新宿西口バス放火事件
昭和五十五年になり、様々な不祥事や派閥争いが重なって内閣不信任案が可決された。
しかし与野党共に不測の解散をしたので国会は大いに混乱して、さらには選挙前に首相を在任していた大平さんが、心身共に疲れ果てた顔で記者会見を開いた。
彼はそのまま体調不良のため、総理を辞任することになったのだった。
ここ最近は稲荷大社の謁見の間に招集するたびに顔色が悪く、個人的にどうにも落ち着かなかった。
「顔色が優れませんね。無理をして倒れたらどうするのですか。
大平さんはもう歳ですし、いっそこの機会に総理を辞任したらどうですか?」
相変わらず歯に衣着せずにバッサリと忠告したので、私が辞めさせたようなものだ。
しかしあのままでは、本当にぽっくり逝きそうだったのだ。
そんな事情もあり、大平元総理の後釜は不祥事やら派閥争いやらで、立て直しにかなり苦労するだろう。
さらには選挙前の滅茶苦茶忙しい時期に、突然抜けられたのだ。もうてんやわんやであった。
一方、大平さんはと言うと、辞任してすぐに病院で精密検査を受けた。
その結果、心臓にかなりの負担がかかっていて、危機的状況であったことが判明した。
元々不整脈があったらしく、疲労や心労だけでなく、七十歳という高齢だ。
なので、急な辞任でも彼にとっては良い選択のはずだ。
でなければ選挙中に急性心筋梗塞か何かで、ポックリ逝っていた可能性が非常に高かった。
なので大平さんは、体調が回復するまで緊急入院することになり、私はこれまでの苦労を労うためにお見舞いに行った。
持参した花束をお世話係に渡し、花瓶の水を替えてくるようにと頼んだあと、清潔なベッドで横になって体を休めている彼に、優しく声をかける。
「これまで本当にお疲れさまでした」
総理大臣を辞めたことで気が抜けて、これまで誤魔化してきた疲労が一気に出たのか、謁見の間で会った時よりはマシだが、大平さんの顔色は相変わらず悪い。
「稲荷神様のお役にたてて光栄です」
それでも彼は私の労いの言葉を聞いて少しは元気が出たのか、ベッドで横になりながら、ぎこちなく微笑んでくれた。
「私も大平さんのように。早く退位したいものです」
「ははっ、稲荷神様の退位は当分先でしょうな」
心身共に疲れ切っている大平さんにあまり無理はさせられないので、私は早く元気になるようにという願いを込めた髪の毛入りの御守りを、彼に直接握らせる。
その後は親族の方がお見舞いに来るまで病室の椅子に腰かけて、四百歳を越えた私にとっては孫も同然の彼の身の回りの世話を焼いてしまうのだった。
同じく昭和五十五年のことだが、原宿を中心にして竹の子族が大流行した。
独特な派手な衣装を着て、野外でディスコサウンドに合わせてステップダンスを踊る。そんな未来で言うところの、ヒップホップ系かラッパーの走りかも知れない。
だがまあ、こっちの日本では音楽は十分に発展しているので、ゲリラライブとダンサーが大流行している形になるのだろう。
噂では初期メンバーは三十人程度だったが、一年間でみるみる膨れ上がり、今では二千人以上になっているらしい。
しかし毎週日曜日になると、およそ十万人近くが原宿の歩行者天国に集まって、通常の利用者が身動きが取れなくなることが多々あった。
社会現象になれば当然のように私にも発言や質問が送られてくるわけで、稲荷大社の特設スタジオから電波に乗せて、いつものようにキレッキレの本音をぶっちゃける。
「まず第一に、人に迷惑をかけてはいけません」
好きなことをやるのは止めないが、大前提として人に迷惑をかけてはいけない。公共の場所で行うのなら、最低限のルールを守るべきだ。
それでもはっちゃけたくなる時はあるだろう。ならばライブ会場等の防音対策がしっかりした場所を借りて、存分に歌い騒げばいい。
「路上パフォーマンスをするのは構いません」
ゲリラライブは借り賃がかからないし人の目を引ける。それに少しぐらいならお目溢ししてもらえるだろう。
