海洋境界線
昭和二十七年になって、隣の半島が何やら騒がしくなった。
思えば昭和二十四年に対馬を返還するように要求してきたのだが、今年になってそれは序章に過ぎなかったのだと思い知らされた。
具体的な説明に移るが、彼の国はイギリスの統治によって民主制に移行し、その初代大統領が、李承晩ラインを制定したのだ。
ようは半島と周辺国との間の水域区分であり、もっとぶっちゃけたことを言うと、資源と主権の保護のための海洋境界線を、あちらさんが勝手に定めたのである。
ちなみに李承晩ラインについて主張し始めたのは、昭和二十七年の一月十八日からであった。
だが、半島のバトルフェイズはそれだけでは、まだ終わらなかった。
同年二月八日に、李承晩政府は境界線を設定した主目的について発表。
李承晩ラインは、両国間の平和維持のためである。そう堂々と言い放ったのであった。
日本政府関係者から電話で報告を受けた私としては、ただただ言葉もなく、ポカーンと呆ける他なかった。
それでも一分かけて何とか再起動を果たして、稲荷大社の謁見の間にわざわざ出向いた。
別に緊急招集ではないが真相が気になったので事情に詳しそうな人たちを呼んだのだが、十分足らずで大勢の人たちが集まってくれた。
私は取りあえずいつもの定位置である一段高い畳の上に座り、お茶請けのお菓子に手を伸ばしながら、一体どういうことなのかと、自分よりも頭の良さそうな各々に尋ねる。
すると、両国間の平和維持は建前であり、戦後処理のどさくさに紛れて広大な水域への漁業管轄権を確保したいという、ある意味予想通りで身も蓋もない思惑があっさり判明した。
だがしかし、ライン内には日本国の領土である竹島が含まれていることも教えてくれた。
それを聞いて、未来にたびたび話題に上がっては炎上している竹島問題は、これが原点なのか。…と、別に知りたくもないドロドロとした歴史の裏側を知ってしまったのだった。
なお、日本としてはそんな矛盾しかない破綻した主張を認めるなど、もっての外である。
私は速やかに傍に控えているお世話係を呼び、紙と筆を用意してもらう。
そして稲荷大社の謁見の間で、イギリス王室にいつものお手紙をサラサラと認めたのであった。
しかし、空輸便に乗ったお手紙がイギリスに届く前に、李承晩ラインは認めることができないと、世界各国からの厳しい通告が半島に届いた。
私としては突然の大ブーイングに驚いたものの、何が何だか知らないが友情のパワーの勝利だと確信して一安心である。
だがそうは問屋が卸さず、あろうことか半島はこれを完全に無視した。
向こう側の主張としては、我が国の起源に遡れば、李承晩ラインが国際的に正しいのは明らかだ。
そう言ってへんてこな壁画を開示し、世界各国の反対意見を思わせぶりな説明で煙に巻いたのであった。
私としては、これで素直に引き下がるぐらいの可愛げがあれば、未来での関係はこじれてないしなぁ…と、もう好きにせいやと若干諦め顔になってしまう。
しかし完全に匙を投げれば向こうのゴネ得により、日本の海洋境界線が奪われるのは火を見るよりも明らかだ。
ならばプランBに移るのみである。
実際に統治しているイギリスを通して聞き分けのない子供を諭すように、根気強く説得を続けてもらうのだ。
そんな感じでどうにかこうにか長期戦の構えを取ることで、一応の決着はついたのだった。
半島問題は何処吹く風で昭和二十八年になり、テレビ放送が新たな盛り上がりを見せていた。
地デジ狐という可愛らしいマスコットキャラが、全国のお茶の間にお披露目されたのである。
簡単に説明すると、地上デジタルテレビ放送への完全移行を推進するための、キャンペーン用のマスコットキャラクターだ。
私としては、そこは地デジカではないのか? …と大いに疑問に思った。
しかしうちの国は狐関連のキャラやグッズで溢れているし、そもそも一国の代表が狐っ娘なので、シカはたくさん居ても、奈良京都の修学旅行で学生が煎餅を上げるぐらいしか見せ場がなかった。
だがそれでも、未来の日本で見た地デジカは、強く印象に残ったのだ。
日本で一番早くデジタル化された我が家の薄型テレビをぼんやりと眺めていた私は、子供の頃の思い出を追体験できない寂しさを感じて、こっちの日本で消えていったキャラクターたちを、せめてノートの中に記憶しておこうと、せっせと描き加えていくのだった。
なお後日、私が未来の記憶を頼りにノートに描いた地デジカをお世話係が発見し、何の因果か手塚さんに見せることになった。
だが実際はその前に、デビューしたての水木さんが閲覧する機会があり、一目見て即ビビッときたらしく、地デジカを漫画のキャラ案として採用することになった。
何でも今連載している作品の登場人物にピッタリだと思ったらしい。
私としては地デジカがまた見られるのはいいが、妖怪としての採用だったので何となく複雑だ。
さらに別ページに描いたセント君とコンビを組むと聞いて、確かに見た目は近いものはあるけど実際には全然違うと内心否定する。
ちなみにヒロインが猫姉さんなのは変わっていないが、恋のライバルとして狐娘が生えたことで、この先の展開はとても気になるが一抹の不安を感じるのだった。
