四十三話 新政府樹立(5) 日清修好条規
明治四年になり、諸外国が色々と騒がしくなってきた。
日本だけは相変わらず平和を謳歌しているが、外交の対応は刻一刻と変化している。
政府の関係者は苦慮せざるを得ないためか、いつもの困った時の神頼みで、私は稲荷大社の謁見の間に呼び出されることになった。
既に全員集合している室内に、取りあえず遅れてやって来た私は、指定席である一段高い畳の上に敷かれた座布団に腰を下ろす。
するといつもの緩い雰囲気ではなく、割と真剣な表情をしている外交官が手を上げて、挨拶はそこそこに状況の説明を始めた。
「先のアヘン戦争やアロー戦争で、清国が敗北したことはご存知かと思いますが──」
役人の説明で、私はテレビのニュースを思い出した。
確かイギリスと清国の間に起こったのがアヘン戦争だ。そして次に、フランスが俺も混ぜろよと連合軍を組んだのがアロー戦争だった。
かなり大雑把で適当だが、両方とも清国がフルボッコにされたことだけは、はっきりと覚えていた。
状況を理解しているので補足の説明は必要ないと小さく頷くと、外交官は続きを口にする
「そこで清国は東洋と西洋の力の差を痛感したのか、国力増強を唱える洋務派が台頭しました」
洋務派とは何ぞやと首を傾げた私を見て、彼はすぐに説明を行う。
「洋務派とは、清国の学問で身心を修め、西洋の学問で世事に応ずべし。
そのような思想を論ずる派閥でございます」
隣の大国が色々と騒がしくなったのは知っているが、いつの間にそんな派閥ができていたのか。
日本はもう、右を見ても左を見ても狐色なので、今さら他の思想や主義が生まれることはないだろうなと、しみじみそう感じた。
だが清国について考えると、キッカケこそ悲惨そのものだが、年月の積み重ねで凝り固まった主義主張を改めようと、新しい派閥が生まれたのだ。
その一点に関してだけは、まあ良かったのではなかろうか。
するとここからが本番なのか、外交官は身なりを正して緊張しながら口を開く。
「そんな洋務派が、数日前に秘密裏に接触してきました。
その目的は、日本と国交を結ぶことです」
まさか水面下で、そのようなことが起きていたとは思わなかった。
対岸の火事でうちは関係ないからと、貿易相手以上の興味を持てなかったことが原因だろう。
何しろ三百年も蜜月の関係を続けているオーストラリアの存在が、あまりにも大きすぎたのだ。
正史での清国と日本の関係がどうだったのかは、私は全然覚えてなかった。
なので別に、ご近所付き合いしなくても問題はないよね? と、二千年代の若者感覚で、かなりドライな対応をしていたのだ。
そもそも未来の日本では、大陸からやって来るのはいつも面倒事だ。そういうイメージがあるので、極力関わり合いにはなりたくない。
しかしそれでも、昔は何かとお世話になっていた隣国なのは変わらない。
なので私は取りあえず結論を保留にして、役人に説明の続きを促した。
「幸いなことに日本国内では、外国勢力を排除するための運動は起きていません」
確かにペリーさんが黒船を率いて開国しなさいとやって来た時も、威圧的な外交だった。
しかし結果を見れば、私がキレただけでなく、外交官の頑張りもあって、脅しには一歩も屈しなかった。
おかげで、平等な条約を締結するに至ったのだ。
ロシア帝国も同様であり、外国はあまり好きにはなれないが、オーストラリアやイギリスとは、比較的良好な関係を築けている。
なので自国民としては、問題が起きない限りは、適切な距離を取って他国と付き合っていければ良い。
それが大多数の意見であった。
だがしかし、政府機関はわざわざ私を呼び出したのだ。
ならば民意ではどうにもならないか、それだけ重要な決断。もしくは、取り扱い注意の案件である可能性が極めて高い。
どちらにせよ中身が元女子高生の日本の最高統治者としては、正直気が重い。
それでも私は稲荷神(偽)なので、日本国民の悩みを聞いて解決に導かないと、面目丸つぶれである。
心の中で嘆きながらも座布団に座って表情を変えずに、大人しく続きを待つ。
「日清修好条規を締結するか否か。稲荷神様のご判断をお聞かせ願えたい」
「ええと、そう……ですね」
予想通りであった。
しかし歴史に詳しくない私は、未来でお隣とどのような条約を締結したのか。
それとも拒否したのかを、まるで覚えていなかった。
外交官から日清修好条規の内容に関して説明を受けるが、まだ仮案であり本決まりではない。
ここから両国の意見をすり合わせていくらしいので、ある程度の修正が効くらしい。
(うーん、だったらやりようはあるかな?)
