十二話 神輿(4) 織田の思惑
この話から六話は他者視点が続きます。苦手な方はご注意ください。
狐視点に戻るのは、八月三十日の予定。
<織田信長>
三河に密偵を向かわせ、内情を探らせるだけでは埒が明かない。そう思ったのは、いつだったか。
別に彼らが無能と言うわけではなく、懸命に仕事をしているのはよくわかっている。
これが斎藤や今川、武田ならば問題なく合格だと断言できる。
だが、松平の内情を探る仕事では、不合格にせざるを得ないのだ。
何故なら、稲荷神を自称する子供のやること成すことが、どれもあまりにも規格外過ぎるからだ。
従来の常識には囚われずに、全く予想だにしなかったことを次から次へと生み出す。
なので現場でそれを目にした密偵は、誰もが大いに混乱する。
さらには、一度に持ち帰れる情報も限りがある。
彼らは皆熟練の密偵であり、裏打ちされた過去の経験に従い、持ち帰る情報を取捨選択する。
結果、不要だと切り捨てたそれこそが、もっとも大切であった。という失態をたびたび犯してしまうのだ。
それに松平が偽装情報を広めたり、他国の密偵の侵入や監視を厳しく取り締まっているため、余計に稲荷神を名乗る者の実態が掴み辛くなっている。
だからこそ埒が明かないと考えた儂は、自ら動くことに決めた。
「百聞は一見にしかずじゃ! 案内をよろしく頼むぞ!」
「よろしく頼むぞ! それで片付けるのも、どうかと思うのですが!」
頼りになる護衛は連れてきたし、三河とは同盟を結んでいる。
しかし戦国の世に絶対はなく、油断は禁物だ。家族や親友に寝首をかかれるのは良くある話だ。
実際に岡崎城下までお忍びでやって来た時は、謁見に応じた松平殿が大いに驚いた。
だがそれもある意味では当たり前のことであったが、好機とばかりに儂を討たない時点で、猪武者ではなく先を見据えた判断ができる知恵者だ。
同盟相手として相応しく、儂の命を対価とした賭けには勝ったと見るべきであった。
その後は渋々ながらも、長山村までの案内を引き受けてくれた。
これらの情報から、やはり儂の見立ては正しかったことが証明された。
今も織田勢と松平勢がそれぞれに分かれて馬に乗り、稲荷神の住居を目指して、秋晴れで涼しい風が吹く街道を進んでいる。
互いにぎこちないものの、別に刀を抜いて害そうとは考えていないようだ。
儂には家臣も含めて、こちらが余程無礼を働かない限り、刃を向けられることは決してないと確信していた。
その理由は、稲荷神が松平の同盟相手として織田を選んだからだ。
松平殿や家臣一同、そして民衆たちが稲荷神に絶大な信頼を置いているのは、密偵の報告で既に明らかになっている。
だからこそ彼女の命令には無条件で従い、その誓いは決して破られることはない。
だがまあ中には逆らう者も居るかも知れないが、少なくとも松平殿は忍耐強い大名だ。
そして現在、彼が同行を許した部下も稲荷神には逆らわないと見ていいだろう。
何よりこれから彼女にお忍びで会いに行くのだ。
ならば稲荷神にお目通りしたい者が松平殿に願い出て、同行を志願するのは当然だと言える。
「しかし三河国に入った頃から感じておったが、稲荷神社が多いのう」
「一向宗の寺の多くが、稲荷神社に改宗しましたからね」
儂は密偵からの情報を頭の中で整理して、今現在自ら見聞きしているものと、答えを合わせていく。
つまりは一向宗の信者が稲荷神へと改宗することで、三河国の宗教勢力図が変化していっているのだ。
「本願寺はどうするつもりじゃ?」
「今さら慌てて動いたところで、時既に遅しですよ。少なくとも、三河に関してはですが」
「なるほど、もはや戦にもならぬか」
一向宗は僧兵を持ってはいるがそれは自衛のためであり、実際に駒として動かすのは農民たちだ。
民衆が抱える不平不満を統治者に向けさせて、一揆という形で爆発させる。
本来ならば本願寺が檄を飛ばした時点で、その波は三河全土に波及して、時には配下の武将までもが一揆に加わり、国を崩しかねない大きなうねりになるのだ。
大名ならば誰もが抱える頭の痛い問題だが、三河国では一向宗を稲荷神が塗り潰しつつある。
彼女は念仏や説法を口に出すわけではないが、これまでの常識とはかけ離れた教えと道具を民衆にもたらし、日々の生活を豊かにしていると聞く。
仏の教えとして心のあり方を説くのは立派だが、それで戦国時代の戦や飢えや寒さなどの、人を死に至らしめる原因が消えるわけではない。
彼らが唱えているのは、痩せ我慢と泣き寝入りである。生き地獄を受け入れて心安らかに過ごすなど、常人には決して不可能なことである。
何より人は、楽な方に流れていくものだ。
もし日々の暮らしが明らかに良くなり、明日への不安がなくなるならば、たとえ悪魔だろうと喜んで尻尾を振る。
さらに相手は見返りを求めず、民衆に救いをもたらす稲荷神であるならば、その教えは瞬く間に国中に広がるだろう。
密偵の報告には、偽装情報が多数入り混じっていた。
だがその中の一部の功績だけでも事実であると仮定するなら、五穀豊穣の神を名乗る資格は十分と言える。
なお、これ程までに稲荷神を奉ったのは、松平殿が原因である。
表では本願寺や三河国内の一向宗に媚びを売ってなだめすかしながら、裏では稲荷神の布教を熱心に行っていた。
だからこそ数年でここまで爆発的に信者が増えて、一向宗の力を大きく削ぎ落とすことができたのだ。
そこで私は、難しい顔をして思案する。
(稲荷神が一向宗に成り代わっただけとも言える。下手をすれば三河国を乗っ取られかねんな)
既に三河全土に広まっているため、多く民衆は彼女が本物の稲荷神だと信じている。
ならば本当の主は松平殿ではなく、神を自称する子供だと思われても不思議ではない。
「危ういのう」
「何か言いましたか?」
儂の微かな呟きは松平殿には聞こえなかったようで。慌てて話題をそらす。
「いや、何でもない。とにかく、早く稲荷神に会いたいものよのう」
だが話題そらしの言葉は、あながち間違いではなかった。
三河だけではなく、日の本の国の行末の鍵を握っているのは、間違いなく稲荷神だと確信しているからだ。
もし彼女が邪な思惑で知識と力を振るっているのならば、戦国の世はさらに激化する。
尾張の立ち位置を慎重に見極めなければ、あっさりと滅ぼされるだろう。
それ程までに稲荷神を名乗る者は恐ろしくて得体が知れず、かつて隣の大国を傾かせた妖狐九尾が正体を偽っている可能性もある。
だがとにかく、直接会って話をしなければ何もわからないのは確かだ。
(さて、鬼が出るか蛇が出るか。何にせよ楽しみじゃのう)
しかし、ここまで心が沸き立つのは久しぶりだ。
儂は稲荷神の思惑を見極め、今後の尾張の対応を決めるために、松平勢と共に長山村へと向かうのだった。




