないのが大人の対応ということで。なおこの料亭、雨の日に利用すると本当に風情があります。
・ 「それを求められた」のに、「一組織の長として、それは出来ない」。つまり、沢渡組合長は詰んでいました。
・ 感想欄で教えてもらったのですが、染料のレシピは「レサイプ」(フランス語読み)と言われるそうです。おそらく琴絵さんが零細染料に技術指導に行くときには、ちゃんと「レサイプ」と言っているのでしょうけれど、美奈さんはそんなこと知ったこっちゃありません。「料理の材料の配合も染料の原料の配合も似たようなもんだし」と大雑把に。
・ 今話のエピソードは、『第06節 泣いている少女』のエピソードとは一切関係ありません。単独節とするエピソードでもないので、第06節に同居させてもらいました。




