第十六話 「木陰」
思い起こされる過去の記憶。
苦しい、それは完全なるトラウマだった。
やっぱり、自分には無理なんだ。出来ない。
そんなネガティブな思考がクロエの頭の中を支配する。
木の陰に座り込み、嗚咽をしながら涙を流す。みっともなくて仕方がなかった。
こんなはずではなかったのに、出だしから挫かれた。
「うぅ……どうして……」
どうして上手くやれないのだろう。
こぼれを落ちる涙を手の甲で拭いながら、自分のことを嫌った。
「……クロエさん」
かけられた声の主が誰なのか、クロエにはすぐにわかった。
ルーカスだ。彼はクロエを追いかけて彼女を探し出した。
こんなにもみっともない姿を誰にも見られたくなかったというのに。クロエは頑として振り向かず、顔も見せず、そして返事もしなかった。
どこかに行ってくれ、1人にしてくれ。
そう願いながら、それを口にすることもしなかった。
「ごめんなさい……僕、こんなつもりじゃ……」
申し訳なさそうな声音がクロエの耳に響く。
「言い訳に聞こえると思いますが、本当にただクロエさんに楽しんで貰いかっただけなんです。それだけ、なんです……」
「……うん、わかってる」
クロエは、やっと返事をした。
悪気があってパーティーの真ん中に自身を連れ出した、なんてそんなことは少しも考えていない。
彼は優しさからその行動をしたのだということもわかっている。
「私が、弱いだけだから。ルークは、何も悪くないの」
嗚咽を繰り返していたためか、スムーズに言葉が出ない。
だが、クロエは本心を真っ直ぐに伝える。
「もしも、クロエさんが弱かったのだとしたら、パーティーに参加していないでしょう。振り絞った勇気を台無しにしてしまったのは僕です」
「違う。決めたのは私、それに対して心の準備が出来ていなかったのも私だわ」
「いいえ、僕が軽率だったんです。貴族とはどういう人たちなのか、クロエさんの立場がどうなのか、わかっていたはずなのに」
「同情ならやめて!」
気がついたら、クロエは声を荒げていた。
「あなたと踊ると決めたのも私だもの。嫌なら無理にでも誘いを断れた、そうしなかったのは……心の底では昔のように戻れるんじゃないかって期待したからよ。みんな、私のことなんかすっかり忘れて、私もパーティーを楽しめるんじゃないかって。世の中、そう上手くいくはずがないけれど」
ルーカスがダンスの誘いをしてくれたとき、もう何年も抱いていなかった高揚感を思い出した。
世の中の貴族たちが当たり前に過ごしている日常を、自分にはかけ離れた世界を、久しぶりに体感できる懐かしさも。
クロエは、馬鹿らしいと自身を嘲笑うように「ふっ」と小さく笑った。
現実は物語のようにはいかない、ということは随分と前に理解していたはずだというのに、まだ心のどこかで期待していたのだということに改めて気づかされた。
「泣いて、いらしたのですね」
ふと気がつくと、いつの間にかルーカスはクロエのすぐそばに近づいていた。
彼女の右手を取って、濡れた手の甲を見つめる。それから、クロエの顔に目を向けるがすぐに顔を背けられてしまった。
「いま、ひどい顔なの」
涙で濡れて化粧も崩れてしまい、人に見せられるような顔ではない。
だが、ルーカスは嫌悪感など表すこともなく、むしろいつも通りの優しい笑みをクロエに向けていた。
「僕は、どんな選択をしたとしてもあなたのことを応援します。逃げることが最善の選択であるときもあります。無理をして、これ以上傷ついて欲しくない」
甘やかさないで、と突っぱねたい気持ちがあったが、それ以上にクロエの中で彼の言葉がストンと落ちた。
戦っても、逃げても、自分には味方がいるのだと感じられた。それはジョゼやリーゼルに対しても言えることだ。
握られた右手から、熱が伝わる。
少しずつ心が落ち着いて、いつの間にか嗚咽もなくなって涙も止まっていた。
「ありがとう、落ち着いたわ。」
クロエは微笑を浮かべて、ルーカスに声をかける。
それを聞いてルーカスも安堵したようで、大きく息をついて「良かった」と言葉をもらした。
「家まで、送らせてくれませんか。ここで別れるなんて僕には出来ません」
その申し出に対して、クロエは断ろうかとも思った。
しかし、土の付いたドレスを見やってから、自身の顔の酷さにも気がついて「お願いしてもいいかしら?」と申し出を受け入れることにした。
「勿論です」
2人は立ち上がり、出来る限り服の裾に付いた土や葉っぱを払ってからその場をあとにした。




