千葉県市川市
アメリカ海軍の空母インディペンデンスが入港したり、台風が来たりしたが、日本は相変わらず平和であった。
また、広島の球団が五年ぶりに優勝したりJリーグがブームになったりと、活気があるのは何よりである。
そして時は流れて、平成四年となった。
X日本がドーム公演したり、汚職事件で佐川の関係者が捕まったりと色んな意味で賑やかで、三月になると新しいお世話係が一名追加されることが正式に決定した。
事の経緯を説明すると、いつものお忍びブラリ旅で千葉県市川市を適当に食べ歩いていたときのことだ。
十六時頃にマンション近くの公園を通りかかった私は、近くに停まっていた普通乗用車から一人の若い男が降りてきたのを見かける。
彼は目の前のマンションに向かっているらしく、こちらを見もせずに歩いて行った。
それを一目見た私は、食べかけのたこ焼きを急いで飲み込み、空になったパックをお世話係に渡す。そのまま前を歩く男を慌てて呼び止めた。
「待ちなさい!」
「……はあ?」
何となくだが、彼をこのまま行かせては不味いと思った。深い考えはまるでなく、強いて言えば人相やら直感であった。
「貴方はこれから何処へ行き、何をする気ですか?」
「何だっていいだろうが! ガキには関係ねえよ!」
そう言って若い男は私を無視し、前方のマンションに向けて再び歩き出した。まともな答えが返ってきておらず、目的は不明なままだがやはり放ってはおけない。
なので間を置かずに、もう一度声をかけた。
「質問に答えなさい! でなければ──」
「でなければ何だ? へっ! ガキがいっちょ前に! 生意気言ってんじゃねえよ!」
一瞬だけ振り返った男は私を馬鹿にして、下卑た笑みを向ける。
それでも足を止めることなく、マンションに向かっていくが、忠告はしたのでもう容赦はしない。
私は両足に力を入れて軽く地面を蹴り、前方に勢い良く飛んだ。
「ぶべらっ!?」
なるべく怪我をさせないように手加減しながら、若い男を全方位から滅多打ちにする。
リーチの短さなど全く問題にしないフルボッコ具合は、さながら格闘ゲームの瞬獄殺のようだ。
なお、彼の悲鳴は途中で途切れていたが、どうやら開始一分足らずで恐怖と痛みで気を失ってしまった。
それでも私は一方的に暴行を加えて、数十秒ほどピンボールのように空中コンボを決めるにまで至ったのだった。
結果的に、マンション前の地面に全身怪我だらけの若い男が、脱糞とお漏らし状態で仰向けに倒れて、私はそれに背を向けて堂々と立つという、奇妙な構図ができあがっていた。
格闘ゲームの世界なら、KOとか表示されているはずであるが、それはともかくとして、私は自分のやらかしに気づいて小さな口を押さえて慌てふためく。
「ああ! 一般人に暴力を振るってしまいました!」
「稲荷神様の質問に答えなかったので、これぐらい当然でございます! むしろ死すらも生温いかと!」
怒りの表情のお世話係が庇ってくれたが、そういう問題ではない。
私は彼が何者なのかは知らないし瞬獄殺でフルボッコにするのではなく、肩を持つなどして動きを止めて、穏便に話を聞けばそれで済んだはずだ。
しかし結果はご覧の有様で、若者は全身を青痣だらけにして苦しそうに呻き、マンション前の駐車場にボロ雑巾のように転がっている。
いくら手加減したとはいえ、数分に渡って暴行を加えてしまった。
その際に手加減が上手かったので命に別条こそないが、全治数ヶ月に及ぶ重症である。
「やってしまったものは仕方ありません。この男を病院に連れて行ってください。
彼の目的を聞き出すのは、怪我が治ってからでも構いません。あとは、……入院費と賠償金を用意しないと」
「はっ! お任せください!」
近衛が了承すると、一体何処に隠れてきたのか黒服の護衛があちこちから集まってくる。そして重症の若い男を担架に乗せて運び去っていった。
それを見送って一息ついた私は、今さらながら首を傾げる。
「しかしあの男、本当に一体何者だったのでしょうか?」
「それがわかっている状態で、殴り飛ばしたのではないのですか?」
元々私は深く考えない性格なのは、身近な者は皆知っている。
だがそれでは格好がつかないし、何の根拠もないがふと目についたので一般人をボコボコにしましたと言い張るのは、流石に神皇としてどころか人としてどうかと思った。
「ええと、……彼から悪しき気を感じました」
「「「なるほど!!!」」」
苦しい言い訳だが、関係者一同はあっさり納得してくれた。
実際には一目見てアイツはヤバい奴だという直感が働いて、悪しき気などこれっぽっちも感じられない。
しかしそう言い張ったほうが、信憑性はともかく稲荷神としての格好はつく。
(神様っぽい気の感知することなら、多分できるけど。悪人はわからないや)
最近になっていつの間にかレベルアップしたのか、自らの身体に流れる何かを感じることはできるようになった。
ただ、そのエネルギーが何かなのは、はっきりとはわかっていないため、霊力とか気のようなものだと適当に考えている。
さらに私以外にはそれを持っている人は、周りには誰もいなかった。
なのでぶっちゃけ平穏に暮らしたいだけの自分にとって、全く何の意味もない能力であった。
何はともあれ、これ以上マンション前に留まるのもどうかと思うし、今日はもう家に帰って寝ようと、そそくさ立ち去るように、早足で駅に向かうのだった。
なお後日談となるが、私がフルボッコして病院送りになった若い男は、全治三ヶ月の重症を負うこととなった。
それは良いのだ。……いや、やはりよくはないが、後に判明した事実に衝撃を受けて、些細な問題と片付けてしまった。
まず彼は、病院のベッドの上で目覚めたあと、謎の幼女により、目にも留まらぬ速さで一方的に殴る蹴るの暴行を受けたことを思い出した。
その時のことが余程恐ろしく、精神的なトラウマにでもなったのか、聞かれてもいないのに、何やらベラベラと喋りだした。
これは私が彼に出会った時、何処に行き何をするのか目的を話すようにと尋ねたからであり、同席していた尋問官が他にも質問を行うと、嘘偽りなく素直に応じてくれた。
だがしかし、この若い男の情報が明らかになると、どうやら頭のネジがぶっ飛んでいて、相当ヤバい人物であったことが判明する。
何故なら彼の目的は、一ヶ月前に強姦した女性の家に無断侵入して金品を奪うことであり、その際に目撃者は全員殺すつもりだったと、躊躇なく言い切ったのだ。
それより前にも多数の罪を重ねていたのも問題で、傷害罪、強姦罪、強姦致傷罪、恐喝罪、窃盗罪等、数え上げればキリがなかった。
つまりは、もしあの時私が殴ってでも止めなければ、最悪一家全員を皆殺しにして、金品諸々を残らず奪われていたと言うことだ。
だがまあ運が良ければ、一ヶ月前に強姦された少女だけは助かるかも知れないが、それにしても酷すぎる。
なので私は、被害者の少女にもし良ければ稲荷大社に来たらどうかと誘いをかけた。
ここまで関わってしまった以上は、もう放っておくことはできなかった。
結果、彼女が高校を卒業したら、お世話係が一名追加されることになったのだった。




