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鬼の行く涯て 竜の往く果て  作者: 長篠金泥
第3章 (ライザ 鐘後215年11月)

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030 怪物

 思い返してみれば、違和感や疑問点は少なからずあった。

 まず、これだけ広い森なのに動物の気配が殆どしない点。

 村人達が狩って食料にしているのを考えても、余りに極端な状態だ。

 それに、隠し牧場を作ってまで雑食性のヒグマに肉を与える、そんな行動の意味も分からない。


 更には、いくら平均的な個体から飛び抜けた大型サイズだろうと、ヒグマ程度の力で領主館の堅牢な壁を破壊できたのは不自然だ。

 そして猛獣使いの老人の『同じようにできるんじゃないか』という言葉。

 誰と同じことをしようと試みたのか――その答えが、多分こいつだ。


「それで、あれは何だ?」

「見るのは初めてですが、恐らくは【閑寂猴しじまざる】と呼ばれる不明新生物アンではないかと」

「しじま? あんなに喧しいのに、どうしてそんな名に」

「付近の生物があれによって狩り尽くされて静かになる、というのが由来だそうです」

「そいつは……相当な不吉さだな」

「はい。戦闘能力は未知数ですが、これまでに『コロナの怪物』がもたらした被害と、先程の動きから類推するに、この半年に出会った中で最も危険な相手ではないかと」


 閑寂猴しじまざるは月を背にして、奇怪な挙動で手を叩き続けている。

 その姿を見ていると、地に足が着かないような厭な浮遊感に囚われてしまう。

 日の光の下で直視したら、より深刻な恐慌に陥っていたかも知れない。


「どうしたものかな」

「手段を選ばないのであれば、速やかに消し去れるのですが」

「しかし下手をすれば、この森もあの村も消えるであろう」

「そうなるでしょう」

「私の安全も危ういな?」

「否めません」

「では却下だ」


 ディスターの竜への転変、過去に一度だけ目撃している。

 あれはまるで『世界のことわり』の埒外らちがいにあるような、そんな思いを抱かせる異様な姿だった。

 そしてその規格外の力も、どう形容すればいいか悩む類の――


「ぎぃいいいいいぃひゃあひゃあひゃあ」


 サルから放たれた、吼え声だか笑い声だか分からない騒音が思考を寸断する。

 とにかく、ここで竜の力は使えそうもないし、あれとどう戦うべきか。


「どう攻める?」

「現時点で明らかなのは、尋常ではない膂力りょりょくを有し、常識外れの跳躍を見せ、異常な容姿の巨体の持ち主である、という三点のみです。判断材料が足りませんので、守勢に回りながら機を窺うとしましょう」


 守りに入ろうにも、下手をすればガードごと即死な予感がする。

 が、積極策でこの状況を打開できる自信もないので、ディスターの提案に頷く。

 その直後、岩の上で跳ねていた閑寂猴しじまざるの奇態が、不意に視界から消えた。


「なっ――」


 予期せぬ状況に、狼狽ろうばいの呻きが漏れてしまう。

 いくつかの衝撃音が立て続けに聞こえ、直後に目の前が暗くなった。


「びぇへぇぇ! ぅぎゃひぁひゃぎゃぎゃ!」


 今までとは異なる調子の咆哮ほうこうが響く。

 木々の間を飛び移りながら高速移動したサルは、上空から私に一撃を加えようとしたらしい。

 錆びた短刀を並べたような汚れた何十本もの爪、それが私の体を引き裂こうとする寸前に、ディスターから繰り出された突きが分厚い掌を貫いていた。

 換気の悪い物置の空気を凝縮ぎょうしゅくした、とでも表現すべき嗅ぎ慣れないニオイは、閑寂猴しじまざるの体臭なのかそれとも血の臭いなのか。


「ぐきゃきゃきゃ、ぎょへぁきゃきゃきゃ」


 恨みがましい奇声を上げながら、サルは飛び退って姿を隠す。

 ディスターはそれを追わず、ハルバードを振るって刃先の血糊を飛ばしている。


「刃が通るならば、恐るるに足りません。薄気味悪いだけの育ち過ぎた獣です」


 こちらを見もせずに言う、その口ぶりは素っ気なかった。

 だが、仕切り直しの契機としては十分だ。

 静かに息を吐いて長剣を握り直し、敵の再登場に備えて少し腰を落とす。

 遠くない闇の中を大型生物が不規則に移動している。


『右後方、伏せて――』


 下さい、と最後まで伝わる前に相手が踏み込んできた。

 二瞬前まで私の頭があった空間が、剛毛と筋肉で覆われた左足で切り裂かれる。

 屈みながら牽制も兼ねて大きく剣を払うが、手応えは感じられない。

 外した、そう思った時には閑寂猴しじまざるは再び跳び、ディスターの方へと向かっていた。


「ぅぎきぃいぇっ!」


 サルなりの気合なのか、短い叫びと共に腕の数本が唸りを上げる。

 いくつか鈍い音がしたが、ディスターは流れるような動きで爪の乱舞を潜り抜け、後背へと回り込んでハルバードのアックス部分を叩き込む。

 だが、人体だと肩甲骨の辺りから生えた腕が、ポールを弾いてそれを阻止した。

 聞き覚えのある音だ――さっきまでは、ディスターが迫り来る腕を弾いていたのか。


「ぎゅぶるぁきゃ、ぎゃびゃぎゃぎゃっ」


 また濁った笑い声。

 貧弱な獲物のささやかな抵抗。

 言葉が通じなくても、そんなあなどりが向けられているのがわかる。


「どちらが狩られているのか、そこを思い知らせる必要があるな」


 早口で独り言ち、剣を手に奔る。

 未知の敵に向かっていても、足取りは軽い。

 巨大な生物の奇怪な輪郭りんかくが、暗いながらもハッキリと浮かんできた。

 改めて近くで見ると、一ジョウ(三メートル)はあっただろうヒグマより、三シャク(九十センチ)以上も大きそうだ。

 濃厚な獣臭にカビ臭さが混ざったものが立ち込め、夜気に混ざって肌にまとわりついてくる。


「はああっ!」


 掛け声と共に、刃を振り下ろす。

 その切先は、ディスターに気を取られているサルの左脚、その膝裏ひざうらを深々と裂く。

 ――はずだった。

 しかし、次の瞬間にバランスを崩していたのは、目の前の不明新生物アンではなかった。

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