二話 新しい家族(8) 三河国
<本多忠勝>
長山村に稲荷神を自称する幼子が現れた。
そんな嘘としか思えない噂が、いつ頃からか岡崎城下に流れるようになった。
殿は敵勢力の計略。もしくは神を自称する愚か者だと考えたものの、やはり気になるようで、会議の場で密偵に探らせる方針を皆に伝えた。
拙者は会議に同席しており仕事が片付いた所だったので、ならば自分が行って直接確かめて来るでござる! と、堂々と名乗りを上げる。
殿は大層驚かれていたが、止めても聞かないだろうと思われたのか、苦笑しつつも偵察任務を命じられた。
期限は十日で、それまでには帰ってくるようにと一言釘を差してから、路銀を渡して快く送り出したのだった。
そして今現在の拙者は、ろくに整備がされていない街道を馬に乗ってひた走り、噂の長山村へと向かっていた。
「稲荷神を名乗る物の怪など、拙者の蜻蛉切で一突きよ!」
偵察任務は十日という期限付きのため、そこまでのんびりとはしていられないので、寄り道せずに真っ直ぐに街道を走り、いくつもの関所を抜ける。
太陽の位置を確認するともうすぐ昼になりそうだと思い、あとどれぐらいだと部下に尋ねると、長山村まで一刻も馬を走らせずとも到着する距離まで近づいたらしい。
そう言えば雰囲気が変わった気がして周囲を見れば、街道を行き交う人が明らかに増えていた。
部下たちもこれまでの寂れた街道とは違うと感じたのか、拙者に小声で話しかけてくる。
「三河國一之宮の砥鹿神社への参拝客でしょうか?」
拙者に追従しながらの疑問に、馬を走らせながら思案する。
確かに事前に調べた限りでは長山村から少し離れた場所に、三河国では知らぬ者なしと言えるほど有名な、砥鹿神社がある。
街道を行き交う人々の目的は、その参拝だと考えるのが妥当だ。
しかし、想像だけで物事を決めつけるわけにはいかない。
偵察任務では信憑性の高い情報を持ち帰ってこそである。
万が一、いや……億が一でも砥鹿神社ではなく、噂の稲荷神に参りに来た者も混じっているかも知れない。
なので拙者は動き止めて、しばし周囲を観察する。
そしてたまたま目についた、楽しそうに話しながら拙者とは逆方向に歩いている中年の夫婦にゆっくり近づいて行き、馬上から声をかけた。
「そこの者たちに、少し尋ねたいことがあるのだが、良いか?」
「おっ、お侍様!? はい、もちろん構いません!」
こちらは複数人居て鎧武者姿ではなく麻の服だ。それでも皆が刀や槍を持っているので恐ろしいのだろう。
しかし中年夫婦は若干腰を引けているものの、こちらの質問にはっきりとした答えを返してくれた。
「お前たちは参拝が目的か?」
「へえ、その通りでございます」
となると、やはり砥鹿神社に行ってきたのかも知れない。
それを聞いて拙者も部下も、取りあえずは自分たちの予想が正しいことを確信する。
「ならば、この先の砥鹿神社に行ってきたのだろう?」
「はっはい、確かに砥鹿神社に参拝は致しましたが──」
砥鹿神社に参拝したのは間違いない。ないのだが、何故か急に歯切れが悪くなった。
そんな明らかに狼狽える夫婦を見て、部下の一人が苛立った様子で早く話せと急かす。
すると彼らは小さく悲鳴をあげて地面に座り込み、必死に頭を下げて慌てて喋り出した。
「禁忌を犯して稲荷神様に参拝したのは、ほんの出来心でございます!
ですのでどうか! 命だけはお助けくださいませ!」
夫婦揃って地面に頭を擦りつけて何度も謝罪するが、正直何故彼らがそのような行動を取るのか、拙者にはまるでわからず、部下共々大いに困惑してしまう。
しかしこのままでは埒が明かないため、命を取る気はないと伝えて、謝罪を止めさせ顔も上げさせる。
そして、何故そこまで怯えるのかと率直に尋ねる。
「稲荷神様の偽者に参拝したり、間違った教えを信じるのは禁忌でございます。
私たちの村の和尚様が、破れば仏罰が下ると数日前から言い始めまして──」
そもそもとしてまともな宗教組織ならば規律を守って清廉潔白で然るべきだ。
だが現実の一向宗は腐敗が蔓延し、上層部に賄賂を渡すことで目溢しされ、末端の坊主が好き放題威張り散らすのは、今の時代からすればそこまでおかしなことではなかった。
(開祖の規律を堂々と破り、賄賂や横領が蔓延しても知らぬ振りとは、世も末だな)
それでも中年夫婦は仏の教えを心の底から信じているし、三河は一向宗の力が強い。
もし監視の目がある場合、自分が迂闊なことを口にしたせいで、一揆を扇動されては堪らない。
(とにかく警戒するに越したことはない。一向宗を貶めるような発言は控えねば)
中年夫婦に和尚からの沙汰が下らないことを願いつつも、なるべく早く情報収集を終わらせるべきだろう。
念の為に周囲の者に話を聞かれないよう部下に見張らせながら、拙者は小さく咳払いをして、本題に入ることにする。
「ところで、その稲荷神……様、という輩はどうだったのだ?」
「あっ、あの……どう、とは?」
今の質問では大雑把過ぎて要領を得ないのか、中年夫婦が困惑している。
ついでに彼らの信仰を否定する気はないので、今この場だけでも稲荷神に様をつけてやり、率直に尋ねる。
「稲荷神様は本物か、それとも偽者か。どうなのだ?」
「どうと言われましても、……なあお前?」
