二十二話 幕府を開く(8) 植林
月夜の晩に大河を下ってきた私たちは、小田原城で少し遅い食事を摂って、客間で一泊することになった。
なお初日もそうだったが、北条家では毎日お風呂に入る習慣がない。
そのため私は温めたお湯を、あらかじめ用意しておいた大きめサイズの桶に注ぎ入れ、その後に水を足して適温にする。
そして私のために用意された広々とした客室で巫女服を脱いで、カラスの行水のように下半身をゆっくりと沈めて、水滴が飛ばないように気をつけ、清潔な布で体を簡単に拭いた。
わざわざ持参してきたマイ枕と布団のように、やはり簡単とはいえ入浴も毎日しないと落ち着かない。早いところ未来の常識が今の時代にも浸透すれば良いのだが、あらゆるモノが足りないため、一朝一夕にはいかないものだ。
私は取りあえず全身を拭き終わったので水桶から上がり、かれこれ長い付き合いになっている巫女服を着用する。
そして部屋の外に控えているお世話係を呼び、不要となったお湯を何処かに捨ててくるようにお願いし、ついで就寝を告げる。
愛用の布団にゴソゴソと潜り込み、いい加減三河に帰りたいけど余計な仕事が増えちゃったなと、内心で溜息を吐きながら、深い眠りに落ちていくのだった。
次の日、後家さんが作った朝食を美味しくいただいた後は、犬ぞりを走らせて小田原城下の木工職人の元へと向かう。
今回は禿山がこれ以上拡大することを防ぐために、植林に関して話し合うのだ。
すると何処で情報を嗅ぎつけたのか、武田さんの領地から役人がやって来ており、同行することになった。
北条さんと話はついているらしく、私としても環境保護が広まるなら良いことだし、特に断る理由もないのであっさり許可する。
しかし、昨日の敵は今日の友と言うべきか、皆すっかり日本が平和になると信じ込んでいる。
秒読み段階に入っているのは確かだが、その立役者である私は幕府を開いてからの統治計画は、ぶっちゃけ何も考えていない。
相変わらずの行き当たりばったりであるものの、政治や経済に関してド素人な自分としては、出来ることなら日本の舵取りなどやりたくない。
餅は餅屋と言うので、全部松平さんに丸投げしたいぐらいだ。
一歩引いた立ち位置からちょこちょこ口出しはするので、それで何とか上手いこと回っていかないかなと、割と楽観的に考えていたのだった。
なお現在の私は、小田原城下で最大手の木工職人の仕事場にお邪魔していた。
これから木材資源の枯渇状況を改善するための、具体的な案を練るのだ。
ただまあ護衛や付添の役人の数と仕事場の広さが釣り合ってないため、各勢力の代表のみ入室を許可するという条件をつけて会議を行うことになった。
私はお世話係の桜さんが用意してくれた座布団に腰を下ろして、朝食を食べながら即興で考えてきた植林案を口に出す。
「植林に関してですが、木材資源が欲しければ杉かヒノキ。
食料の場合は、桃か栗、または柿を増やすと良いでしょう」
それに対して、かなりのお年らしいおじいさんが、白髭を弄りながら私に質問する。
「稲荷神様、その案を提示した根拠を教えていただけますかな?」
長年林業や木工業に携わってきた誇りがあるのか、言葉遣いは丁寧だが、私のことを過剰に持ち上げない。実に良いと思った。
民衆は自分のことをやたらとワッショイワッショイするので、久しぶりに見た目相応の女の子として見られた気がする。
なので少し嬉しく感じながら、おじいさんに続きを話す。
「まず、杉やヒノキは成長が早く、人が手を加えて枝葉を整えることで、真っすぐ伸ばすことができます」
「ふむ」
殆ど想像だが、もし成長が遅かったら、杉やヒノキがいつまでも国内の木材資源の主力なわけがない。
なお林業に関してはチェーンソーを持ったおじさんが伐採したり、またはぶら下がった状態て枝葉を払ってる場面しか覚えてない。
それでも手入れを怠らなければ真っ直ぐに伸びている姿は、山道を通ればよく見かけていた。
とまあ、色々言ったがそれは建前だ。本当は花粉症の撲滅か軽減を成し遂げたかった。
今現在の日本のあちこちでは禿山化が進行中とは聞いてはいるが、内陸部はまだ軽症である。
なので早いうちから植林を行えば、正史よりもスギやヒノキ花粉が少なくなる。……はずだ。
例えば戦争が起きて木材資源が枯渇し、日本中が禿山だらけになった後に慌てて増やそうとしても、それは不可能と言うものだ。
だからこそ、早いうちから植林をしておく価値は十分にある。そう信じて私は次の説明に移った。
「果樹に関しては、田畑として使える土地が少ない。
もしくは、水場に近寄れない地方にお勧めです」
「稲荷神様、それは我ら武田のことか?」
武田さんの領土の一部では、原因が判明するまで川や田んぼに極力近づかないようにと、お触れを出している。
おかげで今は奇病にかかる者が大きく減少したが、一部地域では収入が不安定になった。さらには困窮する民が出てしまい、早急に何らかの解決策を出さなければ不味い状況だ。
それらの事情を鑑みて、私は肯定だと小さく頷く。
「そう思ってくれて構いません」
