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徳川吉宗

 正徳から年号は享保に変わり、征夷大将軍も徳川吉宗となった。

 これがあの時代劇で有名な暴れん坊な将軍かと、我が家の縁側で腰を下ろして熱い緑茶で喉を潤しながら、空を流れる雲を眺めて、かつて居た未来の日本に思いを馳せる。


 なお本来なら征夷大将軍にはなるはずのない徳川吉宗だが、これは稲荷神が先程の話をポロッと漏らしてしまったことが原因である。

 それによって徳川吉宗を次代にという流れが生まれ、あれよあれよと言う間に将軍を継ぐことになったのだ。


 ドロドロとした政権争いや暗殺でなかったのは良いことだが、担がれた当人はかなり困惑したらしい。




 とまあ、それはともかくとして、享保七年の十二月、江戸城辰ノ口の評定所前に目安箱が設置された。

 徳川吉宗さんが言うには、これで民衆の訴えが、お上に届きやすくなったとのこと。


 確かにこれまでは私が独断専行で舵取りをしてきたが、もしそれが間違いで国民が不満を溜めていたら大変だ。なので深く頷き、確かにと納得したのだった。




 ちなみに目安箱は、毎月三回、二日、十一日、二十一日に設置されて、格式張った流れはあるものの、まず徳川吉宗さんが書状に目を通す。

 そして記念すべき初回ということもあり、私も江戸城の談部屋にお邪魔させてもらい、一緒に目を通すことになった。


「ええと、稲荷様のおみ足を舐めたい。稲荷大明神様のお姿をもっと拝見したい。稲荷神様の……どっ、どうやら! 民衆の不満は溜まっていないようですね!」

「はっはい、…そのようでございます」


 続けて目を通した徳川吉宗さんも顔を引きつらせていたが私は特に酷く、目から光が消えて死んだ魚の瞳になっていた。


 一応、貧しい人でも治療を受けられる病院があって助かったという書状を、医者をしている小川笙船さんが書いてくれた。

 しかし最後は私へのお礼で締めくくられていたので、大なり小なり稲荷大明神への感謝状や、要望なのは変わりなかった。


「しかし、今日も変わらず天下泰平でございます。それをこうして、目に見える形で知ることができたのです。それだけでも目安箱を設置する価値はあったのでは?」

「…そうですね」


 不満を溜め込んでいる民がいないのは良いことだが、私への信仰心がとても高いことが判明してしまった。


 この問題をどうやって解消すべきかと徳川吉宗さんや幕府の役人と話し合った結果。

 早朝の狼と親衛隊を大勢引き連れての儀式めいた謎ジョギングだけでなく、月に何度か稲荷大社の舞台の上に立ち、短くても良いので民衆の前で本音トークを行うことに決定したのだった。







 享保九年と十五年に大坂と京都で大規模な火災があったが、迅速な消火活動が功を奏して、被害はそれほどでなかった。


 そして続く十七年、私の全国ツアー…もとい、享保の大飢饉が発生した。専門家によると、悪天候が多く、冷夏が長く続いた影響らしい。

 特に中国、四国、九州地方の被害は深刻で、害虫も大発生したようだが、そちらは木酢液の散布により抑えられたので、ある程度は何とかなっている。


 結果的に今回の被害は西日本だけだったので、慰問の範囲も半分で済んで嬉しい限りだ。


 それに農作物の栽培の効率化と輸送時間の短縮、乾物等の長期保存や保存食の多様化、さらに食料自給率も年々増加しているため、今年は米や野菜が品薄で値段が高いな。…ぐらいで済んで良かった。




