第29話 本人面接
第05節 もう一人の留学生〔7/9〕
◇◆◇ 翔 ◆◇◆
「私が、ショウ兄さまたちの世界に、ですか――」
アドリーヌ公女、ドリーに。俺たちのその計画を、告げた。勿論、それはドリーの意思が最優先だと断った上でだが。
「正直に言って、ドリーが俺たちの世界で学ぶメリットは、ほとんどない。敢えて言えば、『違う世界には、違う考えがある』ということを知る。それだけだ。
けれど、今のネオハティスでは、今のドリーが学べることは全くない。何を学んでも、『それは本当に正しいのか?』という疑問が付きまとってしまうだろうからね。
だから、環境を変える。学ぶ先は、ドレイク王アドルフ陛下が前世で生きた世界。この、異端であるドレイク王国の知識の根源となる、国だ。
そこで教える内容は、この世界で教えることとは全く違う。この国で教える内容より更に先のことを、ドリーより幼い子に対して当たり前に教えている。それでも。
留学期間を終えて、ドリーがモビレアに戻り、その後の人生で活かせる知識は、あまりにも少ない。ドリーが将来、領主夫人ではなく科学者、研究者になるというのなら、また話は違ってくるけどね。
どうする?」
実は、ドリーの直面している問題は、平成日本でもよくあることだと武田は言っていた。
具体的には、資格試験。士業の資格を得る為に突破しなければならない試験。そこで提示される問題の設定は、実は現実からかけ離れていることが多いのだそうだ。
具体的には、税理士試験の所得税法の問題文。その設定に於ける主人公は、大企業の役員をしていて、別の企業の社外取締役を退任して退職金を得て、不動産を所有して家賃収入があり、挙句遊休不動産を売却し、株の売買でかなりの利益を出していて(当然配当収入もあり)。更には宝くじで一等を当選し、馬券で大穴を当て、おまけにノーベル賞まで受賞する。けれど大病を患い入院して手術することになり、その資金として生命保険を解約する。この人の、今年分の納税額を計算しなさい、という問題なのだとか。んな奴いるか! と言いたくなる、設定だ。
試験勉強の為の設定が、あまりにも現実離れし過ぎているから。だから実務に携わり、現実を知っている人は、逆に点が取れなくなる。社会を知らない学生が、愚直に練習問題の数を熟した方が、合格し易いのだそうだ。それは、「んな奴いるか!」というツッコミを入れられるだけの前提知識がないから。
そう。それが「現実にはあり得ない」と知らなければ、素直に教えられたことを学び憶えることが出来る。けど、それがあり得ないとはじめから知ってしまったら?
けれど、世界を違え、知識と常識の前提をリセットすれば。疑問を教師(それが学校の教諭に限らないが)に投げかけた時、それに対し、生徒が満足出来るだけの知識を教師が返してくれるのなら。或いは、生徒の望む知識を学び得る環境(図書館かインターネットかは問わないが)が用意されているのなら。
今、ドリーが抱えている問題は、取り敢えず解決出来るのだから。
「正直言って、興味があります。異世界の知識に。
でも同時に、懼れもあります。ドレイク王国より更に遠い、異世界で学ぶことに」
「怖がるのは当然だし、悪い事じゃない。けれど、今回の再留学で、実は。モビレア公夫妻より、ひとつ条件が出されている。それは、これまで以上に頻繁に、モビレアに里帰りするように、という事だ。そして。
ドリーの〝首輪〟は既に解かれている。つまり、俺たちの秘密は、既に解禁されているんだ。なら。
侍女さんたちや、領主夫妻を、地球に招待することも出来る。そう考えると、今以上に故郷に近くなるとも謂えるんだ」
俺たちは、以前は。〔倉庫〕の秘密を、自分たちの生命線と捉えていた。それを知られることで、第三者に利用されたり、或いは無力化する為に手を打たれたりする(俺たち五人が分散したら、それだけで〔倉庫〕は使えなくなった)ことを警戒して。
だけど、今は。五人揃わなければならないのは、世界を渡るときだけ。『倉庫』の開扉(つまり世界内の転移)は、ひとりで出来るのだから。
あの『マキア戦争』で、サリア妃殿下に捕まった時。俺たちは、男女で別々に投獄された。だから〔倉庫〕は使えなかった。
けど、今なら。仮令一人で投獄されたとしても、『倉庫』を経由した転移でいくらでも安全地帯に逃げられる。
