あなたを知りたい
その後、兄に「一旦、二人で話を」と勧められて、その人とわたしは応接室に残った。
暖かければ庭を案内するのだけど、今はもう秋。外を歩くには少し寒い。
応接室には二人きりだけど扉は開いていて、何かあればすぐ人が入って来られるようになっている。
メイド長のマーサが冷たくなった紅茶を新しいものに入れ替え、一礼して去っていった。
席を外した兄と父はこれからグローリア公爵家からの申し出について話し合うのだろう。そして、父は最後まで無言だった。
「突然の申出で驚かせてしまったな」
その人——グローリア公爵令息が言った。
「えっと……公爵家の方だったのですね」
「ああ。あの日は名乗れなくて申し訳なかった」
「いいえ、わたしも泣いていましたし…」
交流パーティでずっと泣いていたことが思い出されて、恥ずかしさが込み上げてきて思わず俯いてしまう。
「——すまない」
「え?」
ポツリとグローリア公爵令息が言った。
「君がまだ悲しんでいるとわかっているのに、こんな断りづらい縁談を持ちかけたことを本当にすまないと思っている。けれど、どうしても…君がいいと思ったんだ」
「どうして、わたしが……?」
会ったのはあの日が初めてで、話した時間はごく僅かで。
「君が誰かを心から大切にできる人だと思ったから」
グローリア公爵令息は微笑んだ。冷たく見える青い目が、またふわりと優しくなった。
その笑顔を見ていると、なぜかじんわりと頬が熱くなってくる。
「ただ、この縁談を無理強いするつもりはないし、君の気持ちが落ち着くまで待つつもりでいる。そんなにすぐに、これまでの誰かへの気持ちを忘れることは出来ない」
「閣下……」
そっとグローリア公爵家令息がわたしの右手を握った。
「か、閣下!」
「ウィリアム」
「え?」
「できれば、君には名前で呼んで欲しい。ウィリアムと」
「……ウィリアムさま?」
「うん」
今、わたしの顔は真っ赤になっているだろう。
「うぉほん!」
咳払いの音がした。見ると、マーサが開いている扉の向こう側でこちらをジロリと睨んでいた。
「……失礼。早まった」
ウィリアムさまがそっと手を離した。わたしは真っ赤な顔を隠すように俯いた。
「いえ……あ、あの」
頬の熱が少し引いた頃、わたしは不安に思ったことを呟いた。
「わたしに……公爵夫人が務まるのでしょうか。自信がありません……」
エドウィンさまと婚約していた時に行っていたのは伯爵夫人としての勉強だった。それでも少し難しかったのに、それよりも学ぶことが多いであろう、公爵夫人になるということ。
自分の中での不安が大きすぎて、ウィリアムさまへの気持ちとは別に、立派な公爵夫人になれる自信がなかった。
「私は君なら大丈夫だと思っている。けれど、自信というものは、他者に言われたからといって付くものでもない」
顔を上げるとウィリアムさまは、穏やかな目をしてわたしを見ていた。
「職場の上司に言われた言葉だ。『勉学の知識だけで人は生きてはいけない。失敗を恐れるのをやめて、わからなければ立場を問わず尋ねろ。そうすることで、学んだ一つ一つが経験として身につき、後から自信になる』と」
ウィリアムさまは膝の上で手を組むと、ふふっと懐かしそうに笑った。
「私は王立学院を卒業してすぐに王宮で働き始めた。学院の成績も国家試験の結果も上位だったから、即戦力とは言わずとも、それなりに上手くやれるだろうと思っていたが、そんな自信は仕事を始めてすぐに吹き飛んだ。働き出した頃はミスを重ねて毎日叱責されていたよ」
「ウィリアムさまが……?」
初めて会ったあの夜も、今も。
整った綺麗な顔に、漂う知的な雰囲気。冷静で落ち着きのある物腰は、どこから見てもしっかりとした大人で、わたしには住む世界が違う遠い存在に見える。
