母の心配
時刻はもう夕方になっていた。
ウィリアムさまは、わたしの父と兄とあの後、1時間ほど話し合って、すぐに早掛け馬車で王都に帰ると言った。
このまま婚約申請証を王宮に提出するそうだ。
早掛け馬車であれば、明日の朝には王都に着くだろう。
屋敷の外で父と兄と一緒に見送るわたしの指先に、ウィリアムさまが小さくキスをして言った。
「王宮で受理されたらすぐに手紙を送る」
「は…はい」
キスされた指先が熱い。わたしが赤面しているうちに、父と兄に挨拶をしたウィリアムさまは早掛け馬車を発進させた。あっという間に、馬車が小さくなっていく。
「手を出すのが早くないか……?」
兄がわたしの肩に手を置き、何かを呟いたが、小さすぎて聞こえなかった。
わたしが兄を見上げると、兄は片方の眉を上げて言った。
「人の縁とはわからないものだと言ったんだ」
わたしは兄の言葉に頷いた。
正直、まだ夢を見ているような気がする。
婚約破棄されてからたった二ヶ月しか経っていないのに、あんな素敵な人から求婚されて、しかも将来、公爵夫人になるなんて。
眉間に皺を寄せた父が無言で屋敷の中に戻っていく。
「僕らも戻ろう」
兄に促され、屋敷に向かって歩き出したわたしは、一度だけウィリアムさまの乗った馬車が去っていった方角を振り返った。
早掛け馬車の轍が太く残っていて、それが今日の出来事を夢ではなかったと示してくれているような気がした。
ウィリアムさまが王都へ出発されてから1時間後に、友人宅へ出かけていた母が帰って来た。
結局、母はウィリアムさまに会わなかったことになる。
父にグローリア家との縁談を結ぶことを決めたと聞かされた母は、目を吊り上げて言った。
「どうして勝手に決めたのよ!? 伯爵家ならともかく、公爵家なんて持参金だって跳ね上がるし、支度金だって……」
かん高い声で話し続ける母を見ながら、兄がそっとわたしに言った。
「リディはハンナと一緒に部屋に戻ってなよ。ここは僕と父上にまかせて」
兄の合図ですぐにやって来たハンナに案内され、自室へ向かおうとした時、珍しく大声を上げた父の言葉がわたしの耳に残った。
「そう思うなら、お前もあの場にいれば良かっただろう。もう決まったことだ」
その日の夕食はいつもより遅い時間だった。
母はやや機嫌が悪そうで、わたしの方をチラリとも見ない。
食事の途中、兄が言った。
「リディの見合いも終わったし、明後日には王都に戻ります」
「そうなの。次に会えるのは新年かしら」
兄を見た母は寂しそうな声音で言った。父は何も言わずに食事を続けている。
「そうですね。そろそろ卒業試験への準備を本格的に行わないといけませんし」
「アーサーなら大丈夫でしょう、来年のアカデミーへの進学も決まっているんだし」
兄は次の春。つまり、王立学院高等科を卒業した後、その上のアカデミーに進学することが決まっている。それでも卒業試験は受けないといけないらしくて、その勉強をしている。
「リディも。婚約が決まったからと言って浮かれてないで、しっかり勉強するのよ」
「ええ、お母さま」
母が食事を開始してから、初めてわたしを見て言った。その顔は、喜んでくれているようには見えない、何とも言えない表情だったけれど。
「そうそう。この前買った新しい本だけど……」
母は新しく買った本へ話題を変えた。
時々、兄とわたしが相槌を打ち、食事は続いていった。
◇◇◇
兄が王都に戻った一週間後。速達で、婚約承諾証明証が届いた。
そこにはグローリア公爵家とフィールズ伯爵家の婚姻を認める王家の印が押されている。
そして、婚約受領書とは別に、グローリア公爵家からの婚約についての取り決めをまとめた書面も届いていた。
