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ルビアが持ち帰った南部のレイベ草は、どれも予想を裏切ることなく青い花を咲かせた。
レイベ草の葉の変化を記録するために作った色見本で葉の色を調べたが、持ち帰った時点で一番端の色よりもまだ青みが強く、花が咲いてなお青い。
ルビアの目には葉が見つけてくれとアピールしているかのようにはっきりと違う色が浮かび上がっているのに、周りの人には見慣れた草と同じ色に見えている。いつものことだが周囲のきょとんとした反応が不思議だった。
花が咲いても「毒草」であり続ける南の青いレイベ草は、飢饉の年には誤食で死人を出すこともある。オリヴィアの話では花の青い草を食べた者は呼吸困難に加え、嘔吐や腹痛を起こす。薬草として使われている中部のレイベ草とは違う成分を持っている可能性がある。
南部では青い花の種から青い花は咲かないと言われていて、それを確認するため隔離した部屋で育てて慎重に種を取り、次の春に発芽後の生育具合を観察することになった。
ダレンは秋学期の途中から薬草学の講義を欠席するようになり、やがて履修を取り下げた。卒業論文を書かなければならないし、領のこともある。忙しいのは当然だろう。講義で会わなくなると、会う機会はめっきり減った。ルビアは所長の講義以外に学校に行く用事はなく、これまでもダレンが声をかけてくれたからこそつながりが保てていたのだと気がついた。
あの赤い花畑でのダレンの様子がいつもと違い、気がかりだったが、自分が心配するのもおこがましいような気がした。何度か会いに行ってみようか悩みながらも、ためらったまま月日が過ぎた。
農園で話した前所長の図書の件が思ったより早く動き出した。
今の図書館長から前所長の蔵書を「長期貸出」の名目で一部を薬草研究所に管理を委託する提案が出された。いつまでも研究所と対立しているのは図書館側も本意ではなかったようだ。
所長は何度か図書館に打ち合わせに出かけ、全冊・無期限の条件を勝ち取り、提案を受け入れることにした。
研究所内に図書室として作られた部屋は長い間倉庫のようになっていて、その片付けと新しい書架の設置、配架計画で秋学期はあっという間に過ぎていき、年明けに届く図書を楽しみにしながら年末の休みを迎えた。
その年の年末休暇の前にダレンに会うことはなかった。
一緒に戻るかと問われても今年も断るつもりだった。それなのに心の奥が冷たく痛むのを感じた。断るくせに期待していたなんて、自分のしてきたことはひどい我儘だ。人を傷つけ、自分も傷ついている。
それもこれが最後。今年は傷ついたのが自分だけで良かった。
この年もルビアには所報の原稿が割り当てられた。一年間の活動報告に加えて、農園での実習の記事も任され、年末年始の休みはこれにかかりっきりだった。書ききったつもりだったが自信が持てず、年が明けてばったり出くわしたトビアスに救いの神とばかり頼み込んで添削してもらった。
トビアスは自分でいいのかと何度も確認しながらも、丁寧に添削してくれた。
所報を書くのもこれが最後だ。無事期日までに仕上がった原稿にほっと胸をなでおろした。
図書室に本が運ばれ、一週間かけて整理しながら棚に並べていった。
部屋に収まった図書を眺め、所長は感無量な様子だったが、棚から三冊抜き取ると、早速所長室に持って行った。見習うように研究員達も思い思いに図書を手に取り、ウキウキ顔で部屋に戻っていった。
これでは所内で本が行方不明になりそうだ。
ルビアは本を持って行った人の元に行き、タイトルと今日の日付を書き留めてサインをもらった。以降、持ち出すときは必ずタイトルと日付と署名を書き込むよう、所長から所員にお願いしてもらった。期限は設けなくても、せめて誰のところにあるかくらいは把握しなければ。大事な前所長の蔵書なのだから。
後日、所長から図書復帰の貢献者として名誉研究員の称号をもらった。酒を飲みながら雑談中に思い付いたことがきっかけにはなったがタイミングが良かっただけだ。貢献者とまで言われるほどではないと思ったが、研究所内だけ有効なご褒美的なものといわれ、ありがたく受けることにした。
ルビアには所員同等に図書館で自分の名で図書を借りる権利が与えられた。とはいえ、
「見たい本はほとんどここにあるんですけど…」
「それはそうだな」
所長はひと笑いした後、ルビアに図書を六冊差し出した。
「これは私の私物だが、君にあげよう。名誉研究員の記念品代わりだ」
辞書に、薬草学や植物学の基礎的な図書、事典、図鑑。自分の本を持つのはこれが初めてだった。それに古い所報が一冊添えられた。
「この部屋を片付けた時に出てきたんだよ。掃除はするもんだねえ」
それは祖父の論文が載っている号だった。
「ありがとうございます。…大切にします」
ルビアは嬉しさに泣きそうになるのをぐっとこらえた。
次の秋が来る前に研究所を出ることになるので、そろそろ次の仕事を探さなければいけないと思っていたのだが、所長からあてがあるので待っているように言われた。
「まだまだここで働いてもらいたいんだけど、そうもいかなくてね…」
いろいろと雇用条件があるのだろう。頭をポリポリ掻きながら難しい顔を見せた所長に、ルビアは
「お気遣いいただき、ありがとうございます」
と礼を言った。
所長からの紹介なら今と同じような仕事ができるのだろうか。少し期待しながらも、所員ではないルビアに研究職は無理なことはわかっていた。所長からの紹介をあてにしつつ、学生向けに張り出されている求人にも目を通し、自分にできることはないか探してみた。しかし学生向けの求人はどれも学歴を必要としていて、ルビアには申し込む資格さえなかった。
