巫女見習い(下)
<巫女見習い>
東京の稲荷大社に務めて数日が過ぎて、多少なりとも仕事に慣れてきた今日のこの頃。
そろそろ近況を語ろうと思うが、巫女に関しては全国の神社仏閣と殆ど同じだ。
そして、職場の先輩たちは皆良い人で面倒見が良いので気分良く働けているし、稲荷様が直接選んだことから、尊敬はされても妬みや嫉妬の対象にはならないのもありがたい。
お世話係に負の感情をぶつけようものなら、神皇様の選抜が間違っていると異議を唱えるようなものだ。
なお稲荷様いわく、自分の選択全てが正しいわけではありません。…と公言しているが、残念ながら過去に一度も間違った判断を下していないため、いやいやそれはないと日本国民総ツッコミであった。
だが、稲荷様の指示通りに動いても失敗することはある。しかし、それは教えを活かせなかった者が未熟なせいだ。
これは日本以外の国に存在するブラック企業のような思考だが、試行錯誤を行って心身共に成長する機会に恵まれ、諦めなければ必ず成功に結びついた。
さらに、失敗から全く別の可能性を模索することで、稲荷様のフワッフワな教えに別の意味を持たせて、幅広い多様性も育っていくことになった。
なので、現代の日本は国民の自由意志が尊重される緩い統治を行っているのだった。
だがしかし、稲荷様が異変の前兆を感じ取ると、重い腰を上げて具体的な命令を発することで、迅速に解決していった。
昔は日本のことだけを考えていれば良かったが、国際交流が活発になった今では、世界情勢にまで手を広げなければ平穏な暮らしを守れない。
なので、結果的に稲荷様が重い腰を上げる頻度が明らかに増えているらしい。
そう考えると日本だけでなく世界中の人々も、本当に稲荷様に足を向けては寝られないかも…と、再確認するのだった。
話をお世話係の説明に戻すが、稲荷様に選ばれたからと胡座をかいて堕落や増長することは、神皇様の顔に泥を塗ることを意味する。
それに、自分の今の立場は日本の代表に近いため、自然と身も心も引き締まり、頑張ろうという気が湧いてくるものだ。
なお、今では世界の中心とも言える神皇様は、森の奥に籠もったまま滅多に姿を現さない。
しかし、ずっと出て来ないわけではなく、天気の良い日は一度は必ず外出するのだ。
それは俗に言う、早朝ジョギング…ではなく、強引に格式高くしたお清めの儀式である。
稲荷様は毎朝五時に起きて、大社の外周を駆け足ほどの速度で、休むことなく走り切る。
そして、終わったら境内のスタジオに入り番組を放送をした後、森の奥にお隠れになって、明日の朝までゆるりと過ごされるのだった。
なお私はと言うと、お清めの儀式を終えて稲荷大社の女子寮にフラフラになった状態で帰還し、休憩室に配置されたクッション性の椅子に倒れるように体を沈めて、荒い呼吸を繰り返していた。
ここには自分の他にも二十人ほどの巫女が思い思いにくつろいでいて、姿が見えないのはシャワータイムか自室に行った、もしくは日替わりの食事当番の者ぐらいだ。
「みっ…三日目だけど、やっぱり…辛い」
「わかるわ。アタシも最初はそう思ったもの。はい、シップ」
「あっ、ありがとうございます。先輩」
私より一年早くお世話係になり、自分の指導も任されている先輩が救急箱を持ってきてくれたので、その中からシップを取り出して使わせてもらう。
神社仏閣や教会といった各宗教施設の集合体に、広々とした森まで含めているため、現在の外周距離は20キロもある。
おまけに、稲荷様にとっては駆け足でも人間よりもかなり速いため、私は早々に距離を離されて脱落してしまった。
「誰もが通る道だし、山田さんもすぐに慣れるわ」
「…そうだといいけど」
徐々に呼吸が落ち着いてきたので、取りあえず汗だくになっている巫女服をはだける。
そして、パンパンに膨らんで筋肉疲労を感じる太股に、先輩から受け取ったシップを一枚ずつ丁寧に貼っていく。