居間で父とわたしと一緒に、それを読んだ母は、再び不機嫌そうな顔になり「どうしてこんな取り決めをしたの!」と父を非難し始めた。
その書面に書かれていたことは、まず婚約期間はわたしが女学院を卒業するまでの、二年と少しの間。
次に、貴族の結婚に付き物の持参金は、伯爵家に嫁ぐために用意していた金額のままで良いらしい。
一般的に花嫁側が用意する持参金は、嫁ぎ先の爵位によって変わることが多い。
もちろん、父はわたしの持参金をずっと前に準備してくれていたけど、あくまでも元婚約者が同格の伯爵家の場合の金額だった。公爵家に嫁ぐ場合は、それよりもずっと高額となる。
けれど、今回はグローリア公爵家からの申出ということで、持参金は伯爵家に嫁ぐために用意していた金額で良いという。
婚姻するために必要となる支度金も不要で、婚姻に必要なものがあれば、全て公爵家側で準備してくれるらしい。
ただし、全てを公爵家で負担してくれる代わりに、それには二つだけ、公爵家からの「希望」が書かれていた。
一つは、わたしが女学院の長期休暇へ入った時に、公爵家の屋敷に一定期間滞在するというもの。
確か、お見合いの日にウィリアムさまからも提案された気がする。
公爵家としては、領地で暮らしているわたしが将来、王都で暮らしやすくするための準備期間を用意したいらしい。
もう一つは、婚約披露パーティを公爵家の希望する時期に開きたいというもの。
貴族間で婚約を結んだ場合、他家や関係者に知らせるためにパーティを行う。今回は、その時期を公爵家で希望する頃にして欲しいというものだった。
さらに、婚約披露パーティを行うまで、婚約したことを伏せてほしい、代わりに費用は全て公爵家で賄うとも書かれていた。
母は持参金の件は喜んでいだが、それ以外の公爵家からの希望に納得していないようだった。
「リディを王都に行かせるなんて…きっと将来嫁いびりするための準備に違いないわ!! それに、婚約披露パーティの日付が決まるまで、公にするなって、うちを馬鹿にしているのかしら!?」
「……」
「格下の家から嫁を貰ってやったって思っているのよ、絶対!!」
「……」
「そんな家に嫁がせるなんて、あなた何を考えているの、リディが可哀想だと思わないの!?」
「……すでに婚約許可証も届いたんだ。決まったことだと、何度も言わせるな」
「そんな!」
父は不機嫌そうな顔をしたまま、執事のドクトルに公爵家からの書面を渡して立ち上がった。
「まだ仕事の途中だ。戻る」
「あなた!」
そのまま執務室に向かう父の背中を見つめている母の拳が震えていた。
くるりとわたしに向き直った母は、心配げな顔をして突然わたしを抱きしめた。
「リディ…あなたをあんな家に嫁がせるなんて心配だわ。何かあったらすぐ帰って来れる距離でもないし……」
「えっと……」
こんな時、何と返せばいいのだろう。
「私もあの人と結婚したての頃、あなたのおばあさまに嫁いびりされたもの。何度実家に帰ろうと思ったか。可愛い娘を嫁いびりするような家に嫁がせるなんて……」
「あ、あのね、お母さま。別に嫁いびりされると決まったわけじゃ……」
「いいえ! 油断してはだめよ。婚家なんて他人なんだから」
母は父に嫁いだ後、先代の伯爵夫人——つまり、わたしの父方の祖母にひどい嫁いびりをされたらしい。祖父は爵位を父に譲ったあと、子爵となった叔父の家に祖母と共に身を寄せている。
「そ、そうね……」
わたしが母の返答に困っていると、マーサが母へ話しかけた。
「お話し中に申し訳ありせん、奥さま。ウェッジ商会から商人が来ております」
「あら、そう。何かしら? 先にドクトルに用件を聞かせて。わたしも行くわ」
マーサを連れて母が居間から出ていく。わたしは体に残った母の体温が冷えていくのを感じながら、その場に立ちすくんでいた。