 なお享保の大飢饉を乗り越えた次の年になると、何故か東日本の人たちから、切実な訴えがあった。


 彼らが言うには、稲荷大明神様が慰問した西日本が羨ましいので、東日本にもぜひ来てください。歓迎の準備をして待っています。…である。


 そしてこれを知った瞬間、私は東日本まで慰問を広げるハメになったが、民の不満を溜めて爆発させるよりはマシである。

 歓迎の準備は割りとどうでもいいが、ちょっと顔を見せるだけで機嫌を直してくれるなら、まあいいかなだ。


 結果的に、にこやかな笑顔で被災地ではない藩を順番に回るという、正直ちょっとよくわからない慰問が、ここにスタートしたのだった。







 享保が終わり、元文が始まった。

 全国ツアーは大好評のうちに終了して、ぜひとも二周目をと要望する日本国民にやんわりとお断りし、懐かしの我が家である稲荷大社に帰還する。

 もうすっかり、江戸が故郷で、聖域の森の奥に建てられた家屋がマイホームになっている。


 それでも変わらず、現代の記憶や思い出は風化せずに残っているので、やっぱりこの体は色々とおかしい。

 しかしいちいち気にしても仕方がないので、北海道からはるばる送られてきた夕張メロンを切り分けて大皿に乗せ、小さな手に持って縁側に運び、よいしょっと腰を下ろす。


 そのまま満面の笑みで小さな口を開けて、シャクシャクと齧りついて、広大な庭で無邪気に遊ぶワンコたちを見ながら、今の幸せを噛みしめるのだった。







 元文四年の五月になり、ロシア帝国海軍ヴィトゥス・ベーリングが派遣した探検船が、日本の仙台湾の牡鹿半島に来航した。


 黒船が来るのは歴史的に有名なので、私でも知ってはいたが、こんなに早かったっけ? …と、私は首を傾げる。


「…ロシア帝国ですか。アメリカではなく?」

「はい、ロシア帝国の所属の探検船だと、そう口にしておりました」


 稲荷大社のお決まりの謁見の間にて、徳川吉宗さんと幕府の役人を交えてお茶菓子を片手に、参加者は身内だけという緩い空気で、重要な相談を行う。


 相手国はロシア帝国で、しかも船長はペリーではないのだ。

 これは私が日本のトップになった影響で、別の黒船が来ちゃったのかも…と、砂糖たっぷりのカステラを、小さな口でモグモグしながら言いようのない不安に襲われる。


「留置所でのカツ丼もタダではありませんよ」

「そちらはロシア帝国の銀貨と紙札で支払ったそうです」


 過去にイタリアの宣教師を捕まえた時は、お金を持っていなかったので、侍に変装するための小道具から立て替えておいた。


 だが今回のロシア帝国の船乗りはカツ丼を絶賛するだけでなく、きちんと代金を支払ってくれたようだ。


「何にせよ、ふらっと寄っただけなら、早々に立ち去って欲しいですね」

「まったくです」


 徳川吉宗さんが同意とばかりに大きく溜息を吐き、湯呑を傾けて温かなほうじ茶をズズーと飲み込む。

 今の日本は鎖国して天下泰平を謳歌しているので、貿易国以外はお呼びでないのだ。


 さらに詳しく理由を聞いた所、ロシア帝国から東の海図を作っている途中であり、日本に寄ったのはたまたまらしい。


 私は、ロシア帝国の探検船に銀貨に見合った水と食料を与えるので、なるべく早く立ち去ってもらうように…と、自分の考えを告げて、緩い空気の対策会議を終えたのだった。







 元文が終わって寛保が始まり、その二年に、関東から近畿にかけて大水害が起こった。


 特に千曲川流域や江戸の被害は深刻で、高潮と大雨が重なり酷いものだ。水が豊富な国なのはいいが、ここまで多いのは考えものである。


 それでも地道に植林を続けたり、崖崩れを警戒して早期に避難したことで、二次被害は防げたほうだ。

 しかし防波堤や堤防は決壊するし、江戸の町も海や川に近い区域は水浸しになるし、本当に踏んだり蹴ったりだった。


 だがまあ命があるだけマシであり、住民は高台に避難することで難を逃れていた。

 家中が泥だらけになっても立ち直りが早いのか、私が大鍋を人間離れした力でかき混ぜ、炊き出しをしている時の皆の表情は明るかった。

