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稲荷様は平穏に暮らしたい  作者: 茶トラの猫
明治、大正、昭和初期
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退位に向けて

 昭和十八年の世界情勢だが、第二次世界大戦によって多くの犠牲が出た。

 しかし日本やオーストラリアが群を抜いていたからか、ソビエト連邦の軍船や戦闘機の殆どを沈めた他は、被害は殆ど出なかった。

 

 私としては、何よりも日本国民の身の安全が第一だった。

 だが、世界各国がうちの一人勝ちを良く思わないこともわかっている。


 なので復興支援という形でお金や物資を分け与えているのだが、幸いなことに好景気が続いているので、そちらは十分な余裕があった。




 なお敗北したソビエト連邦だが、共産主義は稲荷…ではなく民主主義となった。

 そして新たにロシアという国ができた。


 それ以外にもソ連の工作員が好き勝手して赤く染められていた国々も、連合国の統治の元で思想の変革を強要された。

 特にアジア大陸は酷いもので、日本に近い朝鮮を誰が所有するかで、毎日活発に議論が行われているらしい。




 なお、私としては予想以上の速さで狐色に染まったのを見て身震いしたが、第二次世界が早期に終結したのだ。

 そして何より、うちと相性最悪な共産主義がなくなって日本が平穏無事なのは良いことだと割り切る。


「日本の危機も去ったことですし。私はそろそろ退位したいのですが」

「…稲荷神様。頭のすげ替えが容易な内閣府と違い、貴女様の代わりは何処にも居ないのですよ」


 いつもの謁見の間で日本政府の関係者とくっちゃべっているのだが私は駄菓子の小ドーナツで糖分補給を行い、現内閣総理大臣の東條さんが、呆れたような表情で忠告してくれた。


 確かに不祥事で解散しても、すぐに代わりを見つけて再編成を行えるのが内閣府だ。

 だが私は、一度でも退位したら後釜は誰も居ない。神皇はその時点で絶えることになるのだ。


「しかし、絶対君主制は今の世界では時代遅れだと思いませんか?」

「思いません」

「即答ですか!?」

「返答が遅いよりかは、早いほうがいいでしょう?」


 それはまあ確かに、遅いよりは早いほうがいい。だが論点はそこではない。


 日本の正史には、最高統治者としてやんごとなきお方が存在した。…が、あくまで居るだけで直接政治には関わることは滅多にない。君臨すれども統治せずだ。


 しかし神皇の私は、たとえ数百年経とうが相変わらず最高統治者として君臨している。さらに政治にもしょっちゅう口出しして、日本の舵取りを行ってきた。


 自分が黒だと言えば、国民はたとえ白でもその場で黒く塗り潰すほどの権力を持ってしまっている。


 これではまるで、アジア大陸で文化を大革命したあの人みたいだなぁ…と、私をぼんやりと考える。




 ちなみにオーストラリアも日本に依存しており、こちらがいくら引き剥がそうとしても、そのたびに子供のようにイヤイヤする。


 そして相変わらずうちに帰化するのを諦めていないようで、最近ではいちいち断るのも面倒になってきた。なので、いっそ連邦国として認めてしまおうかと思い始めた。


 だが、そうなるとイギリスとドイツも後に続けと名乗りを上げるのは容易に予想できる。ただでさえ壊れ気味の世界のパワーバランスが、今度こそ完全崩壊するのは目に見えているのだ。


