スサノオ
<稲荷様>
その場の勢いでやっちまったことは一旦置いておき、今はスサノオ様への対処をどうするのかを考える必要がある。
あまり詳しいことは知らないが、彼は確か戦いの神だったはずだ。特にヤマタノオロチを討伐した神話は、とても有名である。
そんな相手に、人間から神になって数百年ぽっちの私が勝てるとは思えない。
それでも神気を感じた限りでは私よりは弱そうだが、きっとこのあと三段階ぐらい変身するに決まっている。
そして先程の話を聞く限りは自分は元人間であり、そこに稲荷神の分霊を無理やり融合して復活させたのだろう。
俗に言う直感か超速理解だが、普段抜けている私も極稀に妙に鋭くなる時があるのだ。
それはともかく、つまり地上の稲荷神(私)が力尽きた場合、高天ヶ原には戻れず人間として死ぬことになるのである。
向こうは分霊だが私は、馬鹿め! こっちは本体だ! …という酷い仕様に、何だこのクソゲーはと心の中でツッコミを入れたくなる。
明らかに自分が不利すぎるので、自業自得とは言え何だか泣きたくなってきた。
「まっ、俺も最近運動してなかったしいい機会だ! それに、孫と遊ぶのは祖父の役目だろ?」
どうやら殺伐とした死合ではなく、たとえ負けてもちょっと怪我をさせる程度で済ませてくれるらしい。
紙一重で命拾いしたと思った私は、ホッと胸をなでおろす。
「あー…ですが、少しだけ待ってください」
「何でだ? 俺はいつでも戦えるぜ?」
「ここで戦うと、周辺への被害が大きくなるので…」
スサノオ様はやる気満々という表情だが、私はそうもいかない。
まずは、関係各所への通達と試合の日取りと場所の確保。あとはこの件が終わったら日本国民の大ブーイングにより、神皇の退位は確実だ。
なので隠居ではなく死刑判決となった場合に備えて、今のうちに逃走経路を確保しておく必要がある。
周辺への被害はスサノオ様を説得するのに適していると思ったので何となく口に出したのだが、それが思わぬ結果を招いてしまう。
「お前、そんな小せえこと気にしてんのかよ! 別にいいだろ! 関係ねえ人間がどれだけ死のうとよぉ!
昔ならともかく、今の人間は放っときゃ勝手に増え…」
そこまでスサノオ様が口にしたとき、私は先程までの困った顔ではなく真面目な表情となり、強引に話に横槍を入れた。
「スサノオ様。今の発言を即刻取り消してください」
何百年経っても私は一度として心の底から怒ったことはなく、いつもニコニコしていた。
けれど今は、表情こそ比較的穏やかだったが、両手はワナワナと震えて狐の尻尾も逆立ち、心の中では腸が煮えくり返っていた。
「おっ…おい、…急に怖い顔をして、一体どうしたってんだよ!」
今は自分自身にも感情の制御ができずに、私が怒っている原因に気づかないスサノオ様に余計に腹が立ち、ついカッとなって深く考えることなく大声で喋ってしまう。
「ここに居る人たちは無関係ではありません!
花子さんは身の回りのお世話係です! 太郎さんは政治や経済の相談役です! 浩二くんはジョギング中の話相手で、昨日ようやく補助輪なしで自転車に…!」
自分でも何で感情が爆発したのかよくわからないが、とにかく思いついたことを片っ端から口に出していく。
ここ最近知り合った大切な人たちのことを、本当に何の脈絡もなくスサノオ様に喋って聞かせる。
「それこそ遠い先祖にまで遡れば、関わりがない日本の民など! 一人もおりません!
もし、大切な人の命を奪おうとするなら…!」
戦の神に勝てる気はしないが、日本国民に危害を加えるのならば、たとえスサノオ様だろうと容赦はしない。
続けて私はそう口に出して、間髪入れずに右手を覆うように青白い狐火を灯し、稲荷神として四百年以上生きた中で、初めて死を恐れずに本気で戦う覚悟を決めたのだった。
だが、狐火でスサノオ様を攻撃はしなかった。
何故なら、それよりも一瞬早く、天から眩い光が降り注いだからだ。さらに、間を置かずに厳かな声が辺りに響き渡った。
「稲荷ちゃん。そこまで! あまり熱くならないで!」
私は思わず宙に集まる光に視線を向けると、やがてそれは人の形を取っていき、十秒足らずで和服姿の一人の美女へと変貌を遂げる。
「愚弟の顔色が青を通り越して土気色になっちゃってるから! …そろそろ許してあげてくれない?」
その発言でいつの間にやら白目をむいて気絶していたスサノオ様に気づき、彼を弟と呼ぶ神様となると、それより上か同列であり、対象はかなり限られてくる。
そこで私は、光と共に天から降りてくる美しい女性を見て、とある絵巻物を思い出してハッと口を開いた。
「貴女は、天照大神様でしょうか?」
「そうよ。私が稲荷ちゃんのお母さん…て、今は悠長に自己紹介をする雰囲気ではないわね」
天照大神様がスサノオ様のほうを呆れた表情で見ているので、私も顔を向ける。
