二十九話 心機一転(1) 別れ
二十九話 心機一転の最中となります。ご了承ください。
また今回の話は鬱展開となります。苦手な方はご注意ください。
元和二年の四月になり、徳川家康さんが大きく体調を崩して、布団から起き上がることができなくなった。
征夷大将軍は既に辞職して次代に引き継いでいるため、江戸幕府を維持するのは問題ないが、それでも私は心穏やかにはなれなかった。
何より長い付き合いの友人が寝込んでおり、もう余命幾ばくもないと聞かされれば、居ても立っても居られない。
私は幕府の役人からそんな話を聞き、まだ早朝にも関わらず、すぐに家を立った。
そして江戸に建てられた、徳川将軍家の屋敷に向かったのである。
朝の八時頃に家康さんの屋敷に到着すると、私の他にも大勢の見舞客が訪れていて、門の外は人混みでごった返していた。
私がどうしたものかと迷っていると、江戸一番の名医と呼ばれるほどに成長した花子さんが門の前に立っていた。
彼女は私を見つけて、にっこりと微笑みかけ、軽く会釈して静かにこちらに近づいてきた。
家康さんと同じく、花子さんも私の友人だ。
しかし毎月の定期検診以外は、そこまで頻繁に顔を合わせるわけではない。
むしろ義姉妹の契りを結んだ桜さんと桔梗ちゃんのほうが、お世話係なので会う回数は多かった。
(そう言えば桜さんは最近腰を痛めたと聞いたなぁ。
桔梗ちゃんは年齢を感じさせないほど若々しいけど、肉体の衰えは深刻らしいし)
古くからの友人である徳川さんの見舞いに来たからか、私は急に旧友に会いたくなってきた。
「稲荷神様、どうぞこちらに」
花子さんは自分を待っていたらしく、道案内を引き受けて先に進む。
私はそれを見ながら何も答えずに、大勢の見舞客で混雑する正門を避けて、壁沿いにぐるりと回って裏門に向かい、警備員を顔パスして敷地内へと入っていく。
人気がなく、よく手入れされた日本庭園を歩いていると、花子さんが足を止めて振り返る。
そして頭を下げながら、静かに声をかけてきた。
「この場に参られるのを、お待ちしておりました」
本当に待ちわびていたようで、シワだらけの顔で嬉しそうに微笑む花子さんを見て、私はとても羨ましく感じた。
「しかし、花子さんは歳を重ねられましたね」
「おかげさまで、六十歳を越えてもまだ現役でございます」
自分はまるで時間が停まっているかのように、全く変化がなかった。
人間のように成長して、老いて、やがて死ぬ。この一連の流れからは明らかに逸脱している。
望んでも決して手が届かない、人が持つ一瞬の命の煌きと、いずれは消え去る寂しさを思う。
少し前に本多さんが亡くなり、さらには昨年信長さんの遺骨が故郷に帰ってきたこともあり、胸が締めつけられるほど苦しくなってくる。
家族である狼との別れも最初は泣くほど悲しかったが、今では子供たちと一緒に笑顔で見送ることができるようになった。
花子さん、桜さん、桔梗ちゃんもそれなりに親しいが、身分が離れすぎているため、適度な距離が保たれている。
本多さんも根っこの部分はクソ真面目であり、自分のことを稲荷神として敬うタイプなので、笑い合ったり気を許せる友人とは言い辛かった。
だが家康さんは違う。
一緒に仕事をすることも多く、よく顔を合わせて相談に乗ってくれていた。
そんな多少なりとも支え合うほど、もっとも親しい間柄の彼が亡くなったら、私はどうなってしまうのだろうか。いつか別れが来るのはわかっていたが、自身がそれを受け止めきれるかは別問題だ。
とにかく今は、家康さんの主治医である花子さんに案内されて、日本庭園から屋敷の中に上がり込む。
そのまま廊下を歩いて、私は彼に面会しようとしている。
しかし一体、どんな言葉をかけたものか。
いつもならば、場当たり的でもすぐに思い浮かぶのに、今日はいくら頭を働かせても真っ白のままだ。
言葉も出ないとはこのことだろうか。
そうこうしているうちに屋敷の廊下を奥へと進んだ先にある、突き当りの部屋に到着した。
ここが家康さんが療養しているという、寝室らしい。
「主治医の花子です。稲荷神様が参られました」
「お待ちしておりました。どうぞお入りください」
家康さんのお世話を行う付き人の声が、襖の向こうから聞こえてきた。
そしてすぐに、あちら側から静かに開けられる。
本当は何重もの襖があったが、無駄な構造だと私が呟いたせいで、今は廊下から壁一枚を越えればすぐ寝室だ。
広々とした畳張りの部屋には趣味の良い調度品と医療器具が並んでおり、中央にはすっかり老け込んだ家康さんが布団に横になっていた。
周りには世話係や医者が集まり、何か異常がないか注意深く観察していた。
それを見て、確か家の外には大勢の見舞客が居たはずだ。その人達はどうしたのだろうと、私はふと疑問に思った。
