十四話 戦わずして勝つ(1) 本宗寺の密談
戦わずして勝つの後となります。事前にお読みください。
<本宗寺の僧>
三河の松平は本願寺に賄賂を送って頭を下げて、一揆を起こすのだけは止めて欲しいと弱者のように振る舞っていた。
身銭を切って必死に懇願されれば、相手にとっては悪い気はしないものだ。
そのため、寄付金に免じて今しばらくの猶予を与え、邪教を広める女狐は松平に一任することが正式に決定した。
だがこれは、一時保留しただけに過ぎない。事あるごとにイチャモンをつけて松平を脅しては、たびたび賄賂を搾り取っているのは明らかである。
これらの事情もあり、本願寺の僧たちは欲に目が眩んでいた。
そして彼らが稲荷神を語る女狐を是が非でも滅ぼすべきだったと気づいたのは、永禄五年になってからであった。
彼らが与えた時間のせいで、三河の一向宗は稲荷神に改宗して信者を奪われ、いつの間にやら存続の危機に陥ってしまっていたのだ。
だが永禄五年になったからとはいえ、本願寺に書状を出しても、松平に速やかなる排除を任せたため、もうしばらくの辛抱だの一点張りであった。
まだ欲に目が眩んでいるのか、それとも現状を正しく把握していない無能なのかはわからないが、このままでは三河の宗教勢力図は丸ごと塗り替えられてしまうのは明らかだ。
そのため、本願寺と同じく松平から賄賂を受け取っていた三河国でも高位に存在する一向宗の僧たちは、これ以上放置するのは不味いと、ここに来てようやく危機感を持った。
一方、安城に居を構える本證寺の蓮如の孫である空誓は、本願寺が頼りにならないならば、自分たちで状況を打開するしかないと考え、急ぎ各地の寺に書状を送ったのだった。
そのような経緯があり、三河国の本宗寺に高位の僧たちが一同に集まった。
彼らはそれぞれが持ち寄った酒や肉を贅沢に飲み食いしながら、憤りをあらわにしていた。
「一向宗の信者が稲荷神に改宗するなど、断じて許されることではない!」
「然り! 女狐の邪悪な教えをこれ以上広めるわけにはいかん!」
中には信者が一人も居なくなり、稲荷神社への改宗を余儀なくされた寺もあった。もしくは住職が今もっとも勢いのある女狐に取り入ろうとして、自ら頭を垂れた。
もはや三河国でもっとも信仰されている宗教は、仏教の一向宗ではない。
神道の稲荷神こそが民衆の心を掴み、今現在の最大勢力となっているのだ。
「このような狼藉! 仏がいつまでも見逃すはずがない!」
この場に集った者のどれだけが仏を信じているかわからないが、取りあえず仏罰が下ると叫んでおけば民衆は恐れを抱いて従順になるので、僧とは気楽なものである。
だがそれは、今まではそうだっただけで、これからは違う。
何故なら神罰や仏罰は、稲荷神を名乗る女狐が自分の教えに従う限り、仏罰を全て引き受けると豪語したからだ。
これでは僧が説法を聞かせて民を脅したところで、強制力は殆どなくなってしまう。
まさに神や仏に喧嘩を売るような行為だが、今の所は天罰が下った様子もなく元気いっぱいである。
ならば仏に変わって自分たちが罰を与えるべきだと僧たちは考えた。
そのことで本宗寺の住職が嫌らしい笑みを浮かべて、ゆっくりと口を開く。
「実は昨晩、本證寺から書状が届いたのだ」
「おおっ! では、いよいよ!」
農民たちの不満を爆発させて、小賢しくも賄賂という目眩ましで僧たちを欺いた松平を成敗する。
そして次に、主悪の根源である女狐を民衆の前に引きずり出して、火あぶりの刑に処す。
彼らの頭の中に燃え盛る炎で焼かれ、苦悶の表情で助けを求める女狐が、ありありと思い浮かんだ。
「諸悪の根源である女狐は、民への見せしめのためにも、もっとも惨たらしい最後を迎えさせねばのう!」
「その通りじゃ! 女狐のせいで、我らの儲けがどれだけ減ったことか!」
その分、松平から賄賂が流れてきたので損はしていない。だがここ最近の三河国はかなり豊かになっている。
なので僧たちの取り分が増えても然るべきであると考えていた。
しかし彼らには残念だが、実際の所は増えもしなければ減りもしない。現状維持のままであった。
「準備が整うまで今しばらくの時間が必要となるが、永禄六年の春に三河全土で一揆を起こす!」
「「「おおーっ!!!」」」
密会の場がにわかに騒がしくなるが、人払いは済ませてあるので問題なかった。
いくら一向宗の勢力が弱まっているとしても、遠い先祖の代から三河の地に息づいているのだ。
かつての信仰を呼び覚まし、戦乱の世の不平不満を煽り、一向一揆を国中で引き起こすのである。
彼らは怒涛の勢いで岡崎城まで攻め上り、松平の首を取ることで勝利を確信していた。
「本證寺の空誓様が、我々以外の同志にも檄を飛ばしてくださっておる」
「ふむ、それは良いが、気取られはしまいな?」
「当然だ。松平と女狐には注意を払っておるわ」
何処かの村で一向一揆が起きれば、農民たちは今が決起の時だと理解する。
それこそ連鎖的に不平不満が爆発し、さざ波から大波へと至り三河国を飲み込む勢いにまで大きくなった一揆は、もはや誰にも止められない。
これなら松平の居城を落とすのも容易であり、たとえ女狐が何をしたところで焼け石に水である。
本来の戦国の世の道理ではあるものの、あいにく稲荷神はそのような一般常識には全く当てはまらない相手なのだ。
しかし、高位の僧も誰一人として直接対峙したことはないため、彼女の異常性に全く気づかないのであった。
「それこそ女狐が本物の稲荷神でなければ、一向一揆は止められぬわ!」
「然りよ! 隣の明で聞きかじった知識を、神の御業のように流言飛語して民を惑わすとは!
誠に不届きな女狐よのう!」
日本より技術が進んでいるのが隣の大国である明だ。
彼の国からは、古来から様々な知識や技術が海を越えて伝えられてきた。
それら全ては最初は未知なるものであり、広めた者は民衆の尊敬を集めて大いにもてはやされた。
つまりかの女狐も、狐の耳と尻尾を付けて稲荷神を演じているだけの、見た目相応の小娘に過ぎない。
それを松平が裏から操り、一向宗の対抗馬に仕立て上げた。
これが多くの僧たちが導き出した、満場一致の解答であった。
「松平と結託し、三河国の一向宗を追い出そうとは! 仏をも恐れぬ行いよ!」
「その通りよ! 空誓様は、奴らの目論見などとっくの昔に看破しておるわ!」
「然らば三河全土で一揆を起こし! 松平と女狐を打倒し! 我ら一向宗が、再びこの地を支配してくれようぞ!」
互いに酒を酌み交わす事で酔いが回り、気が大きくなった僧たちは、松平と女狐何するものぞと豪語して、来たるべき永禄六年の春に向けて、声高に語り合った。
そして戦乱の世で困窮する農民たちの不安を煽る説法を行い、深く静かに一向一揆の芽を育てていくのだった。




