二十一話 征夷大将軍(1) 北条氏康
征夷大将軍の後となります。事前にお読みください。
<北条氏康>
狐の耳と尻尾を生やした女性が征夷大将軍になったという噂が日本中に広まり、あちこちで上を下への大騒ぎになった。
もはや足利将軍が自ら退位されたとか、何故稲荷神を名乗る幼子に朝廷が位を授けたのかはどうでも良く、これからこの国はどうなってしまうのかという、漠然とした不安のほうが大きかった。
そして一時は日本中に激震が走ったものの、季節が変わって年が明ければ、人の心は多少は落ち着いて冷静になってくるものだが、あろうことか我が北条家に、日本中を騒がせる問題人物から、名指しで書状が届いてしまったのだった。
なので家臣たちは当然として、何処からか噂が漏れたのか城下の民衆までもが上を下への大騒ぎである。
だが当主としての自分まで慌てふためいては恰好がつかないし、周りが大いに混乱しているのを見ると、逆に冷静になるものだ。
これに対した当主である自分は、本拠である小田原城に呼び集めた後、急きょ評定を開くことにしたのであった。
永禄八年になって雪解けを迎えた初春のことだ。
小田原城の本丸御殿、その謁見の間に、領内の主だった家臣たち続々と集まってきていた。
評定の内容は事前に伝えてあるため、私は全員が集まり席についたのを確認し、頃合いを見て真面目な表情で口を開いた。
「これより小田原評定を始める。
皆も既に知っているだろうが、此度は北条家の進退が決まる重要な案件だ。忌憚のない意見を述べて欲しい」
評定の内容だが、稲荷神を名乗る征夷大将軍の命令に従うか否かだ。
一旦保留などという日和見では、相手が許しはしない。少しでも反抗的な態度を取れば、これ幸いと戦を仕掛ける口実にしてくると考えたほうが良い。
だからこそ北条家にとっての進退は、評定の結果で決まると言っても過言ではない。
信頼の置ける家臣たちから、色眼鏡や余計な気遣いのない率直な意見が聞きたかった。
しかしこれには一長一短で気を遣わないということは、感情的な意見もたびたび上がるのだ。だからこそ議論は白熱して罵詈雑言も出てくる。
そしてやはりと言うべきか、元々血の気が多い家臣たちが興奮してツバを飛ばしながら、何やら口々に叫びだした。
「某は反対でござる! 何故関東で幕府を開く必要がある! 自領でやれば良かろうが!」
「然り! そもそも北条家の領地を寄越せなど、大した面の皮の厚さよ!」
「欲しければ力尽くで奪ってみよ! 返り討ちにしてくれるわ!」
まだ若くて血気盛んな家臣たちは鼻息荒く喚き散らし、征夷大将軍ごどき、真っ向から叩き潰してやるわとばかりに、その興奮は高まるばかりだ。
それを見て今度は家臣の一人である松田憲秀が、まあまあ少し落ち着けとばかりに、顎髭を弄りながら飄々とした口調で話し始める。
「確かに、そちらの意見も一理あるがのう。じゃが、敵は征夷大将軍と松平だけではないぞ?
織田、今川、武田、斎藤も味方するじゃろうし、同時に相手取るのは少々厳しくないか?」
彼は北条家の中では重臣に当たるため、他の者より発言力が高い。
なので普段ならば若者たちはあっさり引き下がるが、今回はそうならなかった。
「どれほどの大軍であろうと、難攻不落の小田原城は決して揺るがぬわ!」
彼らの言う通り、小田原城の守りは固い。
たとえ倍の戦力差があろうと簡単には落ちはしないし、逆に敵軍に大きな損害を与えられるだろう。
だが松田は若者の主張をひょうひょうと受け流し、自分の顎髭を右手で弄りながら目を閉じて思案する。
「ふむふむ、確かに小田原城を落とすのは困難じゃろう。さらに周りの城や砦と連携を取れば、大軍であろうと押し返せそうじゃな」
「そうでござろう! 北条家に敗北はござらん! 松田殿もわかっておるではないか!」
地の利はこちらにあるので、連携を取れば敵を押し返すのも不可能ではない。そんな血気盛んな若者に感化されたのか、評定の流れが開戦派へと傾いていく。
だが征夷大将軍と事を構える方針に決まりそうになった時、先程までのらりくらりとした態度で思案していた松田は、ゆっくり瞳を開いてこちらを真っ直ぐに見て、真面目な表情でおもむろに口を開いた。
「恐れながら殿に申し上げます」
いつも飄々とした何処か掴みどころのない松田だが、彼の意見はいつも的確だった。だからこそ家臣の中でも頭一つ飛び抜けて、重臣という立場になっているのだ。
「小田原城に籠城すれば、北条家は生き残る。これは相違ありませぬ」
だが今の彼は姿勢を正して、若干緊張感を持っているので明らかに普段と違う。そんな松田は、さらに言葉を重ねる。
「しかし我らが籠城している間に、小田原城以外の領内の者たちは全て! 征夷大将軍の味方となりましょう!」
重臣の松田からとんでもない意見が飛び出した。