だがしかし、流石に十万人も一箇所に集まれば通行の妨げになってしまう。
「人に迷惑をかけ続ければ、社会はそれを排斥しようと動くでしょう。
なので規制される前に、最低限のルールを守って行動してください」
具体案は何もないが。ある程度分散化して節度を持ってゲリラライブを行い、土日でも人の通行が可能なまでに規模を小さくするようにと発言する。
例えば、原宿で路上パフォーマンスを行う人は予約制にすることや、竹の子族の人たちから年会費を取って、ライブ会場や各施設をお得に借りられるように店主と交渉する等、即興で考えた代案を適当に出す。
「後は竹の子族の方と相談してください」
現代は情報化社会なので、竹の子族の二千人とも繋がれる。
何だかんだで意見がまとまって、これだ! という案が出ることを期待しつつ、私は本日の生放送を終了するのだった。
同年の八月十九日、私は東京の街をぶらついていた。
お忍びで地元の野球の試合を観戦しに行くのではなく、スポーツにはあまり興味がないので、いつも通りのグルメ巡りであった。
さらに言えば色気より食い気の色々と残念な狐っ娘だが、四百年以上も前からこうだったので今さらだ。
それに服や装飾品に目移りして高級品ばかりを強請る最高統治者より、根っからの庶民派でB級グルメが大好物な狐っ娘のほうが、日本国民もほんわかして精神衛生上大変良かった。
一方私はその気になれば無限に食べられるとは言え、一応幼女体型で満腹感は感じる。
なので少し味見しては、近衛とお世話係に下げ渡している。
ちなみに彼らに不満はないのかと言うと、たとえ少量でも私が満面の笑みで美味しそうに食べている様子を見て、微笑ましく眺めたり感涙にむせび泣いたりしていた。
何だか能力は高いのに色々と残念な近衛とお世話係であるが、ペロリストとしては一般的なことなので、気にすることなくスルーする。
そして追加でかき揚げとイカ天の食券を購入し、少し高い注文カウンターによいしょっと乗せて、店員のおばちゃんがメニュー名を繰り返す声を間近で聞くのだった。
そんな気ままな食べ歩きツアーをしていたら、いつの間にか時刻は夜の二十一時を過ぎていた。
周囲をキョロキョロと見回ると、新宿駅に西口前と書かれた立て札が目に入る。
何処もかしこも昼間のように明るく照らされ、人通りで混み合っている。そのおかげか。変装した私と近衛とお世話係は、割と目立たずに溶け込めるのは幸いだ。
「ここならバスと電車を使えますし、そろそろ帰りましょうか」
「了解です。では、どちらを利用されますか?」
電車に乗ろうとしたら事故に巻き込まれた経験が思い浮かぶ。
しかしアレ以降もたびたび外出してもいるが、今のところは事故は起きていない。
なので全く気にしていないのだが、今自分の目の前にはバスの停留所がある。
色々考えた結果、移動距離が短いそちらを使って帰ることに悩むことなくあっさりと決めた。
「何か匂いますね」
私の何気ない呟きに近衛が反応し、たちまち真面目な表情に変わる。
そして、こちらに顔を近づけて小声で質問してくる。
「また火事でしょうか?」
周囲には夜にも関わらず大勢の人が行き交っているので、迂闊な発言で混乱を広めるわけにはいかない。
「いえ、これはガソリンの匂い?」
元々私は長考するタイプではなく、場当たり的に迷うことなく突き進んでいく。
つまり、何かおかしいぞと感じたら、その原因を目指して真っ直ぐに歩いて行くのだ。
どこかの子供名探偵のように証拠を探して推理で解決に導くのでなく、お前が犯人だろと殆ど直感だけ言い当てるのであった。
近衛とお世話係も外部と連絡を取りながら、付かず離れずで邪魔にならない距離を保って私に付いて来る。
一方私は、鋭い嗅覚を頼りに新宿西口バスターミナルを歩くこと数分。臭いの元である挙動不審な人物を見つけた。
そこまでは良かったが、そんな中年男性は後部のドアからバスの車内に入り、火のついた新聞紙とガソリンの入ったバケツを、ほぼ同時に投げ込んだ所だった。
