第22話 関門海峡、そして帰郷の翼
第04節 修学旅行(後篇)〔4/4〕
◇◆◇ 雄二 ◆◇◆
修学旅行最後の夜。
明日には東京に戻り、明後日は秋分の日の振替休日です。しかも明日の午後は、飛行機に乗って機上の人。つまり、寝てても家に帰れるのです。
だから、今夜は徹夜を気にせずに、皆で大騒ぎしています。宿の人に迷惑をかけているような気もしますが、むしろそれを前提に一棟をうちの学校で借り切って。
あちらでは、女子を部屋に引き込んでの大恋バナ大会。一番際立って雰囲気が変化した、柏木くんとソニアがこの集団に捕まって、顔を真っ赤にして彼らの質問に答えています。ちなみに、早朝デートに関しては早々に暴露していました。さすがに「朝4時起床、4時半脱出、5時半待ち合わせ」、なんていう行動を聞かされたら、他の生徒たちは「ちくしょー! 俺も早起きすれば良かった!」「起きたって待ち合わせする相手の女子がいねぇだろうにwww」と、笑い話で収まりましたけど。
こちらでは、女湯を覗きに行こうとしている男子 vs. 自分の彼女の裸を余人に見せるつもりはねぇ!っていうリア充(ボクも彼らに助力します)。〔球雷〕で彼らを無力化することは飯塚くんに禁止されましたから、ここは素直に物理的手段で。清掃用具入れを探し出し、モップを取り出し、杖術の業で。雫の言葉によれば、ボクは既に有段者レベルの伎倆を持っているそうですから、彼らを制圧するのには充分な実力があると言えるでしょう。
ちなみに、この立ち回りから。一学期の棚橋先輩との騒動も、彼らなりに納得してくれた模様。あの時は電気火傷を加害者側に与えましたけど、そんな詳細な事実を知っているのは当事者とその周囲のみですから。
先生方にとっても、この最後の夜の大騒ぎは想定内だったようで、襖に穴を開けたり備品を破損したり、或いは窃視・盗撮等の犯罪行為と、その他不純異性交遊が無ければ、相応に大らかに見逃すというのがその方針のようでした。またボクらだけじゃなく、風紀委員の生徒や、その他〝女子に嫌な思いをさせたくない〟と思う男子らが、羽目を外し過ぎた男子を掣肘し、同時に所謂〝潔癖な女子〟が羽目を外し過ぎる女子を窘め。結果、適度に喧噪に、でも一線を超えるような騒動には発展せず。
だからこの夜、それなりの数のカップルが成立し、級友たちからも祝福されましたけど、それでも一定の貞節を保ち、一足飛びに関係を進めようとする恋人たちはいなかったようです。まぁ周りの監視が厳しく、二人きりになれず、二人きりになろうとするとデバガメがゾロゾロと着いてくるという環境では、二人の世界を作ろうという気にもならないのかもしれませんね。
亀山公園でヤクザに〝お世話〟になった三島くんも。この夜彼女が出来たそうです。お相手は当然ながら、班員の女子。あの時班員を背に一歩踏み出した彼に、ときめいたのだそうです。足が震えていたのも、ボクらが到着した直後に腰が抜けてしまったのも、むしろ当たり前のこと。それほどの恐怖を押し退けて自分たちを守ろうとした彼に、彼女は恋したのだとか。但し恋したのはその娘だけではなく、班員の女子全員が三島くんに惚れ、中には彼氏がいた娘もいたけれど、それを振り切って三島くんにアプローチしたのだとか。打ち勝ったその娘も、修学旅行前までは三年の男子と付き合っていたのだとか。SNSで彼氏に別れを告げ、三島くんと付き合うことにしたのだとか。うん、こっちも前途多難な気配がしますね。
なんにせよその二人は、付き合うことになったのはボクらのおかげ、と、わざわざ礼と報告を兼ねて挨拶しに来てくれたのでした。うん、まぁ、充実した青春時代を過ごしてください、としか言いようがないけれど。
◇◆◇ ◆◇◆
翌、9月23日日曜日。
下関を出発します。
関門海峡。渡る方法は三つ、橋とトンネル、そして船です。
但し、橋は高速道路。だからバスを使うことになります。
トンネルは、自動車道と、鉄道。その他、徒歩で渡れる人道。