そのことで、驚き戸惑っている若者もの代わりに、成り行きを見守っていた私が尋ねる。
「それはどういうことだ。松田、詳しく説明せよ」
もはや松田は先程までの何処か肩の力を抜いた雰囲気は何処にもなく、忠義に溢れた重臣としての顔を見せて、自らの意見を堂々と口に出した。
「此度の征夷大将軍は、過去に立った者たちとは違いまする!」
何を当たり前なことを思ったが、それでも松田が言うことなので、何処が違うのかを冷静に考えてみる。
「ふむ、見た目は狐の幼女が征夷大将軍を賜るのは、確かにおかしいな」
「いえ、それも十分におかしいのですが──」
そこで彼は一旦言葉を止めて深呼吸してから、緊張気味に口を開いた。
「一言で表すのなら、征夷大将軍としての格が違いまする」
その言葉を聞き、私だけでなく評定の場が騒然とする。
松田が何故そこまで言い切れるのか疑問に思うが、彼は北条家の重臣だ。相応の権力も振るえるため、きっと密かに警戒しており、忍びを使って調べさせたのだろう。
だが驚きはしたものの、それだけだ。
時には無能や天才といった類の人物が現れるのは、戦国の常であり、そこまで珍しいことではない。
「征夷大将軍の格が違うと言ったな。退位された足利殿とは、どの程度の差がある?」
邪魔になるために退位させられた足利義輝様が、そこまで劣っているとは思わない。
大体子供に大人が負けるわけがないのだ。
「天と地の差でございます」
「松田には悪いが、とても信じられん」
これには当然足利将軍が地で、狐の娘が天を指す。松田はこう言いたいのは明白であった。
だが他の家臣たちも自分と同意見だと言わんばかりに、嘲笑したり頷いている。
それでも重臣である彼だけは、真面目な表情を一向に崩さずにさらに説明を続ける。
「子飼いの忍びが今朝持ち帰った情報を、開示してもよろしいでしょうか?」
「申してみよ」
様々な噂が届いているが、そのうちの何が事実なのかは判断がつかない。
自分も忍びを使って調べているが、新しい征夷大将軍がどのような人物かは、未だに明確になっていなかった。
しかし松田が今朝報告を受けたのなら、何か新情報が入ってきたに違いない。それに期待したいところだ。
「ではまず一つ、今代の征夷大将軍は人ではありませぬ」
「狐の耳と尻尾が生えた女子だと聞いているが、それは事実であったか」
こちらはかなり前からわかっていたが、家臣たちの中には信じていない者もまだ大勢居る。
なので彼がわざわざ口にしたのは、段階を踏んで伝える必要があると考えたからだろう。
「然り、しかも妖狐ではなく稲荷神なのは、ほぼ確実かと」
またもや評定の場にざわめきが広まる。
ほぼ確実と言うのは、たとえ信頼できる忍びの情報でも、その目で直接確認した訳ではなかったからだ。
だが松田が言うには、今回比叡山延暦寺を青白い狐火で焼き討ちしたり、多くの僧兵を相手に無双したり、閂のかかった山門を強引に押し開けたりと、目撃者や被害者が大勢出た。
そのため忍びも裏を取りやすく、そういった情報が多く出てくるため、人外の力を認めざるを得なくなった。
今は少し前とは打って変わって興奮が冷め、静まり返った評定の場で、皆は松田が続きを話すのを黙って待つ。
「二つ、稲荷神は民衆の味方でありまする」
これも既に明らかになっている情報であり、隣の大陸から伝わった知識や技術を民衆に教えているらしいが、北条領はごく最近になるまでその恩恵を受けていなかった。
それに領内全てに、彼女の知識や技術が広まっているわけではない。真偽の程はまだ微妙という評価だ。
「民の生活を豊かにするために、知識や技術を広めているのは事実であったか」
「然り、どれも未知の物ゆえに反発が大きいのですが、実際に試した者からは──」
当人は無償で広めるのを、望んでいると聞く。なので盗んだり買ったりする必要はなく、旅の商人から作り方を丁寧に教わった。
とは言え敵勢力の密偵を警戒する必要はあるし、実際に伝わったのは去年からなので、まだそこまで信憑性は高くない。
「三つ、本気で天下泰平の世を目指していることでございます」
この言葉により、評定の場が完全に静まり返る。
争いがなくなり平和になって欲しいのは、この国に住むものならば、誰もが望んでことだ。
だが裏を返せば最高統治者として好き勝手振る舞いたい。人を支配して命令したり、贅沢三昧を楽しみたいと、結局は俗物的な願いに終止する。
長い歴史の中で権力は腐敗を生み、どんな聖人君子であろうといずれは堕落し、無能へと変わる。
だからこそ私は疑問に思い、松田にもう一度尋ねる。
「稲荷神が征夷大将軍になる。その真の目的は何だ?」
「争いのない世であまねく民に五穀豊穣をもたらし、平和になれば即刻退位して次代に継がせ、悠々自適な隠居生活を満喫すること!
