第28話 異世界知識
第05節 もう一人の留学生〔6/9〕
◇◆◇ 翔 ◆◇◆
リリセリアの暦で言う、新暦22年5月20日から21日までの二日間で、俺たちは三度目となる、アドリーヌ公女の寮への転移を行うことになった。それも、スイザリアの西の都であるモビレアとの往復だ。その時点で、もう非常識も極まれる。
けれど、今から公女に語る内容は。そんな非常識さえまだ理解の範疇にあると言える、そんな内容なのだから。
それは、アドリーヌ公女に、異世界日本への留学を薦めること。
これは、言うほど簡単な話じゃない。ただ知識を詰め込んで戻ればいい、という話ではないからだ。
具体的に言うと。平成日本で市民に対し、「民主主義と専制君主主義は、どちらが正しいか?」と問えば、10人中9人は「民主主義だ」と答えるだろう。けれど、公女はその答えを持ってスイザリアに帰ってはいけないのだから。それが〝真理〟であると確信してスイザリアに戻れば。公女はただの、秩序破壊者になってしまう。ではどうすればいいか?
民主政のメリットを学んだ上で、それ以上に王政が優れているという論拠を見出し、そこに理想を置く、という考え方だ。
つまり。民主主義は、衆愚主義に至り易い。けれど、正しい理想と確かな知性によって導かれる専制君主主義は、衆愚に陥る危険はない。
言い換えると、最悪を考えた場合、「多数の愚者によって運営される国家と、ひとりの愚者によって運営される国家の、どちらがマシか」という問題になる訳だ。民主主義のメリットとは結局、最悪に至る一歩手前の段階で、最悪の専制君主主義よりマシな判断が出来る、という点でしかないのだから。
その一方で、「多数の賢者によって運営される国家と、ひとりの賢者によって運営される国家の、どちらが優れているか」という問いには、明確な答えがある。〝多数の賢者〟という前提が現実的なものでない以上、〝ひとり〟を賢者たり得る状況にすれば。面白いことに、専制君主主義の方が、現実的且つ理想的な国家運営が出来る、という結論に至る訳だ。
当然、そこに至る条件は厳しい。例えば、〝ひとり〟である国王並びに王太子。その者が、謙虚に学ぶ姿勢を持たなければならないだろう。増長と独善に支配された王は、決して賢者たり得ないのだから。そしてそのままでは、民はいつまで経っても愚者のままとなる。なら。
だからこそ、ドレイク王国では、まず民の知識・知性の底上げを国家政策としているのだろう。あくまでも〝賢者〟による専制は過渡期のものとして、国民全体(或いはその過半)が〝賢者〟たり得る状況に至った時、その賢者たちによる合議に移行することを理想として。
ただ、どうしても。
……衆愚に至った民主国家を多く知る、平成日本に生きる俺たちにとっては、アドルフ陛下の理想は夢想を通り越して妄想としか思えない。
民の知識レベルの底上げ。それ自体は、間違っているとは思えない。けれど、多数の人間による合議には、どうしても限界が生じることを、認識する必要がある。誰しも自身の利益の最大化を目論む以上、本人が〝賢者〟であっても国政運営上では単なる愚者に堕することも少なくないのだから。
一方で、〝ひとり〟の賢者を生み出す。それも実は、あまり現実的とは言えない。ある方面で秀でていても、他の方面でもそうであるとは言えないからだ。だとすると、それぞれの分野で、それぞれ秀でている人間を活用するという考え方が生まれる。すなわち、官僚主義だ。結果、棟梁たる国王が〝賢者〟たり得なければ、それは(悪しき)共産主義に堕する。
そういった、多くのパターンのメリットとデメリットを理解し、その上で現在のスイザリア王国にとって、サウスベルナンド伯爵領にとって、最善となる政治形態を模索する。そのこと自体、至難の業と言わざるを得ない。
けれどそれは、政治学に留まらない。科学分野もまた同じことだ。〝真理〟を告げ、それでドヤ顔すればいい。それで終わるのは、ネット小説の主人公だけだ。異世界(知識)チートを齎して、オレSugeeeeeって喜べるのもまた、彼らだけだろう。現実を生きるのなら、その余波、そして後の世のことまで考える必要がある。
その意味では、俺たちだって今までは、自分たちのことだけを考えていればよかった。対してアドルフ王は、自分の死後のことも考え、伝承出来ない知識を流布することはなかった。そしてアドリーヌ公女の場合。異世界知識があろうがなかろうが、伯爵領で最高位の贅沢が出来る訳だから、あまり関係ない。にもかかわらず異世界知識を貴族たちに、官僚たちに、そして民衆に広めるのなら。その余波と、次世代のことを考える必要が生じてくる。
その余波。例えば地球科学を伝えるのなら、「神などいない」「精霊神などまやかしだ」と教えることになる訳だから、結果神殿と対立する。或いは、民衆が支えとする神を否定する対価を用意することが求められるだろう。
そして、後世のこと。つまり、体系立った知識としてそれを整理し教導することが出来なければ、第一世代である今を生きる人々にそれを納得させることが出来ても、それは次の世代に伝わらない。それでいながら、そこまで知識の深淵を学べるほど、留学期間に時間的余裕はない。だとしたら。
実はそう考えると、アドリーヌ公女が平成日本で学ぶメリットは、全くないということになる。その上で、魔法の存在を考えると。
地球には、魔法はない。だから、魔法理論が正しいか間違っているかなど、検討すること自体が無意味となる。延いては、リリセリアの魔法理論の根底となる、精霊神の存在やその影響などは。
けれど、リリセリアには魔法がある。なら、「地球の常識では魔法はない。なら魔法を云々すること自体間違っている」と結論付けて良い話じゃない。なら?
