三里塚闘争
同じく昭和四十一年のとある日、私は成田空港へとやって来た。
そこで国内国外のお客さんを相手に、客室乗務員の服を着たキャンペーンガールよろしく、ニッコリ笑顔で対応する。
適当に愛想を振りまきながら、思えば成田空港を巡って色々あったなあと、過去に思いを馳せる。
実際にそれがどのぐらい前のことかははっきり覚えていないが、千葉県成田市の農村地区である三里塚とその近辺で、大規模な闘争が起こったのは確かだ。
現在は無事解決したが、当時は三里塚闘争と呼ばれていた。
問題となったのは、空港用地内外の民有地取得と騒音問題である。
空港建設に反発する地元住民らは、革新政党指導の下で結束した。さらに三里塚芝山連合空港反対同盟を結び、大規模な反対運動に発展してしまう。
日本政府が開港を急いでいたこともあったが、機動隊を投入させる動きを見せたことで、反対派も徹底抗戦の構えを取って新左翼党派と合同した。
その結果ただでさえ緊迫状態だった闘争は、さらに過激化することになる。
そしてこのままでは双方に大勢の犠牲者がでてしまう。そう危機感を強めた日本政府は、最後の手段を使うことに決めた。
東京の稲荷大社に、困った時の神頼みをしたのだ。
平穏な暮らしをこよなく愛する私に面倒を押し付ける行為に、思わず苦虫を噛み潰したような顔になる。
それでも放置すれば余計に厄介なことになるのは十分にわかっているので、重い腰を上げることに躊躇いはなかった。
だがしかし、そのためにある条件を日本政府に要求したのだった。
内容をまとめると、本宮の謁見の間に反対派の代表、日本政府からも成田空港の案件を任された者を呼ぶこと。稲荷神の判決を受け入れること。である。
何故そんな条件を出したのかと言うと、どちらの主張も正当性があったからだ。
ならば当事者ではない第三者視点を持つ日本の最高統治者がバッサリと判決を出して、双方にこれ以上喧嘩をするなと言い含めるしかない。
なお、私は関わらずに現場にお任せしますと丸投げする手もあるが、闘争が過激化している現状で放置するのは得策ではない。
なので本当に嫌々だが、渋々重い腰を上げざるを得なかったのであった。
そして迎えた判決の日だが、様々な資料を読んだり専門家にアドバイスを聞いたりしながら、久しぶりに知恵熱が出そうなほどに悩みに悩んだ。
それでも何とか結論を出したので、事前準備はバッチリと言えよう。
ちなみに場所はいつものように東京稲荷大社の謁見の間だが、反対派と日本政府の双方は代表だけでなく、ギャラリーか部下かわからない人たちを大勢連れてきていた。
それでも発言権はないので、代表二名を除いて居るだけである。
ついでにIHKのテレビカメラで生中継されているが、そっちは予想していた。
恨みっこなしの最終判決なので、証拠映像と目撃者は多いほうが良いだろう。
このように色々な思惑が渦巻いてはいるものの、神皇である私が司会進行役と最終決定権を持っている。
つまり、反対派や日本政府が何を言おうと、私が白と言えば黒でも白になるのだ。
このような事情を頭の中で整理しながら、双方の代表に視線を向けるが、相変わらず険悪で空気が重い。
取りあえずさっさと判決を伝えて家に帰ってゆっくりしようと、一段高い畳の上を陣取った私は咳払いをする。
そして真面目な表情を維持しつつ、堂々と声を出す。
「双方の言い分は事前に聞かせてもらいました。それを良く吟味したうえで、判決を申し渡します。
成田空港は開港すべきです」
まさに天国と地獄であり、反対派は肩を落としてうなだれ、日本政府側はどうだと言わんばかりに鼻息荒く胸を張る。
「流石は稲荷様! 良い判決でございます!」
「そっそんな! 稲荷様! どうかお慈悲を!」
だがまだ、私は最後まで発言していない。
なので双方の口出しを無視して、相変わらずのキレッキレの本音トークを、謁見の間に集まった者たちに真正面からぶつける。
「私は地域住民の意向を無視してまで、成田空港の開港を強行しろとは言っていません」
まだ機動隊こそ投入していないが、近々鎮圧に乗り出すと噂にはなっている。
そのせいで反対派も徹底抗戦の構えを取らざるを得なくなってしまったのだ。火に油を注ぐとはこのことだろう。
そして私の判決を聞いた政府関係者だが、今度は皆揃って青い顔になり、項垂れていた反対派はたちまち息を吹き返す。
「反対派の皆さんもです。日本政府に無理難題を出すのは止めなさい」
土地の値段を釣り上げたり、どう考えても実現不可能な要求を突きつけたりと、最初から立ち退くつもりがないのだから断固拒否は当たり前かも知れないが、結局開港を急ぎすぎた結果なのだ。
そして兎にも角にも事前に集めた資料を読む限り、ここまで悪化したのは互いのすれ違いも大きな要因になっていることがわかる。
だが原因がわかったことで、交渉役に不向きな自分にできることなど、たかが知れている。
「しかし、立ち退きに応じて見知らぬ地で暮らすのは、さぞ心細いことでしょう」
そう言って私は、装飾の施された分厚い座布団からスクっと立ち上がる。
そのまま自分の狐色の後ろ髪の束を無造作に左手で掴んで、前方の皆の目に見える位置に持ってくる。