相変わらず立ったままで、口から泡を吹き出して気絶している戦いの神様の姿があるが、正直自分もどうしてこうなったのかを理解しきれていない。
自分としてはプンスコ怒っただけであり、まるで何もしてないのにパソコンが壊れるほどに意味不明であった。なので、スサノオ様を威圧して気絶させる偉業を成した。…そんな実感が湧くはずもなかった。
だが、天から降りてきた彼女は気にせず言葉を続ける。
「とにかく、愚弟を高天ヶ原に連れ帰るわ。
そこで厳しく教育するから、先程の暴言は許してやってくれないかしら?」
ペコリと頭を下げる天照大神様を見ていると、先程の怒りが霧散していく。
元々ついカッとなって支離滅裂な発言をしただけだ。私自身も何であんなに腹が立ったのかは、よくわかっていなかった。
いや、実際には日本国民のことを心底大切に思っていることを認めるのが小っ恥ずかしいので、わからないフリをしていたのだ。
だがまあとにかく、照れくさくなった私は話題そらしに丁度いいと考え、天照大神様直々のお願いとスサノオ様は未遂で済んで被害者はゼロだったことを天秤にかけて、だったら別にいいかな。…と、心の中ですんなりOKを出した。
私は表情は真面目に戻してコホンと咳払いしてから天照大神様に向き直り、自分の意思をはっきりと口に出す。
「天照大神様に頭を下げられては嫌とは言えませんので、スサノオ様を許します。
ですが…」
暴言だけでもプンスコしたのだから、もしイタズラに日本人を殺めたら、自分がどのような行動を取るのかわからない。
下手をすれば諌める前に真っすぐ行って右ストレートで殴りかかってしまう。いや、何となくだが確実にそうなって、スサノオ様が泣き叫ぶまで殴るのを止めない未来が見えてしまった。
「ええ、わかってるわ。もし次にまた愚弟がやらかしたら、天之御中主神様に出張ってもらうから」
天照大神様は最高神ではなく、実は天之御中主神様というもっと偉い神様が居るらしい。
具体的に最高神が何をしているのかは知らないが、きっと色々凄いのだろう。ならば任せて安心というやつだ。
「日本神話の最高神にお任せすれば安心ですね」
「あー…うん、普通はそう考えるわよね」
これでもう大丈夫だと安心する私と違い、天照大神様はやけに歯切れが悪く露骨に視線をそらせる。
「どうかしたのですか?」
「いえ、何でもないわ。でも、せっかく地上に顕現したのに、すぐ戻らないといけなくなるなんてね」
愚弟のせいで、また仕事が増えた。…と小声が聞こえたので、天照大神様も色々と大変なようだ。
私は何だか申し訳なくなり、頭を下げて謝罪する。
「色々とすみません」
「ううん、いいのよ。稲荷ちゃんのせいじゃないわ。全部愚弟が悪いんだから」
人間に対する暴言を吐いたり、立ったまま気を失ったりと、何ともお騒がせなスサノオ様だったが、天照大神様はそんな彼の襟首を乱暴にひっ掴む、
「とにかく、私は一度高天ヶ原に帰るわ」
その後、凄く大きな溜息が聞こえてきたので、天照大神様の高天ヶ原での苦労が忍ばれる。
そう言えば彼女はお母さんだと言っていたことを思い出して、少しでも元気づけるために、それを咄嗟に口にする。
「あっ…あの、元気だしてください。おっ…お母さん?」
その言葉を聞いた天照大神様はたちまち輝きが増して、後光まで差した。
もしかして、私が彼女をお母さんと認めたことで、一部の民衆から信仰心ブーストがかかったのかも知れない。
それに精神的にも幾分か和らいだようで、光と共に天に昇りながら、笑顔でお別れをしてくれた。
「ありがとう。おかげで元気が出たわ。色々迷惑かけてごめんなさいね」
「いえいえ、お疲れさまでした」
そんなこんなで疲れた顔をした天照大神様と、最後まで気を失ったままのスサノオ様は、仲良く天に登っていったのだった。
二人が消えた後もしばらく空を見上げていたが、ふと辺りを見渡すと大人も子供も異界からの来訪者も、揃って自分を見ていることに気づく。
普段なら笑顔で手を振って声の一つか二つをかける余裕があるのだが、今はとてもそんな気分ではなかった。
なので私はニッコリと微笑んで小さく会釈したあと、すぐに背を向けて聖域の森の奥へと歩いていった。
(はぁ…何だか凄く疲れたよ。これからどうなるんだろうなぁ)
今後の予定としては、まず我が家に帰宅して心と体を十分に休めることだろう。
何しろ、スサノオ様の暴露が明日のトップニュースになるのと、神皇の退位はほぼ確実だからだ。
とうとう稲荷神(偽)のメッキが剥がれたと言うべきだろうが、惜しまれつつ引退からの面倒事とは無縁な平穏な引き篭もり生活を実現するのは、やはり達成不可能なようであった。
(まあ、メッキを剥がしたのはスサノオ様だけど、…本当にこれからどうなることやらだよ)
先程の天照大神様ではないが、私まで何ともどんよりした気分になって重い溜息を吐く。
それでも家族のワンコたちに慰められて、頭を撫でることで少しだけ元気が出たのだった。