これは、歩いて渡る以外の選択肢はありません。
まず駅前からバスに乗って、「御裳川」で降ります。そこから徒歩で約一分。そこに、「関門トンネル人道入口」があるのです。
が、その御裳川。この地名を冠した「みもすそ川公園」には、「壇ノ浦古戦場址」という史跡があります。
そもそも「御裳川」という地名の由来は、安徳天皇を抱いて壇之浦に入水した二位尼が、
「今ぞ知る みもすそ川の 御なかれ 波の下にも みやこありとは」
と詠ったことに由来する(諸説あり)と言われています。
けど、史跡としてはむしろ、維新時代の下関戦争(四境戦争――第二次長州征伐の山口側の呼称――のきっかけとなった、1864年の下関砲撃事件)の舞台としての方が近代史上では意味を持つでしょう。言い換えれば、約七百年の時を隔てても、関門海峡を舞台とした戦闘の、本州側の軍事拠点はここだった、ということなのです。
◇◆◇ ◆◇◆
さて、バス停から公園を突っ切った向こう側に、「関門トンネル人道入口」があります。エレベーターで地下に下り、そこは新宿地下街のような(但しアーケードなし)地下歩道です。距離は、約700m。大した距離じゃありません。
ちなみにソニアにとっても。ドレイク王国の、ネオハティスとボルドを繋ぐトンネルには、人道もあり、ソニアは何度も往復したことがあります。そして、あちらのトンネルの距離は約2km。中には商店街さえありますから、そう考えるとこの程度のトンネルは、驚くには値しないのかもしれません。
そして、関門トンネルをくぐって門司に出たのなら。実は、やらなければならないことがあるのです。
そこにある「若松屋」というおでん屋に入り、おでんを食べること。これは、関門人道トンネルをくぐった人に課せられる、宿命的な義務なのです!
◇◆◇ ◆◇◆
牛すじ、ゴボウ、大根、玉子。
お昼ご飯を考えて加減して、でも出汁が浸み込んで美味しいからおかわりして。
なんかこれだけでも満足しちゃいますけど、今日のメインイベントはむしろこれから。
ここから更にバス電車乗り継いで、行った先は、官営八幡製鉄所跡地。
現在稼働している新日鉄住金の製鉄施設は、多分見学したら圧倒されるでしょう。けど、ボクらにとっては時代が進み過ぎています。維新時代のそれでさえ、立派なオーバーテクノロジー。けど、維新時代の技術は、実は江戸時代から比較すると、一足飛びに近代化しているという説もあるんです。一枚の写真を見ただけで蒸気機関車を組み立てた、という逸話もあるくらいに。ならば、異世界で知識チートを実現するのなら、維新時代の知識と技術を学ぶのは、間違っていないはずなのです。
けど、この時代の製鉄を考えると。どうしても石炭と海運を考える必要があります。燃料としてではなく炭化材としての石炭と、重量物輸送の為の、海運。その意味では、北九州は内航船(瀬戸内航路)と沿岸船(土佐灘航路並びに対馬航路)の拠点とすることが出来、また長崎・端島(軍艦島)との海運の便を考えても、最良の場所だったのでしょう。また、鉄鉱石は神話時代から伝わる須佐や愛媛の伊予鉱山、福岡の門司鉱山などの存在が、この地に製鉄所を置いたのでしょう。
資源と立地。その両者を活かすことで、技術が加速する。
多分、これは重要なことなのでしょう。
◇◆◇ ◆◇◆
それからボクらは、北九州空港で改めて集合し、飛行機に乗りました。
色々あった修学旅行も、これで終わりです。
(3,000文字:2019/10/28初稿 2020/07/31投稿予約 2020/09/16 03:00掲載 2020/09/19誤字修正)
・ 安徳天皇と二位尼。知らない方は、平家物語をお読みください。クライマックスです。ちなみに「二位尼」は通称で、本名は「平時子」さんです。
・ 「御裳川公園」の写真も、「関門人道トンネル」の写真も、そして「若松屋」の写真も、ないんです(涙)。ぜひ画像検索でググってみてください。




