望まぬ退位
<稲荷様>
スサノオ様と天照大神様が高天ヶ原に帰って森の奥の我が家に戻ってきた私は、神皇を退位するかも知れません。…と、無駄にハイスペックのPCモニターに座布団に腰を下ろして向かい合い、そのような内容のメールを作成していた。
「現在精神的な疲労により、直接会って話せる状態ではありません。
ですので、誠に勝手ながら公務をしばらく休ませていただきます。稲荷神…送信っと」
たった今口に出したそのままの内容を打ち込み、プログラムに詳しい政府関係者がわざわざ作ってくれたアプリの一斉送信ボタンを押す。
あとはこれを知った関係各所の重役が部下に指示を出して、上手いことやってくれるのを願うばかりだ。
ちなみに、私が公務に復帰する日については未定で、確定してはいない。
「四百年以上住んだ我が家とも、これでお別れかな」
中身は人間なのに私は神様を騙って民衆を騙し、四百年以上日本の最高統治者をやってきた。
給料をもらわずにずっと無賃金で公務をしてきたが、物資を支給されたりお供え物をもらったりはしていた。
さらに小さな家付きで電気ガス水道もタダで使い放題なので、一般庶民より良い暮らしをしてきたと思う。
実際には何度も建て替えているので、住んだのは百年そこそこだろうが、立地は変わらないので今の場所には並々ならぬ愛着がある。
そして、縁側に座って流れる雲を見ていたり、庭でワンコと戯れたり、早朝のジョギングをしたり、最新の漫画やテレビゲームで遊んだり、気ままにネットサーフィンしたりと、娯楽といえばそのぐらいだった。
ついでに酒はたまにしか飲まないし、聖域の外にも行かずに引き篭もって自炊したりと、実のところはかなり質素な生活である。
そして、生活必需品も小さなマイホームに設置できる数は限られているので、送ってくれた人に許可を取って一年に一度の稲荷祭の賞品として出すか、森の奥の正倉院に保管している。
または賞味期限が切れそうな物は、知り合いにお裾分けしたりもする。
たとえ、公務がどれ程多忙でも、四百年間一度もお給料を要求したことはなかった。
何故ならお金をたくさん貰っても、これといった使い道が思い浮かばなかったからだ。
家に引き篭もっていれば、全国から毎日お供え物が届くので、わざわざ外で買わなくても大抵の物は手に入る。
しかも、その中から実際に活用しているのは1%にも満たない。そのため、残りは正倉院に保管されるか稲荷祭の賞品となるので、やはり一般市民より恵まれた生活をしているのは間違いないと、私は心の中でウンウンと頷く。
なお一般市民は聖域の森には立ち入ることが許されないし、本人の強い希望で稲荷神のプライベート情報は明かされていない。
それでも事情を知るごく一部の関係者は、まるで仙人のような生活ではなく、もっと良い暮らしをさせてあげたいと考えていた。
だが幸せそうな笑顔を浮かべる狐っ娘を見ると、幸せのカタチは人それぞれであると思い知らされ、結局何も言えずに引き下がることになるのだ。
代わりに、神様で偉いのに質素倹約に努めている稲荷様尊いと、関係者内ではまたもやワッショイワッショイされているのだが、知らぬは当人だけであった。
それはともかくとして、私はPCの前から立ち上がり、今まで一度も使わなかったリュックサックを収納ボックスから取り出して、家の中をウロウロと彷徨い歩く。
その際に、誰に話しかけるわけでもないが何となく独り言を口に出す。ワンコは私が元気がないことがわかるのか周りに集まっているが、これは彼らに話しかけたのではなく、自分の考えを整理するための呟きだ。
「家族も何匹か連れていきたいけど。こっちはもう少し後でもいいかな」
四百年の殆どを東京稲荷大社で過ごしたので、降り積もった思い出も膨大な量になる。