何という運命の悪戯か。私たちはその瞬間に立ち会ってしまったのだ。
「不味いっ! 狐火よ! 燃え盛る炎を喰らいなさい!」
力の方向性を明確に定めるべく、心の中で適当に念じるのではなくわざわざはっきりと口に出す。人前ではかなり恥ずかしい台詞だが、四の五の言っていられない。
中年男性から、一拍遅れで狐火を解き放ったのだ。
最初は男の目論見通りに、投げ込んだガソリンに火がつき、バスの車内に瞬時に燃え広がった。
しかしそこに遅れて飛んできた青白い炎が、まるで意思を持っているかのように動いて、燃え盛る炎を欠片も残らず喰らっていく。
人体やバスそのものに触れても決して傷つけることなく、私の命令に忠実に従い、炎だけを綺麗に消していったのだ。
結果、時間にして僅か数分足らずで、バスの車内は完全に鎮火されることになる。
「はぁ、何とかなって良かったです」
しかしガソリンを浴びたり、短時間とはいえ高温の炎に焼かれた人も居る。
何よりいくら対象を絞ったからとはいえ、私の狐火に全身を包まれた人が数名出てしまった。
後々どんな異常がでるかわかったものではない。
「乗客と乗員を病院に。そして犯人の確保をお願いします」
「はっ! そちらは既に手配済みで、犯人も確保致しました!」
犬も歩けば棒に当たる的に、私が外出すれば一定確率でトラブルが発生するので、近衛やお世話係もすっかり慣れたものであった。
ガソリンで放火しようとした犯人は、私の正体に気づいて茫然自失状態のようで、暴れることなく近衛に押さえ込まれている。
取りあえずは警察が来るまでは、そのまま拘束しておいたほうが良さそうだ。
「対応が早いですね」
「お褒めに預かり恐悦至極でございます!」
こんな事もあろうかと、日頃から訓練を欠かさなかったに違いない。今の受け答えも自然に出てきたようで、褒められた近衛は物凄く嬉しそうにしている。
私も昔は学校をテロリストに占領された時の対応とか、そんな妄想をしていたことを思い出す。
「さて、あとは現場の仕事ですね」
私は完全に押さえ込まれて身動き一つ出来ない犯人のすぐ目の前まで近づいて、少しでも目線を合わせるために、そっとしゃがみ込む。
「放火を行った貴方は逮捕され、裁判にかけられるでしょう」
何となく生きる気力が感じられない犯人だが、私の声は聞こえているようで微かにビクリと震える。
「ですが、たとえ刑務所に入れられることになろうと、死を選ぶのは許しません」
自暴自棄になった人は、犯罪を犯すのも自殺するのも全く躊躇うことなく実行に移すと、漫画や小説に書かれていた。
せっかく犠牲者ゼロで事件が解決したのに、彼に死なれては私の目覚めが悪くなる。
「どれだけ苦しくても、生きて罪を償いなさい。
私が助けた者の中には、貴方も含まれているのですから」
言いたいことは全て口に出したので、ヨイショっと立ち上がると、ちょうど警察や救急隊員が到着した所だった。
こうなると本当にあとは現場任せで、私たちはお役御免になる。
しかしあいにく、今の新宿駅は大勢の野次馬が集まってきており、酷くごった返していた。
自分の正体がバレて目立ちまくるだけでなく、下手したらバスも電車もまともに運行できない有様だ。
ようやく家に帰ろうと立ち上がった私は、新たな悩みに頭を抱えるのだった。
後で知ったのだが、犯人は色々と複雑な事情を抱えていた。
それに伴い精神病を患っており、今回息子と同い年の子供を私が止めなければ殺してしまうところだった。
つまりは罪の意識に苛まれて、懲役中に刑務所で自殺してしまったかも知れないのだ。
生死に関する考えは人それぞれだが、私が介入することで全員が助かった。
犯人が誰も殺していないのならば、罪を償ったあとは真っ当な人生を歩んで欲しい。
なお、私の発言と事件を元にした手記を、今回の被害者が書き上げた。
これが映画にもなって空前の大ヒットととなるわけだが、それは別の話であり、新宿西口バス放火事件は、こうして幕を閉じたのであった。