だから、友好的な相手に『倉庫』の秘密を開示するのは、俺たちのリスクに繋がらないんだ。むしろその相手が裏切った時。転移先の場所や〝森〟に放置することで、あっさり排除することも出来る。わざわざ時間加速庫や真空研究室に放り込まなくても、アドバンテージは、俺たちの方にあるのだから。
なら、ドリーの侍女さんたちの帰省に『倉庫』を経由した転移を使っても、或いは公爵夫妻による授業参観、ならぬ現地視察をすることも、予定に含めることも出来るんだ。
「……すぐに、その留学をすることになるんですか?」
「ちょっと、その質問は曖昧過ぎるな。こっちの――俺たちはこの世界のことを〝リリセリア〟と呼ぶことにしたんだけど――世界の時間なら、今この瞬間にも、留学を始めることも出来る。
だけど、俺たちの世界――一般的に〝地球世界〟って呼ばれている――では、就学前に学ばなければいけないことが多い。ドリーがネオハティスに来る前に、俺たちが教えたような基礎教養だけじゃない。世界の常識や、何より『言葉』だ」
この世界では、〔翻訳魔法〕がある関係上、鼓膜を震わせる〝音〟と、脳裏に響く〝意味〟が異なっていたとしても、それを異常に思わない。けど、平成日本では、やっぱりそれは異常なことになる。
ソニアは、「ドレイク王国の秘密言語」として日本語を学んでいた。エリスに関しては、それを疑問に思う意味さえない。けど、ドリーは。
「地球には、魔法がない。だから、〔翻訳魔法〕に頼らずに、言語を習得する必要がある。勿論、ドリーが地球でも〔翻訳魔法〕をはじめとする魔法を使えるように手を打つことは出来るけど、それでも言葉は憶えてほしい。
当然ながら、文字もだ。地球、日本では。文字の読み書きは、誰でも出来て当然だ。ドリーの歳なら、難しい言葉や特殊な言葉は例外として、読み書き出来ない方が異常とされる。
〝識字率〟、という言葉がある。文字を読み書き出来る人が、国民の何割を占めるか、という比率だ。ちなみにスイザリアでは三割程度だろう。
けれど俺たちの故国、日本では、〝識字率〟と言う指標は使われない。代わりに、〝就学率〟と言う指標が使われる。〝識字〟は、学校に通っているか否かに関わらず、『識して当然』と認識されるからだ。そして、日本の就学率は、97%以上。
ドレイク王国でさえ、就学率は70%程度と聞いたことがある。それを考えると。
仮令留学生と雖も、読み書きが出来ないというのは『知恵遅れ』扱いされるという事だ」
だけど、俺たちがドリーを日本への留学を勧める理由には、他にもある。
以前、ドリーの担任教師であるルーナ王女が、ドリー宛の通信簿に記した内容だ。
ドリーは、遊ぶことがない。時間が足りな過ぎる留学だという前提からして、仕方のないことだが。
けれど、日本への留学をすれば。
自習・復習、そして宿題をする時間は『倉庫』で、有翼獅子の調教術を学ぶのはネオハティスで、そしてそれ以外の時間は。
両方の世界で、友人と交流する為に、費やすことが出来るのだから。
(2,989文字:2019/11/03初稿 2020/07/31投稿予約 2020/09/30 03:00掲載予定)
【注:「知恵遅れ」は差別用語で、現在では「知的障害」或いは「発達障害」と謂われます】
・ ドレイク王国では、〔翻訳魔法〕を無効化する空間が公共施設内に用意されています。暗号会話等を解読されない為に。そこでは、使用される「言語」を知らなければ、会話の内容が理解出来ません。
・ ドレイク王国の就学率は、地方によって異なります。ネオハティスの就学率は90%超(貧民や違法滞在者の子弟等に未就学児童がいる)、ボルド・ビジア地方は60%程度(義務教育が浸透し切れていない)、コンロンシティでは95%超(未就学者の親は村八分にされるレベル)、その他崑崙高原各町村は、辺境に近付くにつれて就学率が下がります。最辺境であるナンタケットでは20%未満(大半が貧困を理由に開拓事業に駆り出された住民――開拓出来ればその半分は私有出来るというルール――だから)。そこでは〝移動寺子屋〟のようなものが定期的に巡回し、子供たちに最低限の知識を教育しています。
・ 地球の発展途上国で「就学率」という指標が使われない理由の一つとして、「就学率100%超」が珍しくないから、というのがあります。戸籍がいい加減なので、政府や自治体が認識している(戸籍上の)児童数よりも、就学している児童(密入国者・不法滞在者の子弟、出生届のない無戸籍児童を含む)の数の方が多いから。そしてこの事実は、日本国では無戸籍児童の数が統計データの誤差以下の数しかいないということでもあります。




