五十五話 終戦(5) 劣勢
<ラヴレンチー・ベリヤ>
一体何処で間違えたのだろうか。
リトルプリンセスを手中に収めたい。そのような考えを抱いた時からかも知れない。
そう私は、ぼんやりと考えていた。
「このままでは遅かれ早かれ、ソビエト連邦は負けますね」
執務室の椅子に深く座った私は、大きく溜息を吐く。
今は世界大戦中なので、皆の心を一つにして外敵に備えなければならないと言うのに、かつてないほどの粛清の嵐が吹き荒れていた。
私は同志スターリンの命令を受けて、逮捕や処刑を行っている。
だからなのか、ソビエト連邦の現状は良くわかっていた。
そうしなければ共産主義を維持できず、国が割れてしまう。
裏切り者を始末するために、自ら手を汚してきたことに後悔はない。
だがしかし、貴重な人的資源や技術を失ったことには変わりない。
辛うじて兵の士気は維持できているものの、戦況的にはジリジリと押し込まれている。
「何もかも、リトルプリンセスのせいですね。
彼女が欧州に参戦してから、ソビエト連邦は負け続きだ」
リトルプリンセスが参戦してからの欧州連合の勢いは、とにかく凄まじかった。
最初期こそソビエト連邦が優勢だったが、あっという間に形勢逆転されてしまった。
さらに工作員を潜り込ませて、共産主義を広める作戦も、成功したのは最初だけだ。
今では逆に稲荷主義に染められ、ソビエト連邦の情報を連合軍に流される有様だ。
「稲荷主義を赤く染めるのは、現状では不可能ですね」
それでも圧倒的な求心力を持つリトルプリンセスが、万が一でも最高統治者を退けば、稲荷主義はたちまち力を失い、日本やオーストラリアは、資本主義へと転向せざるを得なくなる。
下位互換になってしまえば、共産主義に染めることも可能だ。
しかし今はあいにく、彼女は連合国の盟主をしている。
少なくとも第二次世界大戦が終結しないと立場は動かず、余程下手を打たない限りは、退位は不可能だろう。
「諜報員の情報では退位を望んでいる。だが、十中八九は自らの権力を盤石にするための嘘でしょう。
何より、民意が許しません」
今の日本の優位と繁栄は、彼女が神皇に就いているからこそ維持できている。
国際社会でも強い発言力を持っている。
なので、もしリトルプリンセスが退位すれば、株価の暴落どころではなく、下手をすれば内乱が起き、国が割れかねない危機的状況に陥ってしまう。
「そして次に彼女を確保した国が、国際社会で大きな発言力を得て、覇権を握る」
そこは否定したいが、どうやら世界は彼女を中心に回っているらしい。
そう錯覚してしまうほど、小公女の咄嗟の判断力と先見の明、さらに人心掌握術には舌を巻くばかりだ。
「本当に、今回の戦争で理解させられました。嫌と言うほどね」
まるで本物の女神の加護を得たかのように、連合国の士気が一向に下がらずに高いままだ。
これは本当に恐ろしかった。
ソビエト連邦は、撤退すれば共産主義の崩壊、そして粛清が待っている。なので死ぬまで戦うしかない。
だが連合軍は、祖国や友人、またはリトルプリンセスを守るために誇りを持って戦いに臨んでいる。
戦場での死さえも不敵に笑い、甘んじて受け入れていた。
なお彼女は、絶対に死ぬなと厳命している。
そのため、負傷者は衛生兵が速やかに回収して後方に下がらせる。
だがそうでなければ、文字通り死ぬまで戦っていたことだろう。
双方が死を恐れずに戦えば、地力の勝るほうに天秤が傾いていく。
連合軍は国の垣根を越えて互いに支え合い、一糸乱れぬ連携を取っていた。
逆にソビエト連邦は、粛清による恐怖政治で辛うじて内乱を防ぎ、国を維持している状況だ。
ここまで明暗がわかれてしまった以上、もはや我々に勝ち目はない。
そう確信してしまうほど、我々は追い詰められていた。
なので私は、咄嗟に嘆きの声を漏らす。
「リトルプリンセス!
