第20話 業尽有情 雖放不生
第04節 修学旅行(後篇)〔2/4〕
◇◆◇ 雫 ◆◇◆
長門市駅で途中下車し、物陰に隠れて。
失礼ながら田舎の駅、人影の少ない場所が多くて助かるけれど、そこに『倉庫』からバイクを取り出して。
わざわざ着替えるのも面倒くさいから、あたしたちは全員制服のまま。ただ、女子はスカートの下にハーパンを穿いて、肘と膝にはプロテクター装着。このままバイクに跨る。
行く先は、「青海島鯨墓」。通という地にある「くじら博物館」だ。
県道283号線を北上していくと、あちらこちらの看板に「金子みすゞ」の名前が見える。そもそもこの道が、「近松・みすゞの道」とか「みすゞ通り」とかと呼ばれていることを知ったのは、旅行が終わってからだった。
青海大橋を渡ったところにある、王子山公園。ちょっと興味を惹かれて、一旦そこに入った。階段を上った先にある展望台は、仙崎の町(本州側の街)が広がっているのが一望出来た。そして、そこにも金子みすゞの歌碑が。
「金子みすゞ、って、そんな有名人なのかな?」
「知ってる人は知っている、ってレベルの有名人だと思うぞ」
「そんなことありませんよ、飯塚くん。誰でも知っています。『こだまでしょうか』の作者、って言えば」
「あぁ! 東日本大震災の時の、公共広告機構の、あの!」
「そうです。『こだまでしょうか』が有名ですけど、それ以外には『私と小鳥と鈴と』がありますね」
「『こだまでしょうか』はタイトルだけで詩の内容もわかるけど、『私と小鳥と鈴と』は、どんなんだ? 本当に有名なのか?」
「ワンフレーズ、というか、サビのフレーズが有名ですね。〝みんなちがって、みんないい。〟って奴です」
「え? あれが金子みすゞなのか!」
「一部には、SMAPの『世界に一つだけの花』は、金子みすゞのこの詩の影響を受けている、とも言われています」
なんと、まぁ。
「もっとも。金子みすゞの本意は何処にあるかは別として、悪平等を標榜する人たちは金子みすゞの詩を好んで〝使います〟ね。個性を大事にしたみすゞの詩は、視点を変えれば競争社会の否定になりますから」
作詩者の思惑を無視して、読者や評者がそれを自説の補強に利用する。多分、そんな作品はいくらでもあるのだろう。少なくとも、本人は他人に評価されたり比較されたりすることは望んでいなかったはず。だけど、発表された時点で、それは読者のモノになる。それをどう使うかなんて、読者次第なんだから。
逆説的に、〝彼ら〟が利用するまであまり知られていなかったことが、もしかしたら金子みすゞ氏の悲運なのかもしれない。〝彼ら〟が利用することで世間に知られてしまったから、金子みすゞ氏自身がそういう思想の人間だ、と評価されるに至ってしまったのだろうから。
◇◆◇ ◆◇◆
予定外の王子山公園で。想定外に重い問題にぶつかったけど。
気を取り直してライディング。
天候は雲が多く、ちょっと肌寒い。けど、日本海側といっても九州下関に近く、対馬海流の流れ込むこの地の海は、内湾ながら荒れ模様さえ雄大だ。新潟山形の突き刺し引き裂くような荒さとは大違いで、それこそ〝クジラすら〟呑み込むような、おおらかながら激しい海。それを右に見ながら、実は結構な山登り。〝海岸線〟といっても、浜辺の道ではなく、海に面した切り立った崖の上の道だから、自転車だったら、距離にしてたった12kmがかなり大変だったろう。
そうして走っていると、いつの間にか田舎の漁港に出る。そう、ここが通漁港。そして、漁協の向かいにあるのが、「くじら博物館」だ。
そうして辿り着いたくじら博物館は、よく言って「どこにでもある田舎の民俗博物館」、だった。
一階に受付があり、二階ワンフロアにクジラ漁に関する様々なものが展示され、それだけ。実はちょっと期待外れ。
だけど、興味を持ってそれらを見てみると、幾つもの面白いものが見つかる。
通のクジラ漁は、対馬海流に乗って北上してきたクジラを、青海島とその他小さな島々で形作る仙崎湾に追い込み、網漁で捕獲する。だからこそ、クジラ一頭獲る為に、老若男女問わず村中が総出になる。
中には、川尻集落(青海島の真西約40kmのところにある、同じくクジラ漁の集落)沖で銛を打たれたクジラが仙崎湾に迷い込み、通で引き揚げられたところ、そのクジラの所有権は川尻にあると訴えられたという話もあった。クジラ一頭で村全体が一冬越せる、というのだから、そう考えると確かに死活問題だったのだろう。
また、このくじら博物館の特徴としては、「クジラの胎児のホルマリン漬け」が幾つも展示されていたことにある。このことが、ちょっと気になった。