同じく昭和二十八年のことだが、その四月に竹島が占領されてしまう。
独島義勇守備隊と名乗る民兵組織を半島が派遣し、常駐させることで実効支配を始めたのだ。
私は居間のテレビに映るニュース速報を眺めながら、たけのこの里をポリポリと齧り、相変わらずあちらさんは元気だなー…と、大きな溜息を吐いた。
あそこは人が住むのには不便なので、日本人は誰も居なかった。なので施政区域から除外はしているのだが、領土権を放棄したつもりは一切ない。
ちなみに日米英独豪安全保障条約にも、竹島は日本の海洋境界線に入っていることはバッチリ記載されている。
「海洋資源が欲しい気持ちはわかるけど。日本の漁船を鹵獲するのは明らかにやり過ぎでしょ…」
実は今回の竹島占領が起こる前に、李承晩ラインを越えたうちの漁船を鹵獲して、船員も拘束するという痛ましい事件が起きていた。
だがまあそちらは詳しい説明は一旦置いておくとして、日本政府は速やかに遺憾砲を送った。
しかしどうやら、向こうの主張としては全ての非は日本にあるらしく、暖簾に腕押し糠に釘であった。
それでも鹵獲された船と乗員が無事に戻ってきただけでも、まあ良かったのだろう。
「半島には何を言っても無駄だからイギリスに抗議してるけど。
上から押さえつければ言うことを聞いて、一旦は引き下がるんだよね」
聞くだけは聞いてくれるので未来よりマシかも知れないが、結局反省しないのだ。
なので、喉元過ぎれば熱さを忘れて、時が経てば再び活発に動き出す。
「でもまあ、半島を実際に統治してるのはイギリスだし。
隣国でも国交断絶状態の日本があまり口出しするのは不味いよね」
取りあえずの方針が決まったことで、王室にお手紙を認めるために、居間のタンスの引き出しを開けて、紙と筆を用意する。
正直ここ最近はイギリス王室にお手紙を送る回数が増えている気がするが、表舞台で稲荷神(偽)として動くより手間がかからないので、まだマシな方だと思うのだった。
なおその後の話になるが、半島はイギリスの圧力が効いたのか、独島義勇守備隊は竹島からあっさり撤退した。
しかし万能壁画を証拠として上げて、我が国の領土なのは一目瞭然だと言ったへんてこな主張は、決して変わることはなかったのであった。
ここで時間を少し巻き戻して、半島に拉致された船員について触れようと思う。
まず、ことの始まりは半島の初代大統領が李承晩ラインを発表したことだ。
もしこの主張が通れば、日本の領海が大幅に削られるのは間違いない。
半島は鬼の形相で叫んでいるが、世界の何処も認めていないので独り相撲なのは明らかである。
当然うちもそう思っていたので、一応気をつけるようにと伝えてはいたものの、結局のところは誰彼構わずにいつも通りに漁業を行っていた。
だがあろうことか、向こうが勝手に設定した李承晩ラインを越えたというありもしない容疑をかけて、第一大邦丸と第二大邦丸を鹵獲し、さらに乗員までもを拉致してしまう。
なお、日本に帰国した彼らから事情聴取したところ、半島の海軍は日本船を鹵獲するために、平気で自動小銃をぶっ放してくるぐらいヤバい奴らだと判明した。
その場は下手に抵抗せずに素直に捕まる判断をしたのは、まさに英断であった。
それにイギリスにバレた後のことを恐れたのか、人を避けてすぐ近くの水面に向けて発砲してくれたのも、幸運であった。下手に船体を狙ったら、照準がブレて人体に当たって死傷者がでてもおかしくなかった。
驚いて転倒しただけの怪我で済んだのは、本当に運が良かったのである。
だがしかし、どれだけ不幸中の幸いと言えど、彼らが辛い境遇なのは明らかだ。
半島まで強制的に拉致された第一大邦丸と第二大邦丸の乗員一同は、裁判や取り調べもろくにされず、全員が警察署の前の防空団詰所に監禁されることになったのだ。
詰所は約四畳の広さで、そこに十八人が無理やり押し込まれた。それでも不味くて量は少ないが、餓死しない程度の食料は支給されて、まだ良かったと思うべきだろうか。
イギリスが統治してなければ、捕らえられた日本人の扱いはもっと酷いはずだ。
私の予想としては、半島は食料を一切与えずに、事前に持ち込んだ船内備蓄で飢えを凌がなければならなくなったと思われる。
それはさて置き取り調べなのだが、警察は船員に対して領海侵犯をしたという嘘の調書を作成して、これに無理やり捺印させたうえに、日本への通知とした。
しかし、海図を出して調べるときに、丁字定規とたばこやマッチを使って適当に測り、何ともずさんな作成を行っていた。
そのため調書の矛盾によって、公海上の事件であった事がバレてしまう。
佐世保の護衛艦隊司令官が半島の初代大統領の李承晩に会見を求めて、これに対して李承晩は遺憾の意を表しながら、渋々といった感じで第一大邦丸の釈放に応じたのだった。
ちなみに、取り調べが終わったあとは、事態に気づいたイギリスが慌てて謝罪に訪れ、第一大邦丸と第二大邦丸をきちんと返却してくれた。
だが、積まれていた物資の殆どは行方知れずとなり、その辺りの補填は向こうの政府がしてくれたものの、結局最後まで半島は遺憾の意を表し続けて、非を認めなかったのであった。