貴女はソビエト連邦と共産主義を滅ぼすために、この世に降臨したのですか!?」
誰も答えてはくれないが、思わずそう叫びたくなるほど、祖国は予断を許さない現状だ。
だが天井を見上げて嘆いたところで、状況は何も変わらない。
唯一幸いだったのは、連合軍の被害を抑えるために、消極的な戦闘しか起きない点だ。
ある程度戦ったら、優勢なうちに速やかに撤退する。
なのでソビエト連邦は戦局的には押されてはいるが、辛うじて国境線の防衛には成功していた。
「本来ならば消耗戦は、ソビエト連邦の得意とするところ。
だが損害を無視して物量で押し潰そうとしても、英雄たちが邪魔でそれも難しい」
アジアではリトルプリンセスが不在なおかげか、こちら側が優勢な戦場も多い。
だが欧州に目を向けると、一騎当千の英雄が暴れ回っているのがわかる。
しかも連合国の盟主が、彼らに日本の最新兵器を貸し出している。
日本の言葉で鬼に金棒という表現があるが、それと同様でもはや手がつけられない有様だ。
「弾薬や燃料が尽きた隙を突いて、ようやく撃墜したのに!
何で生き残り、再び戦場に戻ってくるんですか!」
だからこそ英雄と呼ばれているのだろうが、明らかに異常だ。
重傷だったはずなのに、次の日に包帯を巻いたまま戦場で相見えたという話もある。
そして同盟を組んでいるとはいえ、他国に自国の最新兵器を貸し出すなど、本当にありえないことだらけだ。
各国が自国の損害だけを抑えて互いに出し抜こうとする中で、仲間を信頼して背中を任せるのだ。
リトルプリンセスの豪胆さには、舌を巻くばかりだ。
確かに情報はいつか漏れて技術転用もされるだろうが、国家機密を自ら他国に暴露するような真似をするとは、常識外れにも程があった。
「こっちは粛清に次ぐ粛清だ。今では信頼できる同志も、数少ないというのに」
裏切りや反乱の兆しがあれば即密告し、問答無用で粛清の対象になる。
そうでなければソビエト連邦の共産主義を維持するのは、もはや不可能になっていた。
さらに言えば、動員できる兵力や資源も尽きかけている。
国境沿いの防衛部隊の士気も、大きく低下しつつある。
敵前逃亡や裏切りなどができないよう、これからさらに厳しく取り締まる必要が出てくるだろう。
起死回生の策として、新型爆弾の開発に多額の予算と時間、人材を投入していた。
当然優秀な研究者を集めて着手していたが、彼らは皆ある日突然失踪してしまった。
重要な情報や機材が残らず消えていたことから、他国の工作員の仕業なのは明らかだ。
何とか痕跡を掴んで、犯人の隠れ家に踏み込んだ。
しかし、そこは既にもぬけの殻だった。それでもソビエト連邦からの脱出を急いでいたらしく、いくつかの証拠品が残っていた。
「まさか、稲荷主義がソビエト連邦の奥深くまで潜り込んでいたとは、思いませんでしたよ」
国内に侵入した稲荷主義派が、念入りに準備を進めて、新型爆弾に関わっていた者たちを日本に亡命させたのだろう。
「火事場泥棒とは、よく言ったものですね。
だが彼らも、沈みつつある泥船に、いつまでも乗っていたくはないでしょう」
研究成果や優秀な人材を奪われただけでなく、他の技術者や将校も、今では我先にと亡命を図っている。
捕らえて粛清したこともあるが、これではソビエト連邦の人材不足は、深刻になる一方だった。
「やはりソビエト連邦は、このままでは負けますね」
最高統治者であるスターリンから信頼を勝ち取り、政府の重職に就き、これまで甘い汁を吸ってきた。
だが、今から戦況を覆すのは不可能だ。
私は断腸の思いで、今の地位を捨てる覚悟を決めた。
「まだリトルプリンセスを手に入れていませんが、命あっての物種です。
同志スターリンには申し訳ありませんが、一足先に抜けさせてもらいましょう」
早く亡命するほど、他国へ持ち込む情報に価値が出てくる。
自分の待遇も良くなるため、負けると確定した時に行動を起こすのが一番だ。
「万が一に備えて、亡命の準備を進めていて良かったです」
ソビエト連邦は国土が広い。
なので最戦前である国境沿いでは激戦を繰り広げていても、首都モスクワにはまだ戦火は及んでいなかった。
だがそれも今となっては、さほど長くは保たないと、ヒシヒシと感じるのであった。




