十四話 戦わずして勝つ(2) 寄り合い
<ある村の長>
稲荷神様が広めた道具や知識を取り入れることによって、村の生活は昔よりも遥かに良くなっている。
これは誰の目から見ても明らかだ。
特に直接その恩恵を受けている農民にとっては、はっきりとありがたさを感じていた。
……なのだが、一向宗の寺の僧たちは、稲荷神の教えに従うのは禁忌とし、厳しく取り締まるようになる。
おかげで仏罰が下るのを恐れて、役に立つ知識や道具を取り入れるのに二の足を踏む町村も出てきてしまうのだった。
永禄五年の冬、稲荷神の教えを受けた農村の寄り合い所に、各家庭から代表を集めて話し合っていた。
広間の中央の囲炉裏で暖を取り、白湯をちびちびと呑みながら、来年度はどのようにしたものかと各々が真面目な表情で口にする。
とは言え、こういった毎年の方針の殆どは慣習である。
村役を新たに決め直した後は、概ね去年と同じで落ち着くのが常であった。
しかしここ最近になり、無視できない案件が出てきた。
そのため、寄り合いに集められた村民の一人が、それをポツリと口に出す。
「寺の僧たちは、何故稲荷神様を嫌うのでしょうか?」
村の若い者は不満を隠さずに漏らすが、それを儂は顎に生えた白髭を指で弄りながら、白湯に口を付けた後に、のんびりと答えを返す。
「ふむぅ、そう言われても我らにもわからぬのう」
儂のような村の年長者だけでなく、他の者たちも首を傾げるばかりだ。
一向宗の僧たちは、長山村の山中に住んでいる稲荷神様を大層嫌っている。
しかし農民である自分たちには、何故そこまで頑なに拒むのかは理解できなかった。
彼女のおかげで日々の農作業がどれ程楽になり、さらに多くの恵みをもたらしてくれているのか、僧たちが知らぬ訳ではないからだ。
「稲荷神様の道具や教えに、どれ程助けられていることか」
「だが女狐は稲荷神を語るだけの偽物じゃぞ? 道具を使ったり教えに従うと、仏罰が下るのではないか?」
一向宗の寺院がある村は、長山村の稲荷神の教えに従うと仏罰が下ると脅している。
どれだけ便利な道具や知識であろうと、その全てを否定するのだ。
なのでこういった村の集まりならならまだしも、近くに僧がいたのでは、知識や道具を用いることは疎か、名前すらも迂闊に口に出せなくなっている。
「村外れの納屋に稲荷神様の道具を隠し、村民全員が暗黙の了解で利用しているのに。それこそ今さらでしょう?」
飄々とした顔で受け答えをしていた儂は、バレたかと小さく笑う。
実は表向きは一向宗の僧の教えに従順なフリをしているが、裏では千歯扱き等の便利な道具を、寺の関係者には秘密で利用しているのだ。
幸い今のところは仏罰が下ることはなく、困窮していた農村の生活は少しずつだが改善していっている。
「話は変わりますが、春が来たらどうするのですか?」
「はてさて、どうしようかのう」
寺の住職が熱心に話していたが、次の春には三河の殿様が大きな戦を起こす。
さらには年貢を七公三民に変更し、若者や働き手の多くを徴兵するらしい。
いつもならば、これは大事だと村中が大騒ぎになるのだが、今回は少し不自然であった。
冬の初めに行商にやって来た商人から話を聞いたところ、三河国の殿様が戦を起こす気配は微塵もない。
むしろ他国との諍いは、極力回避して自国の発展に努めている。
ついでに言えば住職からその情報を伝えられたのは雪が降り出して、各村との交通が途絶えてからだ。
「しかし行商人も知らぬ裏の情報を、寺の僧が掴んでいるかも知れんぞ?」
「ですが松平様は、稲荷神様が教えを広めてからは、民草を思いやる善政を敷いています」
寺の僧と行商人は、どちらも人から聞いた情報なので食い違うのは良くあることだ。
そして普段ならば、村との関わりが強い住職を信じるところであるが、稲荷神様が現れてからの三河は、これまでとは大きく様変わりしたのも確かだ。