「…ではせめて、神皇は肩書だけにしてくれませんか?」

「それも難しいです」

「…何故ですか?」

「日本とオーストラリアの国力は、世界一と言っても過言ではありません」


 東條さんは渋めの緑茶と相性の良い酒蒸し饅頭をパクパク食べながら、無学な私に丁寧な説明を続ける。


「通常ならば妨害や政治的干渉を受けます。今もないとは言いませんが抑えられています。

 何故かと言うと、稲荷神様が最高統治者として日本の舵を取っているからです」


 私が日本の舵取りをしているため、他国からの突き上げを受けない。

 しかし何故なのかは説明されていないので、頭の悪い狐っ娘はコテンと首を傾げる。


「貴女ならば力を持っても決して悪用せず、諸外国に恩恵をもたらしてくれる。

 世界中でそう信じられているからです」


 確かに今の日本は世界にとってのお医者さんをやっており、相変わらず各国に支援を行っている。

 そんな施しを受けている人たちから見れば、私を本物の女神と勘違いしてもおかしくない。


 つまり、多くの人々に支持されている神皇が日本の最高統治者をやっている限り、他国は表立って文句を言い辛いのだ。


 だが、もし退位か統治権を譲渡したとなれば、話は変わってくる。


 これまで浄化や緩和、もしくは抑圧されていた負の感情が一斉に噴出するのだ。

 そして、日本とオーストラリアが損害を被るだけでなく、世界中が大混乱に陥る可能性すら出てくる。


「では、私は一体いつになったら退位できるのでしょうか?」


 その問に答える者は誰もおらず、皆が一斉に顔を背ける。

 鈍い狐っ娘でも容易に察してしまい、これでは退位不可能ではないかと、別の道を慌てて探す。


「では大きな失敗をして、国民の信頼を失った場合はどうなのですか?」

「日本やオーストラリアだけでなく、他国に対しての貢献度が大き過ぎます」


 これには酒蒸し饅頭を食べ終わった東條さんがすぐに答える。


「三百年以上も平和が続いているのは、稲荷神様あってのことなのです。

 たとえ世界に向けて聖戦の引き金を引いても、味方になる者が多数派を占めるでしょう」


 そっ…そうですか。…と言葉を濁し、私はガックリと肩を落とす。


 確かに、あれやこれやと大雑把な指示を出したのは否定しない。

 だが、それが結果に結びついたのは国民皆の頑張りがあってのことだ。


 既に第二次世界は終結し、これからはテロや紛争という小規模な戦いに変わる。


 まだ冷戦があったかも知れないが、ソビエト連邦は解体されてロシアとなり、共産主義や社会主義も資本主義や自由主義に塗り替えられてしまった。


 つまり正史よりもかなり早いが、主義主張の違いで争う時代は終焉を迎えたと言ってもいい。


「はぁ…まったく、私もいつまで生きられるかはわからないと言うのに…」


 これまでの説明を聞いて、死亡せずに神皇を退位するには、公務を行うのが困難になるほどの重い病気や怪我を負うしかないとわかった。

 だが相変わらず狐っ娘の体は幼いままで元気いっぱいなので、これでは投げ槍にもなろうと言うものだ。


「稲荷神様! 体調を崩されたのですか!?」

「医者を呼べ! 大至急だ! 救急搬送と報道規制も忘れるなよ!」

「無理をせずに横になってください! 貴女に倒れられては、国の…いえ! 全世界の一大事です!」


 今も自分の死に関してポツリと口に出しただけで、上を下への大騒ぎとなってしまった。

 日本は依存度がもっとも高く、二番はオーストラリアだろうか。


 しかし東條さんの説明を聞く限り、世界中にもジワジワと広がり続けているらしい。




 実際の私は老衰とは無縁なロリペタ狐っ娘だ。そしてあと二十年で四百歳の大台を越える。


 世界各国も一個人に頼り切るのは危険だとわかってはいるが、ここまで積み重ねた信頼と実績は無視できない。

 いつか誰かが言っていた稲荷神話というもので、神皇に委任したくなるのは心情としては理解できる。


「違います! 病気ではありません! ただの呟きです! 私は至って健こぅ……!」


 本宮の謁見の間に慌てた様子の医師団が駆け込んできてすぐさま私を取り囲むと、有無を言わさず横に寝かせて素早く担架に乗せる。


 そのまま緊張した表情の各関係者がゾロゾロと同行し、あれよあれよと言う間に外に連れ出され、最寄りの大病院まで緊急搬送された。


 そんな周囲のあまりの取り乱しぶりに、逆にこちらは冷静になる。

 自分には薬が効かないどころかメスも通らないので、できることと言えば脈を取ったり平熱を測る触診か、いくつかの精密検査ぐらいだ。




 なお今回の件の後日談だが、多くの民衆や政府関係者の注目を集めたお騒がせ事件として、堂々と新聞の一面を飾ることになった。


 理由としては、ここ最近の政務の疲れが出たらしい。

 まあ肉体的にはすこぶる健康なのだが精神的に疲れていたのは事実だ。そのおかげで一週間の長期休みをもらえたので、これはこれで良かった。


 我が家にお見舞いの品を届けてくれる関係者に心配をかけて申し訳ないと謝罪し、彼らが帰ったあとは療養という名目でごろ寝しながら、布団の奥に隠していた最新の携帯ゲーム機を取り出して素早く電源を入れ、楽しくピコピコ遊ぶのだった。







