050 誅滅
『見ない方が宜しいかと』
ディスターからの忠告が、強い調子でもって伝わって来た。
自分でもそれは百も承知だったが、義務感に駆られて窓際へと歩み寄る。
凝った意匠が施された窓の向こう、眼下に展開されていた光景は、当然ながら訓練などではなかった。
村人が連れ去られたと知った瞬間に浮かんだ不吉な予感、それが最悪に近い形で現実となっていた。
「余の配下……忠勇なる親衛軍兵士たるには、鋼鉄の意志が必須となる。故に、新兵にはまず『人を殺める』のに慣れてもらわねばならんでな」
平時は練兵に使われているのであろう、砦の中央にあるスペース。
そこには既に、兵士達の姿はなかった。
いるのは、ミーデンから連れて来られたであろう村人達だ。
眠そうな目の老婦人がいる。
切断された頭部が首の下から槍の穂先に突き刺され、もう何も映さない瞳を空に向けている。
苦悶の表情の中年女がいる。
轢断されかけた腹から桃色の内臓をこぼれさせ、その手は訓練場の土を握り締めている。
寄り集まった子供達がいる。
頭蓋を殴り潰され、眼球を穿り出され、裸の背を弓矢の的にされ、四肢を乱雑に断たれた亡骸には、どれ一つとして五体満足なものがない。
守られるべき者が、それを守るべき立場の者の手で鏖殺されていた。
殺人の練習のために行われた殺人。
遊び半分の気配が充満した処刑場。
「ふはははははははははは、何をそんなに驚いておるのだ。求綻者などと言いながら、実は箱入り娘であったか? ふふっ、ぅははははははははははははははっ!」
あまりの惨状に呆然としていると、哄笑が耳に刺さってくる。
この殺戮を命じたのであろうシュナースは、ひたすらに笑い続ける。
心を乱した私を見て、何とも楽しげに。
言葉を失う私を見て、いかにも満足げに。
「益体もない下賤の百姓共だったが、こうして最後に国に奉仕できたのはまたとない僥倖であろう。そうは思わぬか」
さっきから何を言ってるのだ、この阿呆は。
求綻者となってからの私は、無数の死を目の当たりにしてきた。
自分自身のこの手でも、少なからぬ人数を討っている。
だが、これは違う。
今、ここで起きているのは何だ。
人が殺されるということに、まるで意味がない。
混乱する思考は、シュナースが明らかに喋りすぎている理由に気付くのを遅らせた。
シュナースの右手が小さく動いたのに気付き、不意に我に返る。
次の瞬間、全身に激しい衝撃を感じた。
視界には、床と天井が交互に映し出される。
直後、金属が石畳に弾ける音がいくつも続いた。
「お怪我はありませんか」
「ぅ、ああ……」
自分を抱き締めているディスターの声に、何事が起きたのかを大筋で把握する。
こちらを始末しようと、シュナースが周囲の衛兵達に攻撃を合図。
その意図を察知したディスターが、私に跳び付いて床に転がりながら回避。
そして間髪を入れず、宙を舞った大量の手槍が飛んできた、というわけだ。
立ち上がりながら、槍の雨が降り注いだ辺りを見る。
仰向けに倒れたローランの体に三、四本が深々と突き立っている。
その近くでは、副官が腹への直撃を受けて大量吐血していた。
刺さった場所と出血の量からして、二人とも恐らくは助からない。
「避けるでない。二度手間になるではないか」
心の底から面倒臭そうに言うと、シュナースは第二撃の合図を出そうとする。
目の前で踏ん反り返っている腐れ外道に、言うべきことは無数にある。
でも、こいつは確実に聞く耳を持たないだろう。
そう判断した瞬間にはもう、体が自然に動いていた。
通常であれば七歩か八歩ある距離を、息を詰めて五歩で駆け抜ける。
「なっ――かっ、閣下をお守りしろっ!」
衛兵の声が悲鳴に近い色合いで弾けるが、指示が行動に変わる前にこちらの手が届く。