「そうですね。稲荷神様は、まごうことなき本物でございました」
これまで沈黙を保っていた中年女性が口を開いて、夫のほうも同意だとばかりに一緒になって、何度も首を縦に振る。
つまり少なくともこの夫婦は、稲荷神様と名乗る輩が本物の神に見えたらしい。
だがいくら神仏の存在が当たり前に信じられるからとはいえ、たった一組の中年夫婦の証言を鵜呑みにはできない。
「では、稲荷神様だと信じるに足る根拠は?」
「私たちの生活を豊かにしてくれたからでございます」
もしかしてだが、稲荷神という輩は奇跡を起こせるのだろうか。
雨を降らせたり天候を自由に操り、怪我や病気を治す。人を超越した力を振るうのは神や仏ならありえるが、一体どのような能力を使うのか気になり、もう少し詳しく尋ねる。
「生活を豊かにとは、どういうことだ?」
だがその力を使って人々の生活を豊かにしたのかだとすれば、彼らが信じるのも当然の話のように思える。
「滑車と洗濯板を広めてくれたのです」
「……はっ?」
自分だけでなく周囲を見張っている部下たちまでもが、酷く困惑して動きが硬直する。
滑車と洗濯板とは何ぞやと思ったが、多分道具や知識の類だろう。
しかしそれを広めるだけで神様として敬われるかと聞かれると、甚だ疑問であった。
「では神としての奇跡、そちらは何かないのか?」
「もちろん、稲荷神様が直接奇跡を起こされた逸話もございます」
「おお! そうか!」
何だか話を聞くたびに困惑が大きくなり、妖怪か神か詐欺師か、それとも敵国の計略なのか、正直なところ良くわからなくなっている。
ちなみに今は、良くわからないがとにかく凄い狐っ娘という評価である。
だがしかし、情報収集を命じられたのに、こんな信憑性の欠片もない胡散臭い代物を持ち帰るわけにはいかない。
そろそろ根拠に足る何かが欲しかったので、自信満々といった表情の中年夫婦を見て、ようやく安心する。
「稲荷神様は常に狼の群れを従えていて、大猪の首を手刀の一撃で切り落として、腹も切り裂いて内臓を手掴みで取り出しました」
「五穀豊穣をもたらすのではないのか? これではまるで、戦いの神ではないか!?」
しかし、普通の人間では到底不可能だ。
だがもしこれが事実であるとすれば、戦闘能力に関しては人間が太刀打ちできない神の領域に至っているという、根拠に成り得る。
ただし五穀豊穣ではなく、荒ぶる神とかそちらのほうに大きく天秤が傾く。
中年夫婦の説明を受けると、ただ力を自慢したかったわけではなく、血を抜いて内臓を取り出すことで、肉の生臭さを消して腐りにくくするのだと理解したが、その割にはやり方が荒っぽすぎる。
しかし稲荷神は日本に伝来する前はダキニ天だったらしいので、戦いも得意なのもあり得るなと考え直した。
「澄んだ水の出る深い井戸をたったの一日で掘り、滑車を作って水汲みの負担を軽くしてくださいました」
「水と知恵の神が混じったのだが?」
この国は八百万の神が存在しており、それぞれ御利益が違う。
しかし天照大神のように複数の加護を持っているのも、そこまで珍しくはない。
だが既に農耕の神として崇められている稲荷神に、戦と知恵と水が追加されるのは、いくら何でも盛りすぎであった。
「洗濯板が広まったおかげで水の節約と汚れ落ちが良くなり、時間も短縮されました」
もはや何も言うまい。
人々の生活を豊かにしているのは間違いないが、謎は深まるばかりだ。しかし、一つだけわかったことがある。
「どうやら、農耕の神ではなさそうだ」
「いえ、農耕に関する道具は近日中に完成するようです」
「そっ……そうか」
一言呟くだけで精一杯だった。
何と言うか彼らの話を全て信じるのならば、あらゆる分野を網羅した万能の神になってしまう。
一応居ないわけではないが、そんなことが出来るのは、仏や日本神話の最高神ぐらいだ。
「もし千歯扱きが実用化されれば脱穀に使う時間が半分以下になると、現場の木工職人から聞きました」
「何っ! それは本当か!?」
「稲荷神様の考案された道具ですので。確かかと」
彼らは稲荷神のことをすっかり信じ込んでいるようだ。
しかし今では自分と部下も、それは無理もない話だと納得する。
何故なら、稲荷神は優れた技術や道具を生み出すが、それを秘匿したり金儲けに使ったりはしない。
とにかく無償で周囲に広めるのだ。
見返りを求めることなく、常に人々の生活を豊かにしようと注力している。
そして神の御業を人にも実用可能な技術に落とし込もうとしており、彼ら自らの手で五穀豊穣という願いを実現させようとしている。
相変わらず彼女の目的はわからないが、少なくとも拙者たち人間の敵ではないことは明らかだ。
中年夫婦との少ない会話の中で朧気だが、そんな稲荷神の姿が見えてきた。
「その稲荷神様に、拙者も興味がでてきた」
「稲荷神様は可愛らしい幼子の姿で、狐の耳と尻尾を生やしておりますよ」
中年夫婦から聞いた稲荷神の容姿は、岡崎城下の噂と一致していた。つまり実在する人物である可能性が高いのだ。
さらに長山村や本人が居る詳しい場所を聞き、世話になった彼らには、情報料として少しだけ金を渡して別れる。
目指すは山の中腹の社務所であり、稲荷神を直接この目で見て本物だという確信を得たい。もはや妖怪であるという可能性は露と消えており、今では強くそう思うのだった。