普段ほとんど話したことのない研究員のニールが、にやにやしながらルビアに話しかけてきた。
「ダレン君が街で女の子とデートしてたよ。ずいぶん洒落た格好してたなぁ」
もめごとになりそうなネタを見つけては当人に話し、反応を見て喜ぶ。こういう人はどこにでもいるものだ。
「そうですか」
そっけないルビアの反応に、
「あれ? 恋人じゃなかったの?」
と聞き返されたが、ルビアはきっぱりと答えた。
「そんなんじゃありません。ダレン様は以前働いていたお屋敷のご令息です」
自分からそう答えながら、何故か違和感を覚えた。
「そうなんだぁ。なぁんだ」
関心をなくしたニールとは逆に、ルビアはもう少し話を聞きたかった。相手は誰で、どこで、何をして…。しかしそれを聞けばニールを喜ばせ、よくない噂を立てられるだろう。ダレンに迷惑をかける訳にはいかない。
つまらなそうに離れていくニールに背を向け、自分の仕事に戻った。
ダレン様は領主として、それなりの家格の方を妻にお迎えしなければいけません。
クリフォードの言葉を思い出していた。
卒業を控え、王都にいるうちに見合いをしたのかもしれない。きっと相応の人が選ばれているだろう。気が合えば婚約し、卒業と同時に領に連れ帰ることもあり得る。北邱の領の領主家は王都に持ち家がなく、ダレンの性格からしても領を生活の拠点にするだろう。
領に戻る準備は進んでいるに違いない。当たり前だ。卒業するのだから。わかっていたはずなのに、改めて実感した。
ダレンはいなくなる。
「あ…、」
すっかり忘れていた。そう言えば、ハンカチに刺繍をして返さなければいけないのだった。
卒業祝いも準備しなければ。
ハンカチの約束と共に思い出す、赤い花畑。受け止めてもらったのは涙だけではなかった。
無意識に強く握った手に、爪が食い込んで痛んだ。
さよならから逃げてはいけない。
ダレンが卒業する前に、やり残しのないように。
三年目の春。研究所の種植えにも慣れてきた。種を保存する時からきちんと管理され、その年の実験計画に合わせて植え付ける計画ができている。地植えもあれば鉢植えもあり、温室に入れるもの、他の花の影響を受けないように隔離して育てるもの。植えた種にはラベルがつけられ、育ち具合を記録していく。
今年もレイベ草を植えたが、花の季節より先にルビアはいなくなるので、今年は花を見ることはないだろう。それでも葉が花の色を教えてくれる。まだレイベ草の葉の違いははっきりと見えていた。
南部の青いレイベ草からとった種は発芽率が低く、芽が出ても枯れるものが多かった。青みが強い葉はどれもまだらで、五枚目の本葉が広がる前に枯れていった。他の人にはまだらには見えず、色の境目から茶色く枯れ始めていることもわからないようだった。生き残ったのはどれも赤いレイベ草だ。
ルビアは葉の枯れる様子を絵を添えて記録し、所長に報告した。
夏が近づくと、ダレンは無事卒業を迎え、ルビアより一足先に王都を離れることになった。
卒業式の前日に、ルビアは初めて学生寮を訪れてダレンを呼び出してもらい、卒業のお祝いにタイピンとハンカチを渡した。
タイピンは自分の稼ぎで買える程度ではあったが、気持ちとしては奮発したものだ。
ハンカチは花畑で汚したハンカチの弁償で、要望通り刺繍も刺してみたが何をモチーフにしたかはきっとわからないだろう。
ダレンはルビアから訪ねて来たことに驚きを見せたが、差し出されたプレゼントを笑顔で受け取った。
あの秋の農園実習以来ほとんど会う機会がなかった。久しぶりに会ったダレンは自分の知っている人でありながら、近しい人ではないように思えた。制服を着なくなればますます大人っぽく、近づきがたく見えるだろう。
自分の役目はここまで。
ここからのダレンの人生に、メイドのルビアは必要ない。少しでも人生の支えになれていたならそれで充分。それどころかここ王都ではむしろ自分の方がよほど励まされ、力を借り、支えられていた。
ルビアは自分に言い聞かせた。謝るのではなく、お礼を伝えて、できるだけ笑顔で。
「いっぱいご迷惑をおかけしましたが、…ありがとうございました。ダレン様がいてくださったので、王都でもやって行けたんだと思います」
「うん」
「…お見送りは、苦手なので、…許してください」
「…うん。わかった」
「お元気で。…さよなら」
握手をし、頬に受けた口づけは親愛の証だろう。
礼をして、ルビアは立ち去った。少し早足で、振り返ることなくその場を離れた。でないと一粒では済まない涙を見られてしまう。
研究所の寮に戻ると自分の部屋に駆け込み、閉じたドアにもたれながら崩れるように座り込んだ。
平気だと思っていた。そう思っていた自分は愚かとしか言いようがない。
ダレンは行ってしまう。今度こそもう会うことはないだろう。
さよならがつらい。
さよならはさみしい。
だけど、さよならと伝えられた。ちゃんと伝えた。
人から見ればなんてことのない別れの言葉でも、ルビアには精一杯だった。
翌日の卒業式は、遠くからこっそり見守った。多くの人に取り囲まれ、惜しまれているダレン。たくさんのつながりを領に持ち帰るダレン坊っちゃんを、ルビアは誇らしく思った。
明日には領に戻ると人伝えに聞いたが、やはり見送りに行く勇気は出なかった。
道中何事もなく、無事に領にたどり着くことができますように。ただそれだけを、北の、領のある方角に向かって祈った。