 昭和二十一年、東京市が東京都になっただけでなく、昭和東南海地震や昭和南海地震が起きてしまった。

 しかし日本はこの程度ではへこたれずに、元気いっぱいである。


 こっちの沖縄に敵国の軍人は上陸してないし徴兵制も行われていない。

 さらに広島と長崎に原爆が投下されず、ドームもそのまま残っている。


 うろ覚えの本来の歴史とは完全に別方向に進んでいるが、犠牲者が出ない理想的な結果に落ち着いたので、後悔はしていない。


「あー…でも、少しは後悔してるかも」


 いつも通り我が家の縁側に腰かけて、足をブラブラさせながら庭で戯れる子狼たちを微笑ましく眺める。

 そして、第二次世界大戦が終結した後のことを振り返る。


「稲荷神の信者が年々増えてるのは後悔しっぱなしだよ。

 しかもやんごとなきお方が、自分は人間であると宣言しちゃったし」


 日本国民の祖先が日本神話の神々であることは否定していないので、その血が薄くなっただけだ。


 だがこのことで稲荷神への依存度がさらに上がるのは間違いないし、日本が支援を行っている世界各国も徐々に狐色に染まってきている。


 特に共産主義や社会主義であった国では影響が凄まじい。何しろ元は労働階級や貧困層が主に支持していたのだ。


 今では日本からの手厚い支援を受けて、敗戦国だろうと関係なく衣食住を保証し、働き口を斡旋するので、それはもう深く感謝された。

 当然ながらそれは最高統治者である私にも向けられた。




 弱った心の隙間を埋めたと言うか、現実に存在する神様っぽい狐っ娘なので、より信仰のイメージが明確になりやすい。

 なので、とにかく社会的に弱い立場の人々から絶大な支持を集めることになった。




 結果的にキリスト教、ヒンドゥー教、イスラム教などに追いつけ追い越せとなり、今では稲荷教は世界的にメジャーな宗教にランクアップしてしまったのだった。


「わざと失敗しても退位できないなら、やる意味ないしなぁ」


 少し前までは民衆に犠牲が出ない範囲でわざと失敗し、何とか穏便に退位できないものかとあれこれ考えていた。

 だが三百年以上も日本とオーストラリアの平和を維持し、国力を増進してきた実績が大きすぎる。


 ならば、未来の日本では他人をこき下ろしてばかりのマスコミに期待したいところだ。

 しかし全国がこんがり狐色に染まってしまったため、偏向報道は私へのワッショイワッショイばかりでそれも難しい。


「こういうのを八方塞がりと言うんだろうけど、売れっ子漫画家もこんな気持ちなのかな」


 大人気すぎて連載を終わらせてもらえない漫画家の気分に近そう…と、私は肩を落としたまま空を見上げて、風に流される雲をぼんやりと観察する。


 日本とオーストラリアだけでも面倒なのに、世界中で信者が増えればますます辞められなくなってしまう。


「でも売れっ子漫画家でも、人気が落ちるときもあるよね。

 よし、…頃合いを見て退位を切り出す作戦で行こう」


 これならいけると感じて、私はギュッと拳を握る。

 どんな作家やアイドルだろうと、人気の浮き沈みはある。


 つまり私が世界の人たちに忘れ去られるのは、遅かれ早かれいつか必ず訪れる運命である。

 ならばその少し前に退位の話を切り出せば、穏便に片付くだろう。


 何とも蜘蛛の糸のように細い希望だが、一筋の光明を見つけた気持ちだ。


 私はその時が来るまでは今まで通りに稲荷神のフリをして、場当たり的な本音トークを繰り出しながら、適当に過ごせばいいやと考える。


 とにかく基本方針を再設定して元気が出たので、戸棚の奥から北海道のバターサンドを取り出す。

 今日はこれを十時のおやつにしようと、日当たりの良い縁側によっこいしょと腰を下ろして、甘いお菓子を小さな口に入れるのだった。

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― 新着の感想 ―
[一言] キリスト教、仏教、イスラム教などに追いつけ追い越せって、むしろこれらの宗教生きてるのかっていうくらいになってそう。ちなみに三大宗教なら仏教でなくヒンドゥー教。仏教などとかぶってるが日本神道は…
[良い点] 正史より2年早く終わらせてるよ・・・。 [気になる点] 紆余曲折あれ、開祖のキリストやブッダやアッラーの没後も1000年以上宗教が続いてることを考えると開祖じゃないとはいえ生きる御神体だし…
[良い点] 56/57 ・おお、一筋の希望(笑)が。 [気になる点] まぁ退位できるわけないんですけどねw [一言] 駄菓子ドーナツ、ビニール袋に入ってるアレ
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