流れるように右手の指を揃えて手刀のように構えたところで、これから何をするのか気づいたようで、周りが止めようと動き出すより一瞬早く、私は力を込めて右の手刀を勢い良く振り下ろしたのだった。
切ったのは自分の狐色の髪だ。
昭和三十七年の荒川区の外出の時にも実行しようと思ったが、近衛やお世話係に止められた。
なので今回は周囲が動く前に、バッサリ切り落としたのだ。
「見知らぬ土地でも、心安らかに暮らせるように願いを込めました。
私の髪入りの御守を立ち退く者に贈りましょう」
言いたいことを全て言い終わった私は、近くに控えていた顔面蒼白のお世話係に、切断して束になった狐色の髪を渡して、謁見の間から速やかに退室していった。
本宮の廊下を歩く私は、これからのことについて考えていた。
反対派の人たちには稲荷神(偽)の髪をあげたので、何とか溜飲を下げて引き下がってもらいたいところだ。
だがしかし、実際に御利益があるかは不明である。
ただ一つ確かのは、あの髪の毛は私以外には破壊することは不可能で、どれだけ時が流れても自分と同じで永遠に残り続けると言うことだ。
(それと、もし伸びなかったらその時はその時かな)
元々女性の身だしなみは何処吹く風なので、最低限整えるだけで済ませてきた。
これまで肉体が一切成長しなかったことから、髪も伸びない可能性も高い。けれど細かいことは気にせずに、引きずらないのが私である。
むしろ短いほうが毎日の洗髪が楽になるから良いことじゃね? と、そんな前向きな思考に切り替えて、足取り軽く我が家に帰っていく。
ちなみに稲荷神は汚れないし洗髪剤を弾くので、せっせと洗っても無駄である。
それでも人間だった頃からの習慣なので、毎日やらないと落ち着かないのであった。
稲荷神の尊い犠牲により、政府関係者と反対派は無事に和解して、成田空港の開港に向けて動き始めた。
ちなみにバッサリ切った髪だが、一晩寝たら元の長さまで綺麗に生え揃っていた。
つくづく狐っ娘の体は謎であり、まるで形状記憶合金のようにすぐに元の姿に戻るようだ。
ただ、御守りは最初は受け取ってもらえなかった。
稲荷神様の髪をいただくのは、あまりにも恐れ多いらしい。
「そうですか。無理やり押しつけるわけにもいきませんし、仕方ありませんね。
私の髪は全て焼却処分としましょうか」
強引に酒を飲ませようとする上司のような言葉を発したことで、反対派は皆涙ながらに感謝することになった。
そういった一連のやり取りを得て、ようやく御守りを受け取ってもらえたのだった。
後日談となるが、三里塚闘争がキッカケとなり、政府が土地を買い上げる等で退去をお願いする時には、稲荷様の御守りを手渡して新天地での無事を願う慣習が生まれた。
その原材料についてだが、一日経てば勝手に生え揃っている私の髪だ。
しかし何故か最初にバッサリ切り落とした物を、さらに手刀でみじん切りにするように頼まれた。
別にそれぐらいなら構わないので承諾したが、最終的に小指の爪の先ほどの長さの狐髪になり、終わってみれば何というかセコい気がした。
だがその際に日本政府と稲荷大社の関係者は、この世に二つとない御守りであると、大変ありがたがっていた。
作成の手順も、細かくみじん切りにした髪を一本ずつ丁寧にすくい、格式高い稲荷大社の本宮で神職が揃って祈りを捧げてから、厄除けの札を書き込んだりと、一般の御守りよりも明らかに手間と時間がかかっている。
それでも土地を買い取った者には問題なく行き届いたため、政府と反対派の衝突は辛うじて回避できたのだった。
ただまあ、過去に日本政府に土地を買い取られた人たちも便乗して、髪の毛入りの御守りを欲しがったのは困った。
不平等を飲み込むのは大変だし、一概に税金の無駄とは思わない。
だがそうすると、今度は何処まで遡るかが問題となり、必要な予算が雪だるま式に増えていく。
百年、二百年も前になると、ぶっちゃけやってられるかという気持ちのほうが強くなってしまう。
なので私は、またもや仕方なく重い腰を上げた。
空港やダム、発電所等での買い取り、またはやむを得ない事情で他所に移らざるを得なかった人々を、東京の稲荷大社に来るようにと広く呼びかけたのだ。
日取りは晴天吉日を選び、服はいつもの巫女服だがお祓い棒を手に持っている。
そして、稲荷大社の境内に集まった大勢の民衆の前で、数段高い舞台に上がる。
子供サイズに調整したマイクの前に立ち、お世話係に用意してもらったカンニングペーパーをチラチラと見て、逐一台詞を確認する。
深呼吸で緊張を解き、榊の枝に紙垂(紙を折り垂らしたもの)と麻の緒をつけたお祓い棒を、恭しく右へ左へと振って場を清める。
ついでに熱くない青白い火の粉を風に舞う雪に見立てて、お祓い棒を振るたびに景気よく飛ばして、集まった民衆を盛り上げる。
だがまあ、これはただの演出なので、実際に穢れを吸い取ったりはできない。
それでも私自ら骨を折ったかいはあり、日本政府と地域住民の確執も、これにて一件落着となった。
集まった大勢の民衆から感謝をされて祭事を最後まで終えた私は、心の中で取りあえず何とかなって良かったと無邪気に喜ぶのだった。