「稲荷神様が急ぎ来られると聞き、本日は面会謝絶としました」
なるほどと頷き、少々顔色が悪い家康さんに視線を向ける。
すると彼は私を視界に収めて、ぎこちなく微笑みかけ、おもむろに口を開いた。
「少し稲荷神様と話がしたい。皆はしばらくの間、下がっていてくれ」
「かしこまりました」
そう言って付き人や医者、花子さんを含めた全員が、一礼して後ろに下がる。
別に退室するわけではなく、広い寝室の壁際まで距離を取っただけだ。そこから何かあったらすぐ対処できるように、警戒しながら待機している。
家康さんは超重要人物なので、万が一があったら困る。
今の病状は比較的安定しているようだが、いつ体調が悪化するか予断を許さない状況だ。
そんな事情はとにかくとして、私は彼の枕元まで近づく。
「小声でも私の狐耳には十分聞こえるので、大丈夫ですよ」
「ははっ、助かります」
家康さんを気遣った後は、あらかじめ敷かれていた座布団の上に腰を下ろした。
そして私が最初は何を話したものかと考えていると、先に彼から言葉をかけられた。
「改革の志半ばで床に臥せってしまい、申し訳ありません」
いきなり謝罪されるとは思わなかった。
私から見ても家康さんはよくやってくれてるし、既に二代目への引き継ぎは済ませている。
今は秀忠さんが、この国を良くするために一生懸命頑張っている。
そのことは自分も国民もちゃんとわかっている。なので私は、慌てて口を開く。
「家康さんが謝罪する必要は──」
だが私が喋っているのに被せるように、家康さんはなおも後悔の念を吐き出した。
「何より、貴女を一人残して世を去ることになってしまい、本当に、……申し訳ありません」
彼の口からそれを聞いた瞬間、私は完全に言葉を失ってしまう。
本来なら、謝罪する必要はないと病人を気遣うべきなのに、それが一向に口から出てこないのだ。
古い友人で一番仲が良かった家康さんが、自分を置いてこの世を去ってしまう。
わかりきっていた結末だが、断じて受け入れたくはなかった。
「私としては、ただ……残念としか」
我ながら最低だが、彼には逝って欲しくなかった。まだ生きていてもらいたい。
責めも許しもせずに、ただただ残念と告げる。
「そう、ですよね」
だがどれだけ延命治療を施したところで、結局人はいつか死ぬ。それは避けられないことだ。
完全に私のわがままからきた発言だが、彼はぎこちなく微笑むだけで既に自分の運命を受け入れて、なおも私のことを気にかけてくれていた。
「稲荷神様、私と出会ってくれて、ありがとうございます」
別に好きで出会ったわけではない。
あの時は家康さんから、私に会いに来たのだ。
けれど、たとえあの時に出会わなくても、運命的な引き合わせにより、遅かれ早かれ私と彼は邂逅を果たしていた。
直感だがあの場に生まれ落ちた以上、どのような行動を取っても行き着く先は同じ。
そう思うのだ。
「日の本の国に天下泰平をもたらしてくれて、ありがとうございます」
「礼はいりません。全て自分のためにやったことです」
征夷大将軍になって天下を統一するなんて、絶対にやりたくなかった。
けれど未来のような快適で平穏な暮らしを実現するには、避けては通れない道だった。
終わりよければ全てよしとは言えないが、今はまあまあ満足できる結果である。
退位して楽隠居しても、神皇とか訳のわからない位に就かされたり、相変わらず私が日本の最高統治者だとか、いくつか許容できないことはあるため、決して百点満点とは言えない。
それでも日本が平和な限り、表舞台には引っ張り出されない。
事情はともかくとして、その後も家康さんに何度もお礼を言われたり、色んな思い出話をした。
何だか久しぶりに昔に戻ったような、そんな懐かしい時間を過ごしたのだった。
私が見舞いに行って数日後、四月十七日のことだった。
家康さんの病状が悪化して、そのまま帰らぬ人となった。
最後の時まで付きっきりで治療を続けていた花子さんが言うには、胃か食道に腫瘍ができていたらしい。
だが私は始終呆然としており、殆ど頭に入ってこなかった。
粛々と行われる国葬で自分が何をしたのか全く覚えておらず、気づけばいつの間にか葬儀は全て終わっていた。
死に化粧された家康さんが、座棺ではなく横長の棺の中で安らかに微笑んでいたことだけは、はっきり記憶に残り、忘れたくても忘れられなかった。
そして遺体を綺麗に燃やして、遺骨の一部をお墓に入れたその夜、聖域の奥の我が家に帰った私は、食事も取らずにお風呂にも入らずに寝室に直行して、心配そうに様子を伺う狼たちさえも遠ざけた。
枕に顔を埋めて、誰彼構わずに一晩中、ワンワンと大泣きしたのだ。
ちょうど激しい雨が降っていたので、大声を出しても誰にも聞かれる心配がなくて良かった。
それだけが、不幸中の幸いであった。




