オイルショック
昭和四十七年の五月十三日に発生した千日デパート火災は、迅速な消火と救助が功を奏した。
それでも怪我人は大勢出たし、酷い火傷で体の一部が欠損したり、意識が殆ど戻らない人やこの後の厳しいリハビリ等の課題が山積みだ。
だがしかし、奇跡的に死者がゼロに抑えられたのは幸いであると言える。
ただまあ火元の原因となったと思われる、電気工事業者とデパートの防火管理をしていた者には、相応の責任を追求されることになった。
当然、大本営発表でも千日デパート火災についての質問が寄せられたので、私はキレッキレの本音トークを披露した。
「防火扉やシャッターの近くには、物を置いてはいけません。炎の中で荷物を退かしてから、手動で閉めるのは本当に苦労しました」
実体験を交えて、そうはっきりと公言したのだった。
その後のことになるが、最初からうちの一部である沖縄がアメリカから返還されることもなく、時は流れていった。
そして、日本列島改造論を公約とした田中さんが見事選挙で勝利して、内閣総理大臣となった。
内容としては、工業再配置と交通、情報通信の全国的ネットワークの形成をテコにして、人とカネと物の流れを巨大都市から地方に逆流させる。
つまり、地方分散を推進することらしい。
何だかんだで未来の日本でも同じようなことを聞いた気がするが、都市が栄えて地方が廃れる構図は崩せていない。
なので田中総理には、ぜひとも頑張ってもらいたい。
ついでに稲荷大社の謁見の間でのんびり雑談していた時に、田中総理は真面目な顔になるだけでなく、姿勢を正してこんなことを言い出した。
「稲荷神様が定期的に各都道府県をお住まいを変えられれば地域分散も解決するので、一考していただけませんか?」
冗談ではなく本気であり、理屈としては納得できた。
日本の象徴である私の周りには人や物が集まる。定期的に引っ越せば、長年の難題があっさり解決するのは道理である。
それこそ深夜のテレビショッピングのように、コスト的に考えても安くて手間いらずでお得に思える。
しかし、我が家とワンコたちに愛着があるので、別の場所に移るなど考えたくない。
私が断ろうと口を開く前に田中総理は、ただの冗談ですよと、苦笑を浮かべて先程の発言をあっさり否定した。
もしかして耳や尻尾が感情に引きずられてへたり込んでいたのだろうか。
だがまあせっかく流してくれたのに、わざわざ蒸し返すのも悪い。
なので私は、そうですかと会話を終えて、その日の雑談をお開きにしたのだった。
同じく昭和四十七年に、日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明が発表された。
詳細を説明すると長くなるので、簡潔にわかりやすくまとめると、互いの線引きをきっちりして、末永く仲良くしましょうである。
ソビエト連邦に赤く塗られて日本とは敵国になっていた大国だ。仲直りするにはそれなりの時間が経った今が、良い頃合いかも知れない。
今後の交渉で平和条約を調印する流れに持っていくのだろうが、連合国の抜き打ち検査が良く入るので、もし変なこと組み込めばお叱りを受けるのは確実だ。
だがまあ、この後の調印が上手く行っても決まりを守るかは別問題だ。
未来の日本は条約を破られて苦労していたが、こっちはどうなることやらと溜息を吐きながら、IHKニュースを眺めて塩せんべいをバリバリ齧るのだった。
昭和四十八年に入って、中東戦争が激化してた。
向こうの国ではアラブとユダヤが対立したり、それを巡ってパレスチナが分割されたりして、民族問題がこじれて武力衝突に発展することが、たびたび起きていた。
その際に日本が仲介に入り、何とかなだめすかして大人しくさせてきたが、とうとう第四次中東戦争が勃発してしまう。
よくもまあここまでこじらせたものだと、うちの外交官が謁見の間で大きな溜息を吐いていたので、しっかり記憶に残っている。
だがしかし、もし私が異民族に奪われでもしたら、それを取り返すために日本国民が一斉蜂起するのは想像に難しくない。
結局うちも他人事じゃないなーと、何となく怖くなってブルルっと体を震わせるのだった。
同年に紛争の激化が引き金になって、オイルショックが起こった。
原油の供給量と価格が酷いことになって、世界経済が大混乱に陥ったのだ。
なお日本はオーストラリアから購入したり、自国の領海内で油田を掘っているので、そこまで大きな影響は受けていない。
トイレットペーパーや洗剤が買い占められることもなく、平和に時間が流れていった。
そもそも日本では石油燃料はもう古いとばかりに、自然環境を利用した発電所や電気自動車等が大活躍している。
まだ昭和の時代なのに、一般家庭ではオール電化が当たり前になりつつあるのだ。
ただし、石油が全く要らない言うわけではなく、一部の業種はどうしても必要になるし、プラスチック製品がないと困る。
なので、買い占めや転売は絶対しないようにと、大本営発表で一言釘を差しておいたのだった。
その後の昭和四十八年だが、国交断絶状態である半島の政府関係者が日本国内で隣の大国に拉致される事件が起こることもなく、とても平和であった。
さらに、私が火災予防について念押ししたからか、年末の忙しい時期に熊本県の大洋デパートで火災が発生したものの、防火シャッターの下に座布団が高く積まれることもなく、見事封じ込めに成功する。
そのおかげで三階の寝具売り場にすぐ燃え移る心配もなくなり、工事中でスプリンクラー設備等が作動しなくても客や従業員が避難したり、消防隊が到着するまでの時間を稼ぐことができた。
それでも大きな火災で負傷者は出てしまったが、被害を抑えられた。
あとは私が熊本までひとっ飛びして、活躍した消防隊員を表彰するという一コマがあったが、そちらはいつものことなので、もはや慣れたものなのであった。