先輩方は既にシャワーを浴びてさっぱりしたようだが、私の場合は外周をビリケツで走り切って、休憩室に辿り着いたところで気力が尽きてしまう。
呼吸を整えて再び動けるようになるのは、それなりの時間がかかるのだ。
「昔の稲荷大社が半分以下の広さだったって話、本当ですか?」
「らしいわね。四百年の間に何度も増改築されて、今の規模になったって話よ」
お清めの儀式の距離もそのたびに長くなっていったせいで、新人の私は先輩方についていけず、最初こそ駆け足だったが最後は殆ど歩く速度と変わらなくなり、しかも顔色は青く息も絶え絶えで汗だくのゴールであった。
なお先輩いわく、新人なら近衛もお世話係も誰もが通る道で、毎日走っていればそのうち慣れる。初回で最後まで走りきれただけマシ。…ということらしい。
「昔はお清め…」
「確かに、昔はお清めの儀式が早く終わっていたらしいわ。
でも、現代は道路整備が進んでお世話係も運動靴で走れるし、どっちもどっちじゃない?」
愚痴る前に先輩が答えたが、それを聞くと現在と過去とどちらがマシかは判断が難しくなる。
なお、稲荷様は四百年以上も巫女服と下駄のセットは変わっておらず、おまけに色褪せもすり減りもしないので、流石は神具だと納得する。
しかし実は他にも小さな不満があって、疲れているせいか、ついポロッと口から出てしまう。
「近衛は…」
「近衛は強化外骨格でズルをしてると思った? お清めの儀式は生身で完走する決まりなのよ。
万が一に備えて自衛隊に装備を預けて、周囲を見張らせてるけどね」
強化外骨格は人の動きを補助してくれる装備で、医療にも活用されている。しかし元々は、自衛隊の歩兵のために開発されたのである。
なお、近衛には最新版が支給されており、それを装着していると人間を超えた力が出せ、さらに激しく動いてもあまり疲れなくなる。
技術の発展で小型化が進み、得られる出力さえ気にしなければ服の下に着込んでも目立たなくなり、外周を一周するぐらい余裕だぜと、近衛の人たちが話しているのを聞いたのだ。
それでもしかしたらと思ったのだが、予想が外れてしまった。
「でもまあ、近衛の人たちも可哀想よね。人間離れした力が出せても、結局は足手まといなのは変わらないもの」
「あー…それは確かに」
稲荷様よりも弱いということは、守られる立場を意味する。
つまり近衛の存在意義は、四百年以上経っても一向に改善されていないのだ。
だがまあ、別に全く役に立たないわけではなく、稲荷様を守る必要がないだけで、邪魔な外敵の排除や、飛んでくる弾除けには大活躍間違いなしだ。
そして、月面工事用に強化外骨格の機能性を上げた搭乗型のコンバットフレームというものがある。
それを見た稲荷様いわく、モビルスーツの前身? いえ、これは戦術機のほうが近いですね。…と、満面の笑みで興奮気味に語っていたので、近衛の者たちも大喜びしたのは言うまでもない。
だが悲しいかな、近衛が稲荷様のお気に入りのコンバットフレームに搭乗し、八面六臂の大活躍をする機会など、そうそう巡ってくるものではない。
何故なら、外敵が稲荷様の喉元に刃を突きつける前に、諜報機関や自衛隊が残らず処理してしまうからだ。
神皇様のもっとも身近に控え、最新の兵装に見合うだけの厳しい訓練を受けながら、現実に彼女に褒められるのは表ではない裏方というのが、何とも哀愁を誘う。
「でも、それを言ったらアタシたちも同じなんだけどね」
「まあ確かに、稲荷様は何でも一人でやれちゃいますからね」
稲荷大社に到着した初日に、先輩に連れられて新任のお世話係として稲荷様のお住まいにお邪魔する機会を得られた。
聖域の森の奥はトップシークレットであり、彼女のプライベート情報は一般人には明らかにされていない。
「一人暮らしにはちょうど良い広さですけど、家事を頼まれても一日もかからず終わりそうですし…」