それらを一つずつ振り返りながら、新しい引越し先である天界に持っていく大切な物を、リュックサックの中に丁寧に入れていく。
「うぅ…私、他所に行きたくないよぉ。…この家を離れたくない」
イエス様とブッダ様は気のいい神なので、頼めば二つ返事で受け入れてくれるだろう。
しかしそこは日本の東京ではなく、全く別の世界だ。そして四百年以上過ごした我が家でもない。
もし自分を神であると受け入れられれば、人間などさっさと見限って、住処が変わっても何とも思わないだろう。
おまけに、相変わらず稲荷神になる前の記憶ははっきりくっきりと残っており、性格も昔から全く変わっていない。
これは日本神話の最高神様が何かしたのだと容易に予想ができるが、力に溺れて思うがままに贅沢三昧したり、スサノオ様のように人を殺すのに何も感じなくなったりするよりは、一庶民として他人に迷惑をかけずに平穏に暮らすほうが余程マシに思えた。
「あっ…でも、立川のアパートに匿ってもらえばそこまで離れなくて済むかも」
二神が地上に居る間の拠点に選んだのは、小ぢんまりとしたアパートの一室であった。
神様としてそれでいいのかとツッコミを入れたくなるが、向こうも私と同じで元は人間だったりするので、広々とし過ぎて生活するのに不便な神殿は、何となく居心地が悪いのだろう。
「うん、まあ言ってみただけ。どうせすぐバレるだろうし、…やっぱり天界に逃げるしかないよね」
確かに私は神皇をずっと退位したがっていたが、長年住み慣れた我が家を追い出されることは望んでいない。
それに、隠居ではなく故郷にさえ戻れなくなるのは、心が張り裂けそうなほどに辛くなってくる。
もう、ここには二度と帰って来られないのだと否が応でも察してしまい、悲しくて涙がボロボロと溢れてきた。
結局、その日は泣きながら引っ越しの荷物をまとめている間に、いつの間にやら夜になっていたので、続きは明日にしようと決めて、フラフラと起き上がって食事の準備をしたりお風呂に入ったりした後、布団に潜り込んでエグエグと嗚咽を漏らしたのだった。
次の日、いつもよりも遅くに目が覚めた私は、枕が涙で濡れていることに気づいた。なので本体を陰干しし、カバーを洗濯機に入れることに決めて、ゴソゴソと布団から起き出した。
しかしまあ、追い落とされるのが目前まで迫っていると言うのに、そんなの関係ねえとばかりにグッスリ熟睡できたので、相変わらず無駄に身体スペックが高い狐っ娘である。
とは言え、精神的に不安定なのと七時を過ぎていたので、早朝ジョギングは関係者に謝罪の連絡を入れて欠席にしてもらった。
それでもこれまで四百年にも及ぶ生活習慣からか、私は割烹着を身につけて台所に立って、朝食の準備をテキパキと行う。
そして大体三十分程度で、居間のちゃぶ台の上にはご飯と味噌汁、卵焼きと焼き鮭等の、これぞ日本の朝食が勢揃いする。
その後は座布団に座って手を合わせていただきますを行い、音声入力で立体テレビをつけて、チャンネルをIHK(稲荷放送協会)に合わせる。
「あー…やっぱり、昨日の件が朝のトップニュースになってるよ」
一度ぐっすりと眠ったことで精神的に多少は持ち直したが、はぁ…と定期的に重い溜息を吐くぐらいは沈んでいる。
それでも子供のように泣きじゃくることはないので、まだマシだと言える。
美麗な3Dとして映し出された女性アナウンサーが、真面目な表情で原稿を読み上げている。
ちなみに稲荷神の他には、月面ドームや宇宙コロニーが完成間近、さらに有人探査ロケットが火星着陸成功といった大ニュースがあったが、残念ながら今日は三面記事に格下げされたらしい。