小憎たらしい童顔が、一瞬にして恐怖――ではなく驚愕でひしゃげる。
渾身の右フックを顔面に炸裂させ、シュナースが豪奢な椅子ごと倒れかけたところで、今度は左脇腹を全力でもって蹴り上げる。
衛兵の反応は遅れたものの、すぐにシュナースを取り囲んで守りを固めようとする。
抜刀した衛兵達は、私の攻撃を許したことで動揺し、殺気立っている。
一斉にかかってこられたら、ディスターの援護があっても無事では済まないだろう、と判断して三ケン(六メートル)ほど下がって間合いをとる。
次の一手を待ちながら呼吸を整えていると、人の壁の奥から怨念の篭もった呻きが上がった。
「ぐぉおおあぁおおおぉ……くふっ、この賤しいっ、薄汚い雌犬がぁ! 由所正しき血統を保つ大貴族に連なる、この余に手傷を負わせるとは……三族全て、豚の餌となる覚悟はできておろうなぁああ!」
「何が血統だ、このド阿呆め! 女の拳も避けられない糞雑魚が何様のつもりだっ! パパの金で人殺しの親玉をやってる小便タレごときが、賢しげに貴賤を語るな!」
「ふっ、ふざけたことを……偉大なるシュナース侯爵家、アーグラシア王家と並び立つ、古く貴きこの血の流れる我が身は、神に近しい存在なるぞっ!」
「だからどうした! お前の論法が正しいなら、私は神だっ!」
傲然と言い放つが、シュナースは左頬の腫れ始めた顔で、私を不思議そうに見返してくる。
衛兵達も「何を言ってるんだコイツは」という空気を出してキョトンとしている。
十秒くらい無音が続いた後、ディスターが静かに告げた。
「貴殿を殴り飛ばしたのは、レウスティ連合王国の第二王女にして、練士の号を授かりし求綻者。エリザベート・ド・レウスティ姫殿下にございます」
室内に、わかりやすく動揺と狼狽が広がる。
そして先程よりも更に長い無音期間を経て、「フハッ」と力の抜けた笑いをシュナースが発した。
「どうせ殺すのだ。貴族だろうと王族だろうと構いはせぬ……やれ、こやつらは密偵だ」
「お、女の処断は、いつも通りに尋問した後でいいですかね?」
「好きにするがよい」
下世話なニュアンスに塗れた部下からの申し出に、シュナースは興味なさそうに応じる。
なるほど――こいつらは皆、揃いも揃って畜生の類だ。
すぐにでも叩き斬りたいが、狭い場所での乱戦では思わぬ怪我をする恐れもある。
まずは後背の兵を蹴散らして、この場を脱するとしよう。
『心得ました』
こちらの思考に答えたディスターは、私が部屋の出口に向かって動き出すと同時に、ボサッと立っているだけの兵士二人を斬り伏せて逃走経路を作る。
その背中を追って通路を走り抜け、下りの階段を数段飛ばして駆け降りる。
異変に気付いて制止してくる連中を無視し、正門を目指して全力疾走すると、意外にあっさりと砦から脱出することができた。
息を切らしながら隣のディスターを見るが、汗をかいてすらいない平静さだ。
「どうしますか、姫様」
その言葉が意味しているのは、シュナースとその手下をどうするのか、だろう。
このままシャレルに親衛軍の凶行を報告し、それが事実と認められたとしても、あの小僧が表立って罪に問われはしない。
代わりに他の幹部が処罰されるかもしれないが、腐敗の原因は居座り続ける。
早く決めて動かないと、砦の兵士達に包囲されるな――どうするべきだろうか。
ソミアの練兵場。
ミーデンの廃墟。
コルブズの中庭。
そこで自分が目にした光景を改めて思い返すと、自然と答えは導き出された。
答えは出たが、それを実行するとなるとやはり戦慄は禁じ得ない。
口の中がどうしようもなく渇くのを感じながら、私は搾り出すように告げる。
「……ディスター」
「はい」
「砦を焼き払え」