これこそが新しい征夷大将軍の真の目的でございまする!」
いつの間にか評定の場は誰一人として発言せず、完全に静まり返っていた。
ちなみにこれは口外していない情報だが、稲荷神はその性格上、嘘や隠し事が大の苦手である。そのせいで赤の他人だろうと、彼女の考えや行動目的はとても読みやすい。
おまけに本人が必死に隠そうとするほど、うっかりや、ポロッと口に出す可能性が高まってしまうのだ。
これらの事情を松田から聞き、正直言葉がなかった。
だが確かに、これは格が違うとはっきりわかった。
銭や権力にはまるで興味がなく、民が平穏に暮らすために尽力し、自らの役割が不要だと感じたら、速やかに身を引く潔さも持ち合わせている。
そんなわかりやす過ぎる理由で行動し、それを成し遂げるだけの知恵と技術を併せ持つ。まるで民衆が望む真の統治者が、稲荷神の姿を持って地上に現れたかのようだ。
これでは、自分や家臣、または兵たちがどう足掻こうと勝ち目はない。
籠城中に他の家臣や領民が寝返るのも当たり前の話で、下手としたら小田原城内の者たちまでもが彼女のもたらす五穀豊穣に飛びつき、主君の元を去っていくかも知れない。
先程とは真逆に、今度は征夷大将軍の要求に従う方向に天秤が傾いたのは明らかだ。
しかし徹底抗戦を諦めきれないのか、若い家臣の一人が若干震えながら声をあげる。
「しっ、しかし! 征夷大将軍の横暴を許せば! 関東はいいように扱われますぞ!」
その言葉を受けて、確かに一理あると考える。
しかし、松田はまるで予想通りとばかりにニヤリと笑い、彼に言葉を返す。
「いや、ものは考えようじゃ。北条とて利はあるぞ?」
「利があるだと? それはどのような利か! 説明していただきたい!」
彼は憤る家臣をなだめながら顎髭を弄り、何処かとぼけた態度で説明を始める。
「まず、戦をせずに北条が従った場合、決して北条はないがしろにはされぬであろう」
確かに松田の言う通りであり、この場合は勝ち馬に乗ると言ったところか。
征夷大将軍の元に馳せ参じた大名は、報告を聞く限りではまだ数名だ。ならば従う時期が早ければ早いほど、重く用いられることになるだろう。
「それに要求された土地は広いが、殆どが使い道のない沼や湿地じゃぞ?
そんな北条でも放ったらかしの領地を積極的に割譲すれば、代わりに高い地位を得られるというわけじゃ」
これを聞いて若い家臣たちは、皆一斉に黙り込む。
頭の中で損得勘定を始めたようだが、わざわざ比べるまでもない。しかし松田は、彼らに言い聞かせるようにはっきりと告げる。
「とすれば、使えぬ領地と新幕府での地位のどちらを選ぶかという話であろう?」
「ううむ! たっ、確かに!」
これには納得せざるを得ない。若い者だけでなく他の家臣も、真面目な表情で松田の話に耳を傾けている。
「もし戦になり、負ければ末席にも座れまい。
だが今なら、十本の指に入るほどの高い立場を得られるはず」
現在判明しているだけでも五つの大国が稲荷神の傘下に入っている。
なのでもし北条家が組み込まれるとしたら、六番目というところだろう。
「それに北条が逆らった場合、他の関東勢が一斉に新たな征夷大将軍に従うこともあり得る。
奴らは北条の上に立ちたいのだからのう」
重臣である松田の言うことはいちいち筋が通っており、もし新たな征夷大将軍に逆らった場合、その瞬間に北条の命運は尽きると言える。
「幾内連合軍に関東連合が加われば、いかに小田原城が固くとも──」
この時点で、評定の結論がはっきりと出てしまった。
もはやこの先を言わずとも容易に察せてしまうため、北条家の当主としての意見を堂々と口に出す。
「新たな征夷大将軍の要求に答え、北条家の領土の一部を渡す! 誰ぞ異議のある者はおるか!」
しばらく待ったが、家臣の誰一人として口を開かない。皆は真面目な表情で姿勢を正すのみだった。
こうして長丁場になることなく、極めて短い時間で小田原評定は終わった。
その後、部下に紙と筆を用意させ、急ぎ稲荷神の要求の返事を認めるのだった。