私は心の中で面倒なことになったと大きな溜息を吐きながらも、まずは先に結論だけを堂々と告げた。
「私は日清修好条規を締結しても、構わないと考えています」
こちらが譲歩するなどもっての外なので、きちんと平等な条約にすべきだ。しかしそこは、後々詰めていけばいい。
だが役人は若干納得がいかないらしく、申し訳なさそうな表情で尋ねてくる。
「稲荷神様、日清修好条規によって得られる利益は微々たるものです。
損をする可能性のほうが高いですが、それでも締結に踏み切るべきなのでしょうか?」
私は口元に手を当てて考える。
つまりは提案を持ちかけられた役人は、義理と人情の板挟みに陥ったのだ。
昔は何かと世話になっていた隣国からの、必死のお願いだ。
たとえ江戸時代以降の日本に、得られる利益が殆どなかった微妙な関係だったとしてもである。
向こうが藁にもすがる思いなのは、容易に想像できる。
だがまあ向こうは戦争に負けようが何しようが、今も強気で押せ押せだ。
そのせいで他国からいらぬやっかみを買い、日本まで厄介事に巻き込まれるかも知れない。
だからこそ明治政府の人たちは、どうしたものかと思い悩んでいるのだ。
頭の悪い私に何ができるわけでもないが、少しでも悩みを軽くするために、今この場に居る者たちにはっきりと告げた。
「話は聞かせてもらいました。清国は滅亡します」
「「「なんだってえー!?」」」
私以外の皆が、揃ってびっくり仰天した。
「ああ、いえ、そんな酷い滅び方はしないと思いますよ。……多分」
「「「多分!?」」」
唐突に話題が変わったように思えるが、これはライトオタクとして、やっておかないといけないお約束である。
なお今言ったことは的外れではなく、そう遠くないうちに人類が滅びたりはしないが、清国が終わるのは間違いない。
「とっ、とにかく! 稲荷神様は清国の終わりが近いとお考えなのですか!?」
「私にとっては近いでしょう。しかし、人間には遠く感じるかも知れません」
歴史に疎い私には、何年何月に新しい国になるかはわからないし、どんな経緯でそうなったのかも不明だ。
なので、その辺りは曖昧に誤魔化しておいた。
だが二千年代には、清国ではなくなっていた。
つまり日本が本腰を入れて協力しない限りは、何らかの理由で滅びるだろう。
しかし私は、自国が巻き込まれるならまだしも、やはり戦争はしたくなかった。
未来でも専守防衛がモットーの自衛隊だし、自分にとっては孫のような視点で見ている日本人を、戦地に送るのは本当に辛いのだ。
私はそんなことを考えながら、ある程度順序立てて説明をしていった。
「たとえ日清修好条規が締結しても、国が滅びては何の効力も発揮しません。
避けるべきは、軍隊の派遣、次世代も有効など、そういった記述は──」
この時点で、謁見の間に集まった役人たちは日清修好条規を結ぶ気になっていた。
先程までは義理と人情の板挟みであったが、今は真面目な顔で詳細を詰める明治政府の関係者たちだ。
私は、これなら大丈夫そうだと安堵する。
日清修好条規が効力を発揮するのは、保ってあと数十年だろう。それまでは、最低限のお付き合いを続けていけばいい。
大陸の国々には散々踏み倒されてきた。ならばこっちは、合法的に決まりを破ってやろう。
そのような会話をしながら腹黒い笑みを浮かべる役人たちを見ていると、やっぱり大丈夫じゃないなこの国はと、私は違った意味で不安を抱いたのだった。




