第19話 才劣り、学幼き
第04節 修学旅行(後篇)〔1/4〕
注:第04節は物語のストーリーとは離れた旅行記になっていることをお詫びします
写真もあります
◇◆◇ 雄二 ◆◇◆
9月22日土曜日。今日の(公的な)スケジュールは。
まず、松陰神社・松下村塾の見学です。松陰神社は参拝時間を区切られていませんが、松下村塾は8時から見学出来ます。
とはいえ学校側のスケジュールもあります。宿で朝食を食べて、チェックアウトは8時30分です。ホテルがマイクロバスを出してくれましたので、松陰神社見学を希望する班は皆でそのバスに乗りました。
松陰神社の鳥居をくぐると、その左手には大きな石碑。そこには、「明治維新胎動之地」と刻まれていました。書跡は、佐藤栄作元首相のモノだそうです。また、その奥にある吉田松陰先生の歌碑。
(松陰歌碑:令和元年5月9日筆者撮影)
「親思うこころにまさる親ごころ きょうの音ずれ何ときくらん」
ボクらは、異世界から戻ってきました。それは家族の許、故郷、元の世界に戻りたい。そういう気持ちが原動力になっていました。けれど、もし。ボクらが異世界に消えたと親たちが知ったなら。あの時のボクら以上に、ボクらのことを心配してくれたのでしょう。
この歌碑は、松陰先生が「安政の大獄」に連座され、斬首される直前に詠んだ句だと謂います。日本国の未来を憂い、その為幕府に叛して開国と尊皇を叫び、それゆえ賊徒として投獄された、松陰先生。ご自身の運命より国を思い、けれどそれがご両親を悲しませる結果になった、その際の、永訣の一句。言葉自体はただの「孝行者の息子がふとした拍子に漏らした言葉」にしか聞こえない、けれどその背景を知ると。その重さを思い知らされます。
更に奥に進むと、そこにあるのが松下村塾。何のことはない、小さな小屋です。
吉田松陰という人物は、はっきり言って当時の危険人物。思想テロリスト以外の何者でもなかったようです。だから安政の大獄以前にもやらかして、この小屋に蟄居を命じられていたのだとか。
けれど、松陰先生の思想に共鳴し、先生から学びたいという多くの人たちがこの小屋に集い、八畳一間(のちに増築)に寝泊まりし、学び、議論し、そして巣立って行ったのだとか。
(松下村塾:令和元年5月9日筆者撮影)
たった八畳の小屋に、最盛期には11人もの男たちが住み着いたのだそうです。とはいえ出入りも多く、ここで学んだ人の数は累計42人。その人数は、松陰神社の更に奥、松門神社に祀られている人数です。ともかく、こんな狭い場所に10人前後が寝起きしていたんです。さぞや臭かった……ぢゃなく、熱い日々だったのでしょう。朝起きて、布団を畳み、そして膝と膝がぶつかる距離で、お互いの唾が顔に掛かる距離で、この国の未来について、真剣に議論をしていたのです。
しかも彼らは、今でこそ「維新の志士たち」と言われていますけど、当時は何処にでもいる浪人や町人。現代で例えれば、高校中退フリーター(自称)が、一人暮らしをしているキ○ガイのアパートに転がり込んで、「現政権はけしからん!この国は俺たちが変えないと!!」って言っているようなものです。傍から見たら、さぞかし滑稽なことだったでしょう。彼らが讃えられるのは、ただ、「結果を出した」。その一事ゆえなのです。
その小屋に集った一人、伊藤博文なる少年について、松陰先生はこう書き残しています。
「才劣り学幼きも、質直にして華なし、僕頗るこれを愛す」
実は、松下村塾の見学者にはガイドが着いており、ガイドさんがこれを「松陰先生は若年の伊藤公を〝才能は無く、知識も無く、華が無い〟ってコテンパンに貶しているんです。でも、それに続けてこう言っているんです。〝僕頗るこれを愛す〟って。愛される人柄の持ち主、って言っていたんですね」、と解説しました。
だけど、ボクはこのガイドさんの解説には異議を申し立てたいです。
〝才劣り〟。「劣る」とは、比較動詞です。つまり、他者に比べて秀でていないということであって、〝無い〟という意味ではありません。
〝学幼き〟。「幼い」とは、〝未熟(未だ熟していない)〟という意味。つまり、まだ花開いていないというだけの意味です。言い換えると、「未熟であり、ゆえに未だ秀でるに至っていない」という、ただの現状確認の言葉(つまり誉め言葉でもなければ貶し言葉でもない)とも採れるのです。