この場合は何を信じれば良いのかは本当に迷うところであり、儂だけでなく寄り合い所に集まった者たちは、皆が難しい顔をしていた。
ちなみに寺の僧たちについてだが、村民と密接に関わってはいるが、さほど地域に貢献しているというわけではない。
それどころか、色々と後ろ暗い噂が絶えなかった。
「確かに村の生活が困窮していれば、疑うことなく一も二もなく僧の話を信じたでしょう」
儂の他にも若者の意見には同意とばかりに頷く。
だがそれでも、誰も続きを口にすることはなく、どうしたものかと深く思案する。
稲荷神様のおかげで村の生活は改善しているのに、それを排除しようと動く一向宗の僧たち。
雪が溶けて春になれば、困窮からの救いと松平の打倒を掲げて、志を同じくする者たちが三河国で一斉に立ち上がる。
「私たちは命を賭ける覚悟をするほど、追い詰められているのでしょうか?」
「寺院の力が強い土地では、稲荷神様の慈悲深いお救いも拒むじゃろうよ」
幸いうちの村は小さな寺で僧の数も少ない。監視の目はかなり緩いと言っていい。
村の寄り合いも外に見張りを立たせているが、この寒々しい寺の外を出歩きたくないのか、それとも春の一向一揆の成功を確信しているのか、とにかく油断しきっているようだ。
「私には、間違っているのは一向宗だと思わざるを得ません」
「ふむ、お主にはそのように見えるか」
一向宗の力の強い土地に住んでいれば、たとえ現実には間違っていたとしても、容易には方針を変えられない。
幸いにして儂や村の者は最初こそ身構えたものの、今ではすっかり稲荷神様の信者に染まっており、おかげで時流に合った判断を下せるようになった。
それでも表向きは一向宗に属しているので、あくまでも従っているフリを続けている。
こういった町村は今の三河では、かなり多いだろう。
儂がそのようなことを考えていると、若者が自らの意見を堂々と口にする。
「ここは春の決起を、一時保留とされてはいかがでしょうか?」
「無駄死には避けたいからのう」
今の時点では、どう動くのが正解なのかの判断が難しい。
幸いにして稲荷神様の教えや道具をこっそり取り入れているので、村の蓄えには少しだけ余裕があった。
命を賭けて一揆を起こすべきか否か、他の町村の出方を見てからでも、決して遅くはないだろう。
「目をつけられると面倒ですので、準備だけはしておきましょうか」
「それはもはや、決起しませんと言っておるのも同然じゃぞ?」
これはしてやられたと若者が自らの頭をぺしりと叩き、先程まで重苦しい雰囲気の寄り合い所が、今は何とも和やかな空気に変わる。
何だかんだ言いつつも生活が安定していれば、命を捨てる覚悟で一揆を起こすのは、愚か者の極みでしかない。
中には寺の僧の不安を煽るような情報に踊らされ、早まった行動を取る者も居るだろう。
だがそんな人間は、ほんの一部だけだ。
なので、問題はどうやって面倒事を回避するかである。
真正面から否定するのは簡単だが、一向宗の寺院はこの村だけではない。
そのため、全面的に敵に回すことだけは避けたかった。
「私たちは寺の僧の言葉を信じます。だからこそ準備だけはしておく。
ですが年貢や徴兵に関しては、まだ何の発表もされていません」
はっきりと言い切る若者を見て、苦笑を浮かべる儂や村の者たちだが、実際その通りなので皆は素直に頷く。
だがまあ何にせよ、これで大まかな結論は出たことになる。我が村の方針は、ここに決定したのだった。
その後、今後の進退を決める重要な判断のため、たとえ雪が降る冬であろうと、他の村々と連絡を取り合うことも決まった。
この決起保留の流れと、信じるべきは仏か稲荷神かの二者択一は、水面下で三河国中に広がっていくことになるのだった。
一方、各地の町村の準備が滞りなく進んでいることで勝利を確信した一向宗の僧たちは、完全に油断していて、春になるまで枕を高くして眠りこけたのであった。