しかし実際には、水場に病気の元となる何かが潜んでいるとわかっても、今の時代は稲作が出来なければ、たちまち食糧危機に陥ってしまう。
長期保存が可能で、なおかつ日本の風土に合っている米は、本当に優秀な作物なのだ。
「武田さんの領土では果樹を育てて売り、得た銭で米を買うのです」
「確かに米が足りなければ買えばいい。だがもし、不作や飢饉になったらどうするのだ?」
米相場が安定しているうちは良いが、もし全国的な不作や飢饉に襲われたらどうなるか。
答えは簡単であり、いくら銭を積んでも米が買えなくなり、自領では稲作があまり行えない甲斐は不足分を補うのが難しい。
つまり、たちまちのうちに食料危機に陥るのは確実だ。
それに対して私は、いつも通り何も考えずに、場当たり的にはっきりと宣言した。
「幕府が米倉を開けて甲斐を支援するので、心配無用です」
「しょっ、正気で言っておられるのか!?」
「私は嘘は嫌いですので、いつも本音しか語りませんよ」
未来では、日本政府が食糧支援を行うことなど、別に珍しくはない。
今の時代にやっていたかは不明だが、たとえ戦乱の世とはいえ同じ日本人だ。
私としても見て見ぬ振りをするのは非常に後味が悪いため、出来れば一人でも多く助けたかった。
それでも念の為に、一言だけ釘を差しておく。
「ただし幕府が支援物資を届けるためには、輸送時間がかかることでしょう。
なので甲斐も米倉を作って、日頃から災害への備えは怠らないでください」
もっとも早く詳細がわかる連絡手段は、馬を使っての伝言だ。
なのでもし甲斐が苦境に陥っていたとしても、すぐには知るすべがないし、こっちから物資を送るにも色々と時間がかかってしまう。
「たっ、確かにその通りでござる!
稲荷神様の救いの手が届くまで、我々は何としても生き延びねばならぬ!」
やけに乗り気になっている武田領からやって来た役人に、今の話の何処にそんなテンションの上がる要素があったのかと、少々困惑する。
だが私の足りない頭をいくら捻っても、結局これだという解答が出ないのはいつものことだ。
そのため、さっさと思考を切り替えて、コホンと咳払いした後に次の説明に入る。
「先程の続きですが、果樹はそのまま実を食べるだけではなく、酒にもなります」
「は?」
「葡萄から作ったお酒、ワインに関しては宣教師さんが詳しいです」
日本酒に関しては、現地の職人のほうが詳しい。そしてワインは宣教師のほうがよく知っている。
だがまあ、それを作ったところで日本人の口に合うかは別問題なので、ついでにテレビでバンバン放送している、未来では有名なアルコール飲料を紹介する。
「日本の民の舌には、麦芽から作るお酒のほうが合っているでしょう」
「むっ、麦からも作れるのか!?」
私は否定も肯定もせずに、武田領以外にもやたらと食い気味の役人連中を相手に、ただ静かに微笑むだけだ。
何故なら自分は、詳しい作り方をこれっぽっちも知らないのだ。
ただ夏になるたびにバンバン流れる生ビールのCMを見て、麦芽から作ったという拙い知識や、成分表示もちょびっとしか覚えていない。
なのでいつも通りの丸投げをして、やり過ごすことに決める。
「後のことは宣教師さんに聞いてください。私は外国の文化については、あまり詳しくありません」
「りょっ、了解した!」
ぶっちゃけ私にお酒の製法とか聞かれても困るので、とにかく外国の宣教師さんに押し付ける。
それでも一応助言ならできるよといった主張を忘れない辺り、私も大分稲荷神としての演技が上手くなってきたものだ。
しかし最近は、どちらが本当の私なのか迷うことがある。
もしかしてだが、人間だった頃の自意識が消えてしまうかもと怖くなったが、すぐにこれは乗っ取りではなく融合っぽいと考え直した。
どのような理屈なのかは不明だが、狐っ娘の肉体に私の精神が馴染みつつある。
今までは私は搭乗者として狐っ娘の体を操作していた。それがもうすぐ、我は汝、汝は我と完全に一つになるのだ。
自分としては、現状を理解してもだからどうしたであり、特に何とも思わなかった。
これから日本は三百年ほどの天下泰平に入るので、それだけあれば私は余裕でポックリ逝ける。
多分戦争も起きないので、命の危険もないはずだ。
まあつまり、日本全国が安定するまで征夷大将軍を務めて、適当なところで退位して松平さんに丸投げする。
あとはただひたすらに、悠々自適な平穏な暮らしが続くのみだ。
政治的なゴタゴタや、日本の重大な決断を迫られることもなく、縁側で空を流れる雲を見ながらお茶を飲む。
晩年には、悪い夢だった。いや、いい夢だった……と呟いて、安らかな寝顔であの世に逝くのだ。
ただまあ唯一の不安に思うのは、何故今になって狐っ娘の力が増してきているかだ。
単純に私の精神が肉体に馴染んできただけなのか、それとも他に理由があるのか。
実際にあれこれ考えてもさっぱりわからないし、特にデメリットもない。
なので取りあえずは平穏な暮らしを目指して、これまで通りに適当に頑張ろうと、内心で密かに気合を入れるのだった。