そして、小さな博物館。一つ一つを細かく見ても、滞在時間10分程度で全部見終わる。だから退館して、次に向かうは博物館から歩いて(というか階段を登って)5分くらいのところにある、「鯨墓」。ただ、くじら博物館で、ここのことは学んだ。この墓に祀られているのは、「鯨」というよりも、「鯨の胎児」だったのだ。
そこの碑文には、こう書かれている。
「南無阿弥陀佛 業尽有情 雖放不生 故宿人天 同証仏果」
《鯨としての生命は母鯨と共に終わったが、われわれの目的はおまえたち胎児をとることではなかった。むしろ、海へ放してやりたいのだが、広い海へ放たれても、独りではとても生きてはいけまい。それ故に、われわれ人間と同様に念仏回向の功徳を受け、諸行無常の悟りを得てくれるようにお願いする》(照誉得定師解説)
これは正直、人間のエゴだと思う。イスラム教徒がキリスト教の葬礼で送られることさえ屈辱だと言われるのに、人間ですらない鯨を、殺した人間が、人間の流儀で供養する、なんて。だけど。
自分たちが生きる為に殺したのは、母鯨。仔鯨ははじめから、その対象じゃなかった。なのに殺してしまった。だから供養する。「故宿人天」。それが独善と知りながら、でも彼らの社会に於ける弔いの作法を知らないから、人間流の作法で弔う。それもやっぱり一つのやさしさなのかもしれない。
◇◆◇ ◆◇◆
鯨墓からの帰り道。ふと気になって聞いてみた。
「ねえ、ソニア。ドレイク王国では、鯨の墓とかは作られるの?」
「否。でも一度、陛下とサリア妃殿下がその話をしているのを聞いたことがあります。
その時、墓を作った方がいいと言ったサリア妃に対し、陛下は『クジラの墓を作るのなら、ウサギの墓も作るべきだ』と言って反対なさりました。あの時は私にとっては、『クジラもウサギも狩りの獲物に過ぎないんだから、クジラだけ特別扱いするのはおかしい』って思っていたんですけど。
〝クジラ一頭で七浦賑わう〟と謂われていた日本のクジラ漁と、本格的なクジラ漁が外洋に出て弩砲で銛を撃ち出すことで始まったドレイクのクジラ漁。同じに考えてはいけないのかもしれませんね」
陸上では、「イノシシ一頭獲れれば、猟師が一冬越せる」と言われるけれど、「一頭で七浦潤う」「一頭で七村が飢えずにすむ」クジラとは、字義通り重さが違うのだろう。そしてドレイクでは、クジラは数多の「大型魚」(魚類じゃないけど)の一種でしかないから、鯨だけを特別扱いしないというアドルフ陛下の考えは、間違っているとは思えない。
その一方で、資源としての「クジラ」は、鯨油以外見向きもしなかった欧米諸国とは違い、日本並みに活用しているようだ。
(2,947文字:2019/10/18初稿 2020/07/31投稿予約 2020/09/12 03:00掲載 2021/01/09誤字修正)
【注:鯨墓の碑文とその解説は、「古式捕鯨の里 通」(http://member.hot-cha.tv/~htc09819/index.html)に拠ります】
・ 日本の鯨信仰は、「一頭獲れれば七浦賑わう」という、その〝恵みに感謝〟するというのが元来の姿だという説もあります。そしてだからこそ、余すところなく利用する(その恵みを最大限享受する)ことを考えたのでしょう。一方で活用の余地のない鯨の胎児は、埋葬して供養した。それだけのことなのかもしれません。
・ 「業尽有情 雖放不生 故宿人天 同証仏果」は、「諏訪の勘文」とも呼ばれ、諏訪大社にある諏訪信仰の碑文とほぼ同じだそうです。諏訪の勘文は「鹿食免」(祭事に於いては肉食が穢れとならない、とされたお札)に記されたもので、その解釈は「人間に獲られるような獣は、野生でもどうせ長生き出来ないんだから、人間に食べられ、人間と同化して、人間の一部として成仏しなさい」という身も蓋もないものです。なお文言にはバリエーションがいくつかあり、「故宿人天 同証仏果」の他に「故宿人神 同証仏果」「故宿人 神同証仏果」「故宿人 天即証仏果」があり、それぞれ縁起系、生贄系、狩猟系、呪詛系、と研究分類されているのだとか。ちなみに鹿食免の文言は「故宿人身 同証仏果」。
・ 金子みすゞの詩には、「鯨法会」というものがあります。仙崎湾に於けるクジラ漁を描いたものです。けど、金子みすゞの詩を〝利用〟するリベラルの方々の多くは、この事実を無視しているようですけれど。
・ 青海島鯨墓の写真はありません。だからバランスを考えて、王子山公園の写真も未掲載。




