030 怪物
思い返してみれば、違和感や疑問点は少なからずあった。
まず、これだけ広い森なのに動物の気配が殆どしない点。
村人達が狩って食料にしているのを考えても、余りに極端な状態だ。
それに、隠し牧場を作ってまで雑食性のヒグマに肉を与える、そんな行動の意味も分からない。
更には、いくら平均的な個体から飛び抜けた大型サイズだろうと、ヒグマ程度の力で領主館の堅牢な壁を破壊できたのは不自然だ。
そして猛獣使いの老人の『同じようにできるんじゃないか』という言葉。
誰と同じことをしようと試みたのか――その答えが、多分こいつだ。
「それで、あれは何だ?」
「見るのは初めてですが、恐らくは【閑寂猴】と呼ばれる不明新生物ではないかと」
「しじま? あんなに喧しいのに、どうしてそんな名に」
「付近の生物があれによって狩り尽くされて静かになる、というのが由来だそうです」
「そいつは……相当な不吉さだな」
「はい。戦闘能力は未知数ですが、これまでに『コロナの怪物』がもたらした被害と、先程の動きから類推するに、この半年に出会った中で最も危険な相手ではないかと」
閑寂猴は月を背にして、奇怪な挙動で手を叩き続けている。
その姿を見ていると、地に足が着かないような厭な浮遊感に囚われてしまう。
日の光の下で直視したら、より深刻な恐慌に陥っていたかも知れない。
「どうしたものかな」
「手段を選ばないのであれば、速やかに消し去れるのですが」
「しかし下手をすれば、この森もあの村も消えるであろう」
「そうなるでしょう」
「私の安全も危ういな?」
「否めません」
「では却下だ」
ディスターの竜への転変、過去に一度だけ目撃している。
あれはまるで『世界の理』の埒外にあるような、そんな思いを抱かせる異様な姿だった。
そしてその規格外の力も、どう形容すればいいか悩む類の――
「ぎぃいいいいいぃひゃあひゃあひゃあ」
サルから放たれた、吼え声だか笑い声だか分からない騒音が思考を寸断する。
とにかく、ここで竜の力は使えそうもないし、あれとどう戦うべきか。
「どう攻める?」
「現時点で明らかなのは、尋常ではない膂力を有し、常識外れの跳躍を見せ、異常な容姿の巨体の持ち主である、という三点のみです。判断材料が足りませんので、守勢に回りながら機を窺うとしましょう」
守りに入ろうにも、下手をすればガードごと即死な予感がする。
が、積極策でこの状況を打開できる自信もないので、ディスターの提案に頷く。
その直後、岩の上で跳ねていた閑寂猴の奇態が、不意に視界から消えた。
「なっ――」
予期せぬ状況に、狼狽の呻きが漏れてしまう。
いくつかの衝撃音が立て続けに聞こえ、直後に目の前が暗くなった。
「びぇへぇぇ! ぅぎゃひぁひゃぎゃぎゃ!」
今までとは異なる調子の咆哮が響く。
木々の間を飛び移りながら高速移動したサルは、上空から私に一撃を加えようとしたらしい。
錆びた短刀を並べたような汚れた何十本もの爪、それが私の体を引き裂こうとする寸前に、ディスターから繰り出された突きが分厚い掌を貫いていた。
換気の悪い物置の空気を凝縮した、とでも表現すべき嗅ぎ慣れないニオイは、閑寂猴の体臭なのかそれとも血の臭いなのか。
「ぐきゃきゃきゃ、ぎょへぁきゃきゃきゃ」
恨みがましい奇声を上げながら、サルは飛び退って姿を隠す。
ディスターはそれを追わず、ハルバードを振るって刃先の血糊を飛ばしている。
「刃が通るならば、恐るるに足りません。薄気味悪いだけの育ち過ぎた獣です」
こちらを見もせずに言う、その口ぶりは素っ気なかった。
だが、仕切り直しの契機としては十分だ。
静かに息を吐いて長剣を握り直し、敵の再登場に備えて少し腰を落とす。
遠くない闇の中を大型生物が不規則に移動している。
『右後方、伏せて――』
下さい、と最後まで伝わる前に相手が踏み込んできた。
二瞬前まで私の頭があった空間が、剛毛と筋肉で覆われた左足で切り裂かれる。
屈みながら牽制も兼ねて大きく剣を払うが、手応えは感じられない。
外した、そう思った時には閑寂猴は再び跳び、ディスターの方へと向かっていた。
「ぅぎきぃいぇっ!」
サルなりの気合なのか、短い叫びと共に腕の数本が唸りを上げる。
いくつか鈍い音がしたが、ディスターは流れるような動きで爪の乱舞を潜り抜け、後背へと回り込んでハルバードのアックス部分を叩き込む。
だが、人体だと肩甲骨の辺りから生えた腕が、ポールを弾いてそれを阻止した。
聞き覚えのある音だ――さっきまでは、ディスターが迫り来る腕を弾いていたのか。
「ぎゅぶるぁきゃ、ぎゃびゃぎゃぎゃっ」
また濁った笑い声。
貧弱な獲物のささやかな抵抗。
言葉が通じなくても、そんな侮りが向けられているのがわかる。
「どちらが狩られているのか、そこを思い知らせる必要があるな」
早口で独り言ち、剣を手に奔る。
未知の敵に向かっていても、足取りは軽い。
巨大な生物の奇怪な輪郭が、暗いながらもハッキリと浮かんできた。
改めて近くで見ると、一ジョウ(三メートル)はあっただろうヒグマより、三シャク(九十センチ)以上も大きそうだ。
濃厚な獣臭にカビ臭さが混ざったものが立ち込め、夜気に混ざって肌にまとわりついてくる。
「はああっ!」
掛け声と共に、刃を振り下ろす。
その切先は、ディスターに気を取られているサルの左脚、その膝裏を深々と裂く。
――はずだった。
しかし、次の瞬間にバランスを崩していたのは、目の前の不明新生物ではなかった。




