五十二話 日独防共協定(1) ソビエト連邦
五十二話 日独防共協定の最中となります。ご了承ください。
<ラヴレンチー・ベリヤ>
秘密警察を組織したり、同志スターリンの信頼を勝ち取ったりと色々なことがあった。
だが私は未だに、ソビエト連邦を掌握するには至っていない。
それでも、執務室の高級な椅子の座り心地に満足できる立場にはなれた。
そんなある日のことだ。
諜報員が送ってきた書類に目を通して、日本が何故共産主義が広まらないのかを分析していた。
「稲荷主義がこれ程までに脅威となるとは──」
例えるなら資本主義と共産主義者の発展型、または上位互換といったところだろうか。
「そして共産主義では、稲荷主義には勝てない」
天井を見上げながら溜息を吐くが、私の頬は紅潮していた。
何度工作員を送ろうとも、日本は一向に赤く染まらなかった。その相性の悪さが容易に窺える。
さらに細かく分析すると、資本主義でありながら、共産主義の富の分配も取り込んでいる。
権力者や資産家の利益の一部をリトルプリンセスに捧げ、彼女はそれを社会に還元して、経済を回す。
傘下である稲荷大社は清廉潔白を貫き、統治機関のように中抜きや汚職は決して許さなかった。
まさに社会や経済の潤滑油を果たしており、弱者を救済し、日本がより多くの利益や幸福を得られるようにと、活発に動いている。
「まさに豊穣の女神ですね。だがしかし、流石にこれは予想外ですよ」
確かにある意味では国家や社会の理想郷と言えるが、それは富を分配する者が優秀な場合だ。
初代はまだしも、二代目や三代目で失速するのは、各国の歴史が物語っている。
ちなみにソビエト連邦の共産主義も言えることだが、それはそれ、これはこれである。
「やはり、リトルプリンセスは素晴らしい!」
盗聴や防音対策を念入りに行っている執務室で、私は大声で叫んだ。
あまりに興奮しているため、今は彼女のことしか考えられない。
しばらく鼻息を荒くしていたが、やがて少しずつ冷静になってきたので、一旦落ち着くためにコーヒーを入れようと席を立つ。
温かいコーヒーを持って執務机に戻り、息を吐きながら椅子の背もたれに再び体を預ける。
「赤く染まらない稲荷主義は、我が国にとって脅威ですね」
リトルプリンセスも日本も、一見難攻不落の要塞に思える。
しかし多くの諜報員が長年情報収集を行った結果、ある弱点が見えてきた。
「稲荷主義の最大の弱点。それは保守的過ぎることである」
人は誰しもが、自身の幸福や安全、安定を最優先に考える。
悪いことではないが、外に目を向けて変化を受け入れなければ、大局を見誤ることもある。
日本は特にそれが顕著なのに、国際的に優位を保てているのは、リトルプリンセスの威光のおかげと言える。
さらに彼の国の軍事技術は不鮮明ながらも、世界上位と言える。
だからこそ眠れる獅子を起こすわけにはいかず、どの国も過度な干渉は極力控えているのだ。
「しかし、いくら圧倒的な軍事力を所持していようと、守ってばかりでは勝てません」
かつてリトルプリンセスは、自衛隊は専守防衛が基本であると公言したことがある。
つまりこちらが攻め込まない限りは、始終守りに徹するのだ
「リトルプリンセスが降臨してから、実に三百年が経ちました。
しかしその間に海外への派兵、戦争への介入、外国の植民地化は一切行っていません」
せいぜい懐柔策で、友好的な国を増やす程度だ。
日本が軍事力を行使したことは、その実一度もなかったのだ。
また、台湾に攻め込む機会があったにも関わらず、外交的な威圧のみに留めている。
圧倒的な戦力でロシア帝国から対馬を取り戻した時も、戦争に舵を取ることはなかった。
それどころか敵兵の命を助けて、丁寧に送り返しているのだ。
もちろんその後に賠償金をふんだくったが、そこはまあ良いだろう。
とにかく、たとえ共産主義に染められない強国であろうと、保守的過ぎる思想こそが、最大の弱点だと感じたのだった。
「ならば周りから切り崩すまでです」
少し前に共産主義を封じるために、軍事的に手を組もうとイギリスから打診があったが、彼女はそれをきっぱりと断った。
代わりに物資を融通したようだが、その程度ならば大した問題はない。
ようはリトルプリンセスが、重い腰をあげなければ良いのだ。それならば、日本も決して動くことはない。
いくら百獣の王と言えども、眠ったままではソビエト連邦にとっての脅威には成りえないのだ。
「最終目標は日本ですが、一筋縄ではいきません。
先に欧州とアジアに進出するにしても、アメリカが介入してきたら面倒ですね」
同志スターリンも稲荷主義には危機感を持っていた。そのことからも、きっと開戦に踏み切る。
何しろ共産主義と稲荷主義の相性は最悪で、互いの思想がぶつかれば十中八九で押し負けてしまう。
「内部工作で戦力を削ぐに限りますね。幸い、向こうにも同志が居ます」
たとえ戦力的に不利であろうと、リトルプリンセスの力が及ばない欧州やアメリカ、アジア大陸は違う。
既に種は蒔いておいたので、共産主義は問題なく受け入れられている。
運動を活性化させて、軍事や経済を混乱させるのは容易であった。
しかしこれが日本、そしてオーストラリアは既に稲荷主義に染まっている。
こちらの送り込んだ工作員を見つけ次第、問答無用で刈り取られる。
もしくは逆に狐色に染められてしまうので、我々にとってはやはり脅威でしかないのだ。
だが一個人としては評価が違うため、私は興奮気味に声をあげた。
「リトルプリンセス! 貴女は本当に素晴らしい!
