9.兄の心境と絶叫
――――ガチャリ。
部屋の扉を閉めて俺、シャロン・リー・グラッツェルはため息を吐いた。自分よりも幼く、それでいてしっかりしている妹がまさかあんなことになるだなんて思ってもみなかった。そして、妹に殆ど依存するような形で懐いていた弟も……。何もできないことが歯痒いし、悔しい。
「シャロン。一体、何だったんだ?」
「問題ありません、父様。どうやらフェリシエンヌがヴィクターの所に行くとはしゃいでいたみたいです」
踵を返して部屋の中へと戻ると、そこには書類を捌く父様とその手伝いをしながらお茶を飲む母様の姿。今回の事故にはやはり、お二人も心を痛めているらしく、フェリシエンヌの寝室の隣のこの部屋から離れようとしない。それだけ心配なのだろう。
「ヴィクターか……あの子はずっとフェリシエンヌにべったりだったからな…」
「えぇ、本当に。もし、ヴィクターがフェリちゃんの足が動かないと知ってしまったら……いいえ、その前にフェリちゃん自身が知ってしまったら…。どうやってフェリちゃんに伝えれば良いの……!!」
渋い顔をする父様の隣で泣き崩れる母様。そりゃそうだ。普段、あれだけ邪険にしていた俺ですら、ショックで寝込む所だったんだから。父様と母様の悲しみは計り知れないだろう。
俺も席に戻って机の上に置いてあった紙束を手に取る。あの事故の翌日、家庭教師の先生から渡されたものだ。中に書いてあるのは今までフェリが学んできたこと。…正直、俺が数年かけて学んだことよりも先のことまで纏められている。
俺が色んなことをサボり始めたのは、何かと制限が多い生活に嫌気が差したからだ。物心ついた頃から、将来は父様の跡を継ぐんだ、とずっと言われてきた。それが苦だと思ったことはなかった。けれど、四つも年下の妹が伸び伸び育っているのを見ていると、何で俺だけが、なんて思った。
フェリが勉強を始めたのは4歳の時。つまり、俺が8歳の時。そして、俺が勉強を始めたのは6歳の時……今のフェリと同い年だ。
家庭教師の先生曰く、フェリは異常なまでに知識に貪欲で、先生が授業をするよりも先に紙に自分で本を読んで学んだことをまとめて、授業は殆ど補足していただけらしい。なんでそこまで、と話を聞いた時は思ったけれど、この紙束を見るとそんな疑問も吹っ飛んだ。
紙束には、フェリが学んだことが事細かに書かれているが、所々に俺が興味を引きやすいように、覚えやすいようにとちょっとした豆知識が書いてあるのだ。どうやらフェリは、俺が『興味が湧かなくてつまらないから』サボっているのだと思っているらしい。つまり、この紙束を作ったのも、わざわざ家庭教師の先生に教えを請うたのも、全部、俺のためだった。
それが分かった瞬間、口煩く小言を言って鬱陶しく感じていた妹が酷く愛おしいものに思えた。それと同時に後悔もした。何にも知らない癖に、俺はなんて態度をとっていたのだろう、と。
だから決めた。しっかりしようって。フェリが目を覚ました時、これありがとうって笑えるように、少なくともここに書いてあることは全部、身につけようって、そう思った。
「……フェリ、楽しそうでしたよ」
先程、目を細めて笑いながら歩いていたフェリの姿を思い出して自然と口角が上がった。そんなフェリの様子を両親に伝えれば、二人ともどこかホッとしたように微笑んだ。
「そうか」
「そう…フェリちゃん、元気そうで良かったわ」
「はい。侍女のマーサを急かしてまでいましたから。今にも走り出しそうでしたよ」
ホッとした二人に加えて言えば、揃って頬を緩ませた。
「………ん?」
「………あら?」
「………あれ?」
三人で湯気の立つ紅茶を口に含んで束の間の沈黙の後、今の会話がおかしいことに気付く。
フェリシエンヌは今、立てないはず。医者も、治癒士――国内で片手で数えるほどしかいない、治癒魔法の使い手も、双方が口を揃えて断言したのだから間違いない。だと言うのに、さっき会ったフェリは普通に歩いていた……?
どうやら父様と母様もその違和感に気づいたらしい。難しい顔をして考え込んでいた。
「シャロン。今さっき、フェリちゃんがいたのよね?」
「はい」
「フェリちゃんはもう歩けないって聞いていたのだけれど……私の思い違いかしら?」
「いえ。俺もそう聞きました」
「……今のシャロンの口振りだと、フェリちゃん、普通に歩いていたように思えるのだけれど…」
「…………歩いてましたね」
母様との短い問答の後、再び沈黙。
フェリシエンヌが、たって、あるいてた……?
フェリシエンヌは、あしが、うごかないはず…。
一つひとつ、頭の中で砕いてみる。…矛盾してないか?
「歩いてたぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
「立っていたのぉぉぉぉぉぉぉぉ!?」
「フェリが立ってたぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
たっぷり数十秒後、カチリと何かが嵌るように繋がった違和感と矛盾の正体にやっと頭が追いついて、腹の底から叫んだ。
父様に叱られるかと叫んだ後に心配になったけれど、父様と母様も叫んでた。