「「「わかる!」」」
いつの間にか他の先輩方も私の近くにやって来て、今の意見に同意とばかりにウンウンと頷いていた。
なお、そう思うのも当然であり、稲荷様のお住いは小ぢんまりとした平屋の一軒家だったのだ。
しかも田舎家屋とは違う、都会の一人暮らしのマンションに近い3LDKだ。
「直接見た感想ですが、自分の実家よりかなり小さかったです」
「それ、うちも感じたわ。しかも最初はもっと狭くて、大部屋と倉庫しかなかったと言うんだから驚きよね」
先輩方があれやこれやと喋り出したので、私をそれを聞いてフムフムと頷く。
稲荷様のお住まいはマンションの3LDKを平屋にしたような形をしており、一般家庭の住居よりもかなりコンパクトな設計である。
それに、家事や自炊には慣れているので自分で全部片付けてしまい、お世話係などそもそも必要ないという有様だ。
「そう言えば牛乳と新聞、それと各種お供え物を近衛と一緒に届けに行った時なんだけどさ」
先輩の一人が唐突に話題を変えたので、私はそれを興味津々という表情で耳を澄ませて聞いていた。
聖域の森には限られた者しか入れないので、稲荷様にお届け物がある時はお世話係と近衛が組み、さらに狼が周囲を警戒しながら道案内し、お住まいに向かうことになっている。
殆ど宅配便のお兄さんとお姉さんのような扱いだが、日常的に関わるのはお清めの儀式とスタジオ入り、あとは宅配サービスしかないのだから仕方ない。
稲荷様の平穏な暮らしを壊してまで、慣れない外に連れ出して付きっきりでお世話したいとは思ってはいけない。
…いや、おはようからおやすみなさいまで、二十四時間お側に控えたいと少しだけ思ってしまったので、先輩方と一緒に心の中でこっそり反省である。
それはともかく妄想ではなく現実に話を戻すが、先輩の一人が唐突に稲荷様の話題を出したが、そこに別の巫女がすかさず横槍を入れる。
「それって、あの近衛の子でしょ?」
「ばっ…馬鹿! 違うわよ! アイツのことなんて、別に何とも思って…!」
「へー…ふーん?」
先輩方がニヤニヤとした表情で一人の巫女を眺めているが、同期の近衛と組んで二人一組で動くことが多い仕事なので、必然的話題もそっち寄りになる。
互いに異性なのもあって仲良くなってそのままゴールインも、珍しくないと聞いた。
私はまだ務めて三日なので組んだ経験はないが、自分も同期と付き合ったりするのだろうか。
「そっ、そんなことより! いつもは宅配ボックスに入れて、そのまま帰るんだけどさ!」
稲荷様は平穏な暮らしを望んでいるので、必要ないのにこちらから声をかけてお心を煩わせてはいけない。
なので宅配はひっそりと行い、荷物を届けたら何も言わずにすぐに立ち去るのが暗黙のルールとなっていた。
「ところが偶然、庭の物干し竿に洗濯物を干されてる途中なようで! こっちに気づいて、わざわざ顔を見せに来てくれたのよ!」
「「「マジで!?」」」
普段は玄関とは逆位置の縁側で日向ぼっこか、家の中に籠もっているため、宅配ボックスの置かれた入り口まで姿を見せに来るのは、相当なレアイベントなのであった。
「いつもご苦労さま…って、直接お礼を言ってくれた!」
「「「凄く羨ましい!!!」」」
相手は四百年以上も最高統治者を続けている本物の神様で、そんな彼女から直接お礼を言われるとか、日本国民にとって光栄の極みである。
姿を見るのがレアイベントだとすれば、声をかけられてお礼を言われるのはスーパーレアだ。
ちなみにSSRは、賞味期限切れ間近の菓子類を皆で食べてくださいねと手渡されることで、URに至ってはゲームの協力プレイをお願いされたり、その他にも様々なイベントの存在が確認されている。
そんな先輩の体験話を聞き、自分も長く務めていれば稲荷様から声をかけられるのかも…と、私は期待に胸を膨らませるのだった。