だからこそ! ぜひとも私の手で愛したい!」
共産主義に敗北し、日本を追われて心身共に弱りきったリトルプリンセスを、眼前に引きずり出して見下したい。
そして私にひれ伏して許しを請い、縋りつくように自ら体を差し出す瞬間を想像すると、興奮して堪らなくなるのであった。
新たな計画を練ってからしばらく時が流れた。
私は軍部と協議を重ねて綿密な侵略計画を作り上げた後、同志スターリンの執務室を訪れていた。
その場で、椅子に座って真面目な表情でこちらをじっと見つめる友人に、堂々と告げさせてもらう。
「同志スターリン、計画書は読まれましたか?」
「もちろんだ。同志ベリヤ。そのうえで、いくつか尋ねたいことがある」
ソビエト連邦の最高統治者とは、互いに信頼し合える関係である。
それはとても光栄なことだし、砕けた喋り方や一見無謀に見える提案も大目に見てくれるのは、とても助かる。
何しろ現在、我が国では大粛清の嵐が吹き荒れているのだ。
彼の機嫌を損ねた者の殆どが、翌日には不幸な事故に遭っている。
その点で言えば、彼が信頼を寄せて側近にまで取り立てられた私は、事故に巻き込まれる可能性が低いと言える。
無きにしもあらずだが、そうなるまでにある程度の猶予、もしくは前兆がわかるだけでも温情だろう。
そんな考えはともかく、彼が私に質問してきた。
「日本が共産主義に染まる可能性はないか?」
友人の質問に、私は首を振って否定した。
「同志スターリン、日本が共産主義に染まることは、決してありません」
彼は低く唸り、椅子に深く腰掛けて大きく溜息を吐いた。
そして私から視線をそらすことなく、続きを口にする。
「だが稲荷主義は、共産主義を排除はしていないが?」
「それは私が説明せずとも、同志スターリンなら、理由は既にご存知なのでは?」
「むう、……確かにな」
共産主義政党を率いる彼だからこそ、稲荷主義の危険性はよくわかっている。
表向きは敵対してはいないが、水面下では反発しあっている。
しかも思想的には、こちらが押し負けている状況だ。
ソビエト連邦でも何度も議題に上がっているが、対応策が提示できずに保留になっていた。
だが今回私が持ち込んだ書類には、共産主義が稲荷主義を打倒する計画が書かれている。
「開戦に踏み切るしかないか。……他に手は?」
「稲荷主義も共産主義と同じように、世界に広まりつつあります。
時間を与えるのは得策ではありませんし、我々が仕掛けずとも、いつかは互いに潰し合うでしょう」
私は堂々と言い切った。
顎に手を当てて考え込んでいる彼は優れた指導者で、筋金入りの共産主義者だ。彼女の危険性は良くわかっている。
ソビエト連邦は多くの工作員を送り込んで共産主義を広めているが、彼女は何もせずとも勝手に主義者が増えている。
しかも、どちらもほぼ同程度の速度でだ。
たちが悪いのは赤まで狐に染められかねないために、こちらが不利なのは明白だった。
リトルプリンセスは、現実では指一本動かしていない。
そして広めるようにと指示も出てしないが、ソビエト連邦は圧倒的に不利な戦いを挑まざるを得ない状況に、陥っているのだ。
そんな規格外の能力を持つ最高統治者だが、もし我が国と手を取り合って共産主義国家の理想郷を築けば、資本主義を駆逐し尽くすことも容易だったろう。
だがしかし、彼女は天災……ではなく、天才ではあるが、同時に怠け者であった。
重要な仕事の殆どを日本政府に任せて、普段は下っ端が行うような雑用をしている。
はっきり言って、最高統治者のやることではない。
それでも最高統治者でありながら、庶民に歩み寄る姿勢を示しているので、国民の受けはとても良い。
(相変わらず、リトルプリンセスが何を考えているのか。まるで理解ができませんね)
しかし、理解できたこともあった。
それは共産主義を全世界に普及するには、リトルプリンセスが最大の障害になる。
さらに時間をかけるほど彼女の味方は増え続け、ソビエト連邦が不利になるのだ。
「早急に共産主義勢力を増やして、稲荷主義を上回るほどの戦力を手に入れるしかありません」
どんな手を使ってでも彼女を倒さなければ、我々共産主義者は遅かれ早かれ敗北する。
同志スターリンも、心の内ではそれがわかっているので、私の意見に反論はしなかった。
「幸い日本は専守防衛に徹しており、過去三百年に渡り、一度も派兵をしていません」
「……そうか。もはや開戦しか、生き残る道はないのだな」
同志スターリンは最後に大きな溜息を吐き、天井を仰いだ。
そして一分ほど目を閉じて思案した後、緊急会議を開くために他の同志を呼び集めて、開戦に備える命令を下したのだった。