珍しく寝過ごしたので、七ではなく八時のニュースを見ながら、茶碗によそった新潟産イナヒカリを箸で掴んで口の中に入れてモグモグする。
それにしても、いつまでここに住めるんだろう…と、咀嚼して粘りと甘みを感じながらも不安に襲われてしまう。
民衆を騙して稲荷神様のフリをすること、実に四百年以上なのだ。穏便には辞めさせてもらえないのは百も承知であり、下手をすれば裁判にかけられて終身刑までノンストップだ。
なお何故か私の脳内では、中世風の火炙りや磔獄門にかけられる狐っ娘が想像されていた。
そして私がガクブルしている間にもニュース番組は進んで行き、女性アナウンサーが原稿を読むのを一旦止めて、画像が東京の町中に切り替わる。
画面下のテロップには、神皇様が元人間だったことを知った国民の反応は? …と、記載されていた。
若い男性リポーターがマイクを片手に、今朝の東京で街頭インタビューを行った結果を、編集して流しているようだ。
ニュース七なら生中継が見られたかも知れなかったので、少しだけ残念に思った。
…とまあ、それはともかくとして、これから仕事に向かうらしい若いサラリーマンが、テレビカメラの前で足を止めて、興奮気味にインタビューに答えていた。
「稲荷様が元は人間だと知って、どのように思われましたか?」
「いやあ、アレにはびっくりしましたね」
ご飯を何度も噛んで飲み込んでいる私は、そりゃあ神様の正体が人間と聞けば驚くし、ガッカリするでしょ…と、この後は軽蔑やら失望やらが飛び交うんだろうなと、展開が容易に予想できてしまい気が重くなる。
「そのおかげで、より親しみが増しましたね」
「なるほど、インタビューに答えていただき、ありがとうございました」
それを見ていた私は、…は? である。
もっと他に言うべきことがあるのではないか。これまで四百年以上も日本国民を騙していたのだから、ここぞとばかりに恨み辛みをぶちまけるのが普通だろう。
そんな呆然とする狐っ娘を放置し、無慈悲にも次のインタビューに切り替わる。
「稲荷様は朝廷と違って、人間から神様になったんだから本当に凄い子よねえ!」
中年女性がインタビューに答えているが、私は自分が正真正銘の神様だと思ったことは一度もないとは、どうにも言い辛い雰囲気である。
だがまあ、その人は3D表示で近くに居るように見えても現実には遠く離れているので、顔を真赤にして居心地が悪そうにしている狐っ娘は見えていない。
その点に少しだけ救われて、私はとにかくニュースに集中しようと気を取り直す。
そしてニュース八の放送時間が限られているためか、街頭インタビューは次々と切り替わっていった。
「スサノオ様を前に一歩も怯まず! 儂らを守ると堂々と啖呵を切った稲荷様は、やはり神皇様として相応しいお方じゃ! 日本国民として誇らしい限りじゃ!」
お年寄りが血圧が上がりそうなほどに興奮し、カメラを前にツバを飛ばしながら大声で騒いでいた。
あれはその場の勢いであり、決して深い考えがあったわけではない。
しかも本気で怒ったらスサノオ様が泡を吹いて気絶したのだから、当人にとってはもはや困惑しかなかった。これまで平穏な暮らしを守るために行動するだけで、まともな戦闘にも恵まれず、神の力を制御する機会が皆無だったツケである。
なので、自分が膨大な神気に殺意を乗せて彼に放ったとは、全くこれっぽっちも自覚していなかった。
それ故に、スサノオ討伐という偉業を成した気になれず、私は自らの犯した失態ばかり目についてしまうのだ。
しかし日本国民を何としてでも守ろうとしたのは事実なので、顔を赤くした狐耳の生えたオットセイが朝ご飯を食べるのを中断し、アウアウと恥ずかしい鳴き声をあげる。
「神皇様が元人間? ふーん…で、それが何?
