第七十話 「焦燥」
「僕のせいで申し訳ありませんが、あまり悠長にしていられる時間はないかと……」
ルーカスから大公とのやり取りを聞いたクロエは、内心ではかなりの焦りを感じながらも「ルークのせいではないわ」と安心させるように笑顔を浮かべた。
「今のまま結婚してしまったら、私が仕事を辞めなければいけないことは確実だわ。復帰する機会も二度と与えてはくださらないでしょうね」
「とにかく、出来る限り日取りを先延ばしにするしかありません。もし何かしらの策を考案出来たとしても、実現するための時間を稼がないと」
ルーカスの言うことはその通りだったが、そもそも足掻いたところで策を考えることが出来るのかという点がクロエにとっては一番の懸念であった。
「日取りについては、お母さまに話をしたらきっと出来る限り早く都合がつくように準備を進めてしまうわ。何かもっともらしい理由をつけないと……」
「それについては僕に任せてください。伯爵夫人も僕に対してはクロエさんやロージーのような対応を取ることはないでしょう。理由が仕事であれば尚更です。所長や副所長にも相談して、それらしいスケジュールにしてもらいます」
ルーカスの言葉に、クロエは一つ彼女にとっての障壁がなくなったように感じてホッとする。
エシャロット夫人は外面は良いタイプではあるので、まだ身内ではない且つ大公令息という肩書を持つルーカスに対して不機嫌を振り撒いたりしないだろう。彼女にとって都合の良い方向に進みそうになっても、ファルネーゼ大公の名前を出せば大人しくするはずだ。以前、家に招いた際に一度失敗しているから。
「ただ、その場合、スケジュールどおりに過ごす必要があるので、仕事の件については僕はあまり動けない可能性が高いです」
「自分のことだもの。勿論、私自身でどうにかするつもりよ」
「……ひとつだけ覚えておいて欲しいことは、クロエさんだけの問題ではなく、僕にとっても関係のある話だということです。ひとりで悩むことだけはしないでください」
クロエが発言をしたあと、ルーカスはすぐに彼女の手をとって真っすぐに見つめながら声をかけた。
「うん、わかってる」
クロエは、素直に頷いてルーカスの言葉を受け取った。
それを見てルーカスは満足そうに笑みを浮かべる。
以前までであれば、クロエはここまで素直に受け取ることは出来なかっただろう。
これは自分だけの問題だと壁を作り、この言葉の裏にはどんな意味があるのかと疑いの目を向けていたはずだ。
クロエ自身も自分が少しずつ変わってきていることに気が付いていた。そんな自分が誇らしくも感じている。
「そういえば、少しだけ気になっていることがあって……もしかしたら、ネイア・ハルバーナを唆した人物がいるかもしれないの」
「本当ですか? それだとしても、ただ唆しただけでは何も咎めることは出来ないでしょうね。彼女が手にしていた武器は紛れもなくハルバーナ家のものだと判明しましたし、以前から僕たちに付きまとっていたという事実がありますから」
「そう、よね」
確かに、ネイアに対してルーカスとお似合いだ、と伝えたことやクロエが邪魔をしているのかもという発言をしたところで、何の罪にも問われない。それは他愛のない雑談や根拠のない噂話と同意義だ。
「ネイアは黒い髪の女だって言っていたわ。これは、本当に憶測にしか過ぎないけれど、きっとマリメルじゃないかと思っているの」
「……フレデリック・ゴーズフォードの妻ですね。彼女がクロエさんを追い詰める道理があるのでしょうか?」
「私が彼女を恨みこそすれど、恨まれる理由なんて無いわよ。最近、妙に突っかかってくるところがあるし、私の存在自体が嫌なんでしょうね」
クロエは、マリメルに対して『どうして』という理由を考えることをやめた。
きっと理由なんて無いのだ、ケイル伯爵夫人とクロエの母親の確執がそのまま子どもにも影響を与えていることから始まり、何でもかんでも徹底的に叩きのめさないと気に食わないというだけだろう。
彼女は私が幸せであることが許せないのだ、と結論付けてしまえば、何だか全てに合点がいった。
「僕も、それについては少し調べてみます。たとえ罪に問えずとも、今後何かしらで有益な情報になるかもしれませんからね」
今回の件は、本当にマリメルの所業であるかクロエにはまだわからない。
ただ、そうではなくともこれまでのことを考えると、なぜそこまで人の不幸を願えるのか、クロエには理解が出来なかった。