結果的には、アドリーヌ公女を地球・平成日本に留学させるというのは、単純に環境を変える、という意味しかないということになる。
これまでとは全く違った常識を前提とした知識に触れ、それによりこれまで学んだことをリセットする。その上で、公女にとって必要な知識を取捨選択する。それだけの意味だ。
けれど、少なくとも。日本の教師は、「自分たちが教える知識は現代社会の最先端である」と自負している。それを覆せるのは、専門家だけだろう。ドレイクの教師のように、素人に論破されるような底の浅さはない。と、信じたい。
更に、フォローアップ体制。ネオハティスでは、それは学校側・教師陣に依るものしかなかった。ネオハティスまで随行してくれた侍女さんたちは、公女より(その意味では)知識が劣っていたのだから。にもかかわらず、その〝学校側・教師陣の〟教導内容が信用出来なくなっているというのが、現在の問題だと考えると。
対して、平成日本への留学なら。俺たちはおろか、親たちの協力も得られる。学校外での、フォローアップ体制が、ネオハティスにいる時とは比較にならないほどに重厚に展開出来るのだから。
むしろ、フォローアップ体制が確立した状況で、多様な知識を学べる。それが、アドリーヌ公女の地球留学の、メリットということが出来る。
(2,878文字:2019/11/02初稿 2020/07/31投稿予約 2020/09/28 03:00掲載 2021/01/09誤字修正)
・ 留学先で、学びの意味を見失う。この問題は、地球世界の海外留学に於いても生じます。例えば海外留学した学生が、自国と留学先、二者択一の二元論で学ぼうと思っても、どちらの答えでも何も学べなくなります(自国を否定するなら、それは「留学」じゃなく「亡命」すべきだし、自国を無条件で誇りたいのなら、「留学」はすべきじゃありません)。
そしてその留学の目的が「自分の故郷、自分のこれまでの経験の意味を知る為」、つまり「今いる場所から離れなければ、自分の足跡は見えない」(T.Aono, 1999)という事だというのなら。すなわち、自分の足跡を確認するということを目的として留学するのなら。自国と留学先、どちらも等しく受け入れる必要があるのです。その為には、その両方を受け入れることが出来るだけの器を用意しなければなりませんが。
・ 「万人の知識水準を向上させる」ことと、「一人を英才教育する」こと。比べれば、後者の方が容易いんです。つまり、難易度を比較するなら、王政の方が良政になる可能性が、実は高いという。そうなると今度は、教育する教師の質に依ることになりますが。
・ 古来、民主主義のメリットは。「良賢なる国民から選ばれた議員の一部に愚者が紛れ込むことがあったとしても、それは決して過半数を占めることはありえない」という性善説というか理性至上主義が前提なんです。けれど現実は……。
・ 衆愚政治。「多数決により、少数の賢者の意見が、多数の愚者の意見に圧殺される」状況です。イギリスの、EU離脱を決めた国民投票が良い例でしょう。「EU離脱」が正しいか否かは別の問題として、決定してから右往左往するような愚かな状況を考えるのであれば、そのメリットとデメリットを、国民投票の前に全ての国民(国民投票で投票権を持つ全ての民)が学ばなければいけなかったのですから。令和の時代、衆愚に陥っていない民主国家は存在しない、とも言われていますが。
・ こう考えると。「賢者たる国王が、優秀にして無私なる官僚を多く従えた王政」が、「議員の過半が無私なる賢者で構成されている民主政」と並んで最も理想的だということになります。前提の全てが理想論ですが。
・ 少数の「無私なる官僚」を育てる。それを考えると、官僚たちが経済的に困窮していたら、誘惑に負けてしまいます。だから、彼らには高給を約束しなければならないでしょう。その結果、最善も最悪もなく必然として、「官僚になる」=「特権階級」となり、官僚主義(共産主義)が始まってしまうのです。だからこそ、彼らの手綱を握る指導者が、文字通り「無私なる賢者」であることが求められます。……そんな指導者がいるのなら、その国の政治の実態は、「その指導者による専制」でしかないでしょう。
・ というか、「あらゆる政治形態は、理想的に運用されれば理想的な国家になる」というのが事実であり、同時に「理想は決して現実たり得ない。ただ目指す方向を指し示すだけ」だということになるのですが。だからこそ、「政治は理想にはじまり現実への妥協に終わる」(「政治とは妥協の産物」オットー・フォン・ビスマルク)のですから。