うちらが安心して毎日過ごせるように、四百年以上も小さな体を張って頑張ってるのよ?」
女子高生らしいグループが獰猛な笑みを浮かべて、テレビカメラの前で和やかに話している。
「稲荷様をこき下ろす輩を見つけたら、ぶん殴って即刻詫び入れさせてやるわ。
まっ、そんな奴はうちの国には居ないでしょうけど!」
女子高生グループが大笑いしているが、そこで語られる内容的は過激過ぎて朝の食卓に流すには向いていない。
おかげで思わずゴクンとご飯を飲み込み、つい口が出てしまった。
「そう言えば、表現の自由は私が公言して規制を緩くしてるんだった。
それにしても、稲荷神の信仰心高すぎない? まあIHKだし? 編集されてるし?」
IHKは稲荷神へのお布施や寄付金で運営されている。なので、私へのマイナスイメージは稲荷放送協会としては、何としても避けたいはずだ。
たとえマスメディアは公平性を謳っていても、自らの局を潰すような真似などできるはずがない。つまり流したら不味い箇所はバッサリカットしたに決まっている。
「だから、きっと他のテレビ局なら…」
私はチャンネルをあちこち変えると、どの局も稲荷神の正体が実は人間だった話題で持ちきりであった。
だが、その先は自分の予想と大きく外れており、スサノオ様を下げて稲荷神を上げるという結果に終始しているのだ。
試しに海外の番組に変えてみると、そこでも全く同じことが行われていた。ちなみに東アジアに関しては政府関係者が相当気を使ってくれたのか、私の家のテレビには映らないしネットも繋がらない設定になっている。
なのでもう、私としては泣いていいやら笑っていいやらで、大変複雑な心境であった。
そしてまさか、あちらさんお得意の日本こき下ろしが見たくなる時が来るとは思わなかった。
とまあ、そういった事情はさて置き、何処の番組も稲荷神へのワッショイワッショイしか流してないという結論に至り、荷物をまとめて住み慣れた我が家から出ていかなくて良くなったが、別の意味での絶望が心の中に広がっていき、自然とチベットスナギツネの表情に変わる。
今は背中から変な汗が止まることなく流れ出ており、味噌汁の味がよくわからなくなってしまったのだった。
やがて、これ以上ニュース番組を見ても神皇辞めろといったブーイングは一ミリも出てこなさそうだと判断し、私は3Dテレビを消して朝食を食べることに集中する。
「あー…焼き鮭のパリパリの皮。やっぱり好きかも」
何だかもう、昨日のスサノオ様の事件は気に病むだけ無駄だと実感し、私は現実逃避するために、わざとらしく朝ご飯美味しいと口に出して、余計なことを考えないようにするのだった。
その後、神皇退位の話が全く出なかったため、私は今まで通り日本の最高統治者を続けることになった。
しかし、変わったこともある。
ワンコの中にいつの間にか全身真っ白い狼が混ざり、その子はやけに賢く、あれよあれよという間に群れを率いるボスになった。
そして、甘えん坊なのか常に私にべったりくっついてきて、微かだが神気を感じた。
だが、言葉も喋らないし不思議な力も使わず、ただ私と一緒にのんびりと日々を過ごしているだけなので、疑問に思いながらもまあいいか。…と、家族の一員として受け入れることに決めたのだった。
さらに後日談だが、日本国民は私が元人間という事実に対して、戦国時代に何らかの理由で亡くなった童子を哀れと思った天之御中主神様が、稲荷神の加護を与えたと勘違いしていたことがわかった。
こちらに関しては、わざわざ自分から墓穴を掘ることもないので、余計なことは喋らずお口チャックで黙ったまま、それで合っていますとだけ呟き、コクリと深く頷いておく。
まあ、完全に間違っているわけではなく一部は正しいのだから、双方にとってこれでいいのだろう。
しかし、自分の本名が戦国時代でも珍しくないおかげで助かった。あの女子高生に関してはわからないが、私が過去を改変した影響で名前が変わっていることを切に願うまでである、
そしてスサノオ様だが、一時は信仰心が大幅に低下したため出禁となった。だが、実感は湧かないが一応私の祖父に当たる神様である。
さらに言えば、織田信長さんはスサノオ様の神官の家系らしい。
そのため、親友のことまで嫌いになりたくありません。自分はもう気にしてないしスサノオ様も反省しているので、どうか許してあげてください。お願いします…と、私は日本国民の前で深々と頭を下げた。
結果、稲荷様がそこまで言うなら…と、民衆が許したおかげで多少持ち直し、天照大神様の教育が終わった後には、何とかこちらに来れるようになった。
しかし、力を振るうには信仰心がまるで足りずに、見た目通りの屈強なおじさんにしかなれない程、格が大幅に落ちてしまったのだった。