 その後すぐに、付近の自衛隊が集合して復旧工事が始まったので、日本国民の雑草のようなたくましさを教えられた。




 寛保三年から翌年一月まで、大彗星が観測された。

 日本国民は教養が行き届いているので、迷信に惑わされたりしないが、夜空を明るく照らす彗星を稲荷大明神様の尻尾と呼んで、ありがたそうに祈りを捧げていた。


 確かに九尾の狐の伝承はあるが、彗星は六本の尾なので三本足りない。

 だが細かいことはどうでもよく、とにかく私に関連付けて面白おかしくお祭り騒ぎができれば、それで良かったらしい。

 今の世界で一番平和を満喫しているのは、間違いなく日本で、次がオーストラリアだと、私は強くそう感じたのだった。




 寛保が延享に変わり、その三年の八月のことだ。

 大坂の竹本座での人形浄瑠璃が、大人気になった。


 東洋の演劇は日本中に広まっているのだが、人形劇で大ヒットとなったのは今回が始めてだ。

 私もお忍びで変装して、蒸気機関車に乗って大坂まで見に行ったが、日本人形と西洋人形が入り交じる、何とも混沌とした演劇だった。


 それでも熱意と面白さは十分に伝わったので、最後まで飽きず楽しんで見物できた。

 見終わった後は大坂観光でもしよう思って席を立ったが、竹本座から外に出た瞬間に、待ち構えていた民衆に取り囲まれて、行きがかり上、街頭インタビューを受けることなってしまう。


 なお、たこ焼きとお好み焼き、串カツやイカ焼き等の各種大坂名物をお供え物として、本場の味を届けてくれると聞き、私はコロッと機嫌を直す。

 結果、記者の質問に気分よく答えていくのだった。




 寛保の次は寛延で、そのまた次は宝暦となった頃、電機産業がいよいよ本格的に動き出した。

 計画の中心となった人物は平賀源内さんで、彼は江戸時代の学者であり、とても頭の良い人らしい。


 この人が全体の指揮を執るようになってからは、トントン拍子に計画が進み、電池、電磁力学、電磁誘導をあっという間に達成した。


 今は発電機の開発を行っていて、現場の者たちは鼻息荒く気合いも充分だそうだ。

 なおこれは国をあげての取り組みなので、親方日の丸はもちろんオーストラリアとの共同開発でもある。

 もはや電球が作られるのも秒読み段階と言っていいだろう。


 そして親日国のオーストラリアから、重要な素材である硅砂を運んでもらっているので、ガラスの準備も万端である。




 電気の発明はまさに日本の夜明けなので、当然のように彼を江戸の稲荷大社に招いて、少し早いが日本勲章を授与することになった。


「えー…平賀源内さんは電池を発明し、日本の発展に多大な貢献をしたことを、稲荷大明神がここに讃え、日本勲章と一万円札を与えます」

「いっ! 稲荷神様に認めていただき! 恐悦至極でございまする!」


 彼の情報を調べるに当たり、少し前は歌舞伎役者に熱をあげていたようだが、今は踏み台に乗って、勲章を首にかける私を見て頬を染めている。

 男色と幼女趣味とどちらがマシかは自分にはわからないが、取りあえず平賀源内さんのことは、一旦置いておくことにする。


 私は速やかに踏み台を下りて次の勲章者に向かって数歩進むと、相手は若い女性だった。


 国のトップが女の狐なのもあるが、男性にも負けない技術者が出てきて嬉しくなる。

 だがどうも熱っぽい視線でこちらを舐め回すように見つめてくるので、この国のロリコン率の高さはちょっと危険かもと、人知れず体を震わせるのだった。

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― 新着の感想 ―
[一言] 目安箱=お稲荷さまファンレター受付箱 とうとうロシアまで・・・イースターエッグがお稲荷さま人形に変化したりして。
[気になる点] 狼死ぬ描写ないですけど、世代交代とかしてますよね?
[良い点] 悲運の平賀源内が幸せそうで何よりです
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