〝質直にして華なし〟。つまり、飾らない、見栄を張らない。それこそ自分の未熟な部分を素直に受け止め、自分より才ある他の塾生からも学ぶ意欲を持っている。或いは彼らに頼ることが出来る。そういう博文少年の心根を指して、松陰先生は「僕頗るこれを愛す」と言ったのではないでしょうか。そういう解釈も、あるのではないでしょうか。
勿論、これらはボクの勝手な解釈です。それこそ、その後の伊藤公の業績を知るからこその。だけど。
〝足りない〟ということを、恥じる必要はないのです。足りないからこそ学ぶのだし、足りないからこそ頼るのですから。当時の伊藤博文少年は当然のこととして、ボクらだって〝才劣り学幼き〟子供なんですから。
◇◆◇ ◆◇◆
松陰神社を出て、次は明倫学舎。松下村塾が私塾であるのに対し、明倫学舎は公立。士族のみが通うことが出来る学校だったそうです。
が、現在は維新時代の資料館。当時の技術を展示してあります。例えば、伊能忠敬がどのように測量したのかとか、杉田玄白の医学知識、そして四境戦争(第二次長州征伐の山口側の呼称)の詳細など。攘夷運動を前提として、維新・幕末期の日本国内の鉄砲と西洋の鉄砲の比較などもありました。
色々と興味深くはありますが、これに関しては後日図書館などで資料を漁っても、同等の学びを得られます。その意味では、「この場所でしか学べない」松下村塾と並べて語るのは、少々問題があるのかもしれません。
学舎内にあるレストランで昼食を採り、JR東萩駅へ。13時03分発の山陰本線で、長門市駅まで。38分間の、電車の旅です。
今日の宿泊地である下関まで、直通の列車はないんです。乗り換え時間の少ないモノだと、14時39分東萩駅発長門市駅行き(15時17分着)、で15時20分発小串駅行き(16時35分着)、そして16時40分発下関駅行き(17時25分着)、というスケジュールになり、萩の町であと一時間半潰さなければなりません。うん、武家屋敷散策を、ここに入れられましたね。
だけどボクらは、長門市駅までコマを進め、ここで青海島を走ろう、ということにしたんです。目的地は、「青海島鯨墓」。当初の予定では、バスを利用するつもりでしたが、昨日の大立ち回りの結果予定がずれ込み、それは不可能になりました。だから昨日の時点で計画を修正する際、先生に許可を取ってタクシーを使うことにしました。
……という建前で、バイクで走ります。
鯨墓のある、青海島通までは、距離にして12km。おおよそ20分です。
(2,751文字:2019/10/12初稿 2020/07/31投稿予約 2020/09/10 03:00掲載予定)
・ 小説なのか旅ログなのか。はい、筆者が実際に現地で取材した内容です。
・ ホテルのチェックアウト時間は、申請すれば一足早いチェックアウトも認められます。彼らは一泊目・岩国のホテルは、7時前にチェックアウトしました。
・ 「才劣り学幼き〝も〟」。この「も」は英語のbut, の意味です。つまり、「(否定)も(肯定)」(butの前後は反対の意味の語句が来る)という構成になるはずです。そして「質直」に否定的な意味はありません。
また、読点の位置も重要です。「才劣り学幼きも質直、なれど華なし」ではなく、「才劣り学幼きも、質直にして華なし」である以上、〝華なし〟も肯定的な意味合い(虚飾がない)と読み解けます。
しかも、「僕頗るこれを愛す」の前に接続詞はありません。つまり、「才劣り学幼き」⇒「僕頗るこれを愛す」と、「質直にして華なし」=「僕頗るこれを愛す」という文法上の二重構造が、この言葉の真意となるのです。
だからこのガイドの言葉(実際に筆者が観光した際案内してくれたガイドがそう言った)は、明らかに意味を短絡しています。まぁ「僕頗るこれを愛す」を強調する解説の為には、否定を三つ重ねた方が効果的ですが。
・ 明倫学舎の入館料は、修学旅行生の場合は無料。当然それは、団体客を想定していますが、この学校の修学旅行の場合、おそらく学校側が事前に連絡し、各班単位で制服を着用の上生徒手帳を提示することで、一般の修学旅行生と同じ扱いとしてもらっているのでしょう。
・ 青海島鯨墓は、作中では「げいぼ」とルビを振っていますが、「くじらはか」が公式の読み方のようです。