「何かを始める前から完璧にこなせる自信がある人の方が少ない。私だって、父の跡を継いで公爵となることに不安がないわけじゃない。きっと悩みもするし、失敗もするだろう。それでも君と一緒なら、乗り越えていけると思っている」
何故だろう。
あの交流パーティの時と同じように、この人の言葉はどうして、こんなにも心にストンと落ちていくのだろう。
——それは、きっと。
名前を知ったばかりのこの人が、わたしの気持ちに寄り添おうとしてくれているから。
ウィリアムさまに会うまで、わたしはずっと元婚約者のことを早く忘れなくちゃと、何度も自分に言い聞かせていた。
だけど、ウィリアムさまは「君には自分の心を落ち着かせる時間が必要なのだと思う」と言ってくれた。
そして今日も。
わたしの中にある将来の不安に、急かすことなく寄り添おうとしてくれている。
「この先、君の心に私を置いてくれる可能性があるなら、どうか私との先を考えて欲しい」
グローリア公爵令息に真剣な眼差しで見つめられて、収まりかけていた頬の熱さがぶり返す。
「えっと、あの、じ、じゃあ!」
きっとわたしの顔は今、真っ赤だと思う。
「ウィリアムさまのことをたくさん教えてください!」
「私のことを?」
「だってわたし、ウィリアムさまのことはお名前しか知らないんです!」
わたしの言葉にウィリアムさまは驚いたように目を瞬かせて、困った顔をして優しく笑った。
「そうだった。君に会えた嬉しさで、つい浮かれてしまっていた」
わたしよりずっと年上のはずなのにどうしてか、その表情を可愛いと思ってしまう。
自分の初めての感覚に戸惑いを感じながらも見つめていると、ウィリアムさまは静かに口を開いた。
「私はグローリア公爵家の長男で、年齢は二十三歳。仕事は王宮で外務に関する仕事をしている。家族は、公爵の父と夫人の母、八歳年下の弟がいる。あとは、そうだな……リリーディア嬢が何か知りたいことがあれば答える」
「知りたいこと…何でもよろしいのですか?」
「ああ」
少し悩んで、わたしは思い浮かんだことを質問してみた。
「お好きな色は?」
「緑だな」
「お好きな花は?」
「花……クロッカスだ」
「お好きな食べ物は?」
「食べ物に当たるかはわからないが、コーヒーはよく飲む」
「お好きな動物は?」
「犬だ」
「お好きな季節は?」
「秋だな」
「お休みの日は何をされていますか?」
「読書や散歩をしていることが多い」
「えっと……」
次の質問が出て来ない。悩んでいるわたしをウィリアムさまが面白そうに見ていた。
「また知りたいことができたら、いつでも聞いてくれ……ああ、そうだ。君のことを、ご家族と同じようにリディと呼んでも構わないだろうか?」
「は、はい。もちろん、かまいませんわ」
婚約するのだし、と、そう思った自分に驚く。
その瞬間、ストンとわたしの心に何かが落ちてきたのに気づいた。
「リディ」
わたしの名前を呼んで、嬉しそうに笑うあなた。
穏やかな春の海のような青い目が細められる。
「君が私のことを教えてほしいと言ってくれたように、私も君をもっと知りたい。どうか、そのための時間を私に与えてほしい」
ウィリアムさまが告げてくれる言葉の一つ一つが、心に染み込んでいく。
それは、あの夜と同じで。
わたしは一呼吸して、ウィリアムさまの青い目を見つめた。
「わたしも、ウィリアムさまのことをたくさん知りたいです」
「リディ」
ウィリアムさまがわたしの両手を取り、自分の両手で包み込んだ。
「ありがとう、必ず君を大切にする」
嬉しそうに、幸せそうに笑うその人の笑顔がわたしの心を温かくする。
「わたしも……これから、よろしくお願いします」
この日、フォールズ伯爵家とグローリア公爵家の縁談が結ばれた